小悪魔な微笑み(前編)



香坂幸緒





                 



ピピッ!!

   ある秋の日の早朝。
 電子音が聞こえたので、脇の下から体温計を取り出していく。
 そこに表示されている温度を見て、克哉は深い溜息を突いた。

「…37・8度か…」

 昨日から、セキは絶え間なく出まくっていた。
 身体はダルいし、節々も痛む。しかも熱まで出している。
 紛れもなく風邪だった。

  「…今日はやっぱり、休ませてもらうしかないよな…」

 昨日の夕方辺りから、熱が出て頭が働かなくて全然駄目だった。
 結局、自分の分の打ち込み作業は…八課の仲間たちがそれぞれ分担して
やってくれたので…支障は出なかったが、それでも休んで、みんなに
負担を掛けると思うと…申し訳なくなってくる。

「…早めに片桐さんに連絡しないと…」

 ベッドの傍の透明な机の上に置いたあった携帯を手に取り、片桐の携帯に
まず連絡していく。
 片桐は八課の中で一番早く出社しているとはいえ、7時前のこの時間帯では
さすがに自宅か…通勤中のどちらかだろう。
 しかし何十回と呼び出し音が鳴り響いたが、片桐が出る気配はない。

「…今、マナーモードにしているのかな。片桐さんの…」

 片桐は周囲に凄く気を遣う性分である。
 その為、電車に乗る時は必ずマナーモード設定にするのを忘れない。
 しかし…元がおっとりしているせいか、振動の状態だとなかなか電話に
気づかずにいる事も多いのだ。

 ついでにいうと、マナーモードから通常状態に戻すのも忘れている
事が多い。
 その為、仕事中はともかく…時間外は片桐の携帯に繋がらない事が
多かったのを思い出した。

「…後で会社に直接掛けた方が確実かな…」

 そうして、ぎこちない動きで携帯のアラームを…会社の始業時間より20分前に
設定していく。
 もう一つ…保険として、本多の携帯に本日は風邪の為に来れそうにないので
休みたい、という短い一文を送信しておく。
 社会人のルールとして…自分で直接連絡するのが基本だが、万が一…アラームで
起きれなかった事を考えてそうしておく事にした。
 熱でこれだけダルいと起きれない可能性もあるし…連絡なしで休むよりは良い
だろう。そう思い、本多に一通のメールを送っていく。

「わっ!」

 すると送信して1分後には、本多から「大丈夫かっ! 克哉?」という短い
一文だが返信が届いた。
 本多らしい簡潔かつ、素早い返信につい…微笑ましくなっていく。
 一言だけだが、その速さに…本多が心配してくれているという気持ちが
伝わってきて、ついクスクスと笑ってしまっていた。

「まったく…本多ったら…」

 こちらも素早く、「大丈夫だよ。一日寝れば治るだろうから…」と短く打ち込んで
返信していく。
 その作業を終わらせると、ほっと一息を突いて克哉はもう少しだけ
朝のまどろみの中に落ちていった―。

                   
  *
 気づけば、一日がうつらうつらしている内に終わっていた。
 窓を見れば、外は逢魔ヶ時を迎えている。
 夕暮れと夜の境…太陽と月が同時に空の上に存在する短い時間
昔の人間はこの時間帯に魔…人ならざる者と遭遇する、と考えられて
いた時間帯。

 克哉は…鮮やかな橙と白い雲と…そしてゆっくりと降りていく薄い藍色の
闇の帳を…室内から眺めて、学生時代にどっかの小説か漫画に書いて
あった一文を思い出していた。

「…綺麗だな。普段、この時間帯は会社の中にいて…こんな風に
夕暮れをじっくり見る事なんて滅多にないし…」

 一日中寝ていたせいか、背中がひきつるように痛いし…何となく
身体にも力が入っていない気がした。
 ぼんやりと外の景色を眺めている内に…また熱が出てきたのか
頭が朦朧としてくる。

 普段は気ままで良いと思う一人暮らしが、ちょっと切なくなるのが
こういう体調を崩した時だ。
 家族と同居していると時に煩わしい時もあるが、看病して貰えるし
身の回りの事もやってもらえる。
 ―こんな時だけ都合良いというのは承知だが、誰かにおかゆの一つ
でも作って欲しいな…と思う。

「たまごの入ったお粥…食べたいなぁ…」

 しかし悲しいかな、一人暮らしでは…食べたかったら、自分で作らないと
いけない。

「喉も渇いたしな…薬も飲まないといけないけど、何か食べてからじゃないと
胃がやられるし…」

 朝に片桐に直接電話してから、2回くらいトイレに立ち上がってその度に水分を
摂った以外に本日は何も口にしていない。
 丸一日以上、胃に何も入れていない事になる。
 寝ていればそれも紛らわせられたが、空腹もそろそろ限界だ。

「…こんな時、もう一人誰かが…いたらな…」

 そう呟きながら、克哉は荒い吐息を零していく。
 脳裏に色んな人の面影が浮かんで、消えていった。
 ―弱っている時、自分は果たして誰に傍にしてもらいたいのだろうか。
 自分の家族、かつて別れた彼女―今身近にいる八課の仲間である片桐さんか
本多か、それとも…御堂さんか、太一か…もしくは…。

「…ったく、普段は…突然前触れもなく顔出して、オレを困らせるだけなのに…
どうしてこういう時に手助けの一つもしてくれないんだか…」

 ふと、もう一人の自分の顔が浮かんでは…消えて、ついぼやきの一つも
漏らしてしまう。
 どうして…思い浮かんだのか、自分でも判らない。
 あんな身勝手で、意地悪で…こっちを困惑させるような真似しかしない奴
だというのに。

「…それでも、いて…くれたら、な…何か今日は、参っているな…オレ…」

 ベッドの上で…両手で顔を覆いながら、つい…弱音を零してしまう。
 多分久しぶりに風邪なんて引いて…弱気になっているだけだ。
 自分でもそう思うんだが…何となく、誰かの温もりが無償に恋しくて
仕方なかった。  

 最後に人と温もりを分かち合った相手がよりにもよって…眼鏡を掛けた
もう一人の自分という訳の判らない事になっているから、そんな妙な事を
考えているだけだ。
 そう考えて、克哉は…また、緩やかに意識を落としていく。

 ―どれくらい、時間が経ったのだろうか。
 何か良い匂いが…部屋の中を漂っている。
 これは…自分が望んでいた、お粥の匂いだろうか。
 台所の方から、明かりと…人の気配を感じる。

(誰だ…? 誰か来て…オレに何か作ってくれているのかな…?)

 身体を起こして、台所の方を見ようとするが…空腹の為に…それくらいの
力すら入らない。
 それでもモゾモゾとベッドの中で動いている内に、ドスドスとちょっと
荒っぽい足音がこちらに近づいてきた。

「…やっと起きたか…<オレ>」

 低く掠れた、何度か聞き覚えがある声。

  「えっ…?」

 顔をゆっくりと上げると…額に何故か青筋を立てて不機嫌そうにしている
もう一人の自分と目が合った。

「どうして、お前が…ここに…?」

 さっき…確かにこの男の事を考えていたけれど、こうして本当に現れると
戸惑いしか感じない。
 これならまだ…本多が台所に立って、「風邪引いているのなら栄養バンバン
つけないとな!」とか言いながらあのダイナミックなカレーを作っている場面に
遭遇した方が驚かなかっただろう。

「うるさい。少し大人しく黙っていろ…」

「わわっ!」

 そうして、問答無用に何か冷たいものを貼り付けられた。
 ―それが冷えピタである事に気づいた時…克哉はもしかして、この男は
自分を看病しに来てくれたのか…? などとつい甘い事を考えてしまっていた―。

「…お前はバカか?」

 冷えピタを貼られて、第一声がそれだった。

「…顔合わせた早々、人をそんなバカ呼ばわりしなくたって良いじゃないか…」

 少し怒っている風な相手に気後れして…弱々しくしか言い返せなかった。

「…風邪なんて、自己管理が出来ていない証拠だ。…まったく、そんな状態で
俺を呼ぶとは…イイ根性をしているな。お前は…」

「よ、呼んだって…俺が…?」

「そうだ」

 …確かに、さっき少しだけ…もう一人の自分の事が頭を過ぎっていた。
 しかし…柘榴の実を齧る事なく、彼が自分の目の前に現れたのは初めての
経験だったので…克哉は軽いパニック状態に陥っていた。

「…そんな空腹の状態で俺を起こしてくれたもんだから…おかげで
俺も強烈な空腹感を覚える羽目になった。…いつまでもそんなのは御免
だからな。…仕方なくこうして作ってやる事にした。感謝するんだな…」

「えっ…?」

 こちらが驚いている間に、眼鏡は台所に向かって…お粥が入った皿を
乗せたお盆を運んで来た。
 一杯の水が入ったグラスに、スプーンが添えられていた…それを見て
克哉は再び、驚くしかなかった。

「これ…本当に、お前が作ってくれたのか…?」

「…不本意だがな。食えるか…?」

「…ん、けど…起き上がるの辛い、かも…」

 丸一日以上食べていない身体は、熱っぽい上に力も入らない。
 ベッドから起き上がって食べるのも何となく億劫な気分だ。

「…仕方ない。俺が食わせてやる」

「えぇ!!」

 今日の眼鏡は、通常からかけ離れた言動ばかりするので本気で
こちらは驚かされっぱなしだった。

「…お前がそのまま空腹でいると、俺もその苦痛を味あわされるんだ…。
仕方がないだろう…」

 溜息をつきながら、眼鏡が…克哉の枕元にお盆を載せて、スプーンで
一口分のお粥を掬い取ると…何とそれを吹いて冷ましてから克哉の口元に
運んでくれた。

「…毒、とか変な薬は入ってないよな…?」

「酷い言い草だな…<オレ> 今はお前と若干感覚を共有させられている
状態だから、そんな真似したら…俺の方にも被害が出るからな。
 そんな馬鹿な真似はしないさ…」

「そうなのか…? 判った…頂きます…」

 何となく眼鏡が不機嫌そうなので、それ以上は余計な事は言わずに
お粥を口に運んでいく。
 うっすらとオレンジ掛かった色のタマゴ粥は…ほんのりとした酸味と、
コショウの風味が良く効いていて…とても美味しかった。

「あれ…ちょっとほんのりと酸味があって…美味しい…」

「香り付けに柑橘類を少々入れたからな。悪くないだろ…」

「へえ…うん、良い香り。こういう使い方もあるんだね…」

 そういえば昔読んだ本の中にそんな小技が載っていた気がするが
眼鏡を掛けた状態の自分はしっかりとそれを生かしているらしい。
 何口かスプーンでそうやって、お粥を運んでもらうと…やっぱりこの相手が
そんな優しいことをしてくれるのが信じられなくて、けど…嬉しくて…克哉は
目を細めて笑んでしまう。

「…何を笑っているんだ…?」

「いや…何か、一人で今日は心細かったから…。何かこういう風に優しくして
もらうと…凄い、嬉しいなって…そう思って…」

「…優しい? 俺がか…? 俺は止むを得ずにこうしているだけだとさっき話したと
思うが…?」

「うん…それは承知の上なんだけどね。でも…やっぱり、俺は嬉しいんだよ…」

 そう言われて、不可解だと言いたげに眼鏡の顔が不機嫌そうになっていく。

  「…相変わらずおめでたい思考回路をしているみたいだな…お前は。
俺が自分の利益や愉しみに繋がらない事を喜んでやる性分とでも思っているのか…?」

「…思ってないけど…さ。それでも少しぐらいは…お礼言ったって良いだろ…
ありがとな…」

「っ…!」

 熱っぽく潤んだ瞳で、克哉にお礼を言われて…眼鏡の顔が一瞬、強張っていった。
 慌てて口元を手で覆って顔を背けていくと…一瞬、大きく脈動した自分の鼓動に
不機嫌そうに眉を顰めていく。

(一体…どうしたというんだ…? 俺ともあろうものが…)

 一瞬でも可愛い、とか感じてしまった自分に…動揺するしかなかった。

「…どうしたんだ…?」

 不思議そうな顔を顔をして、克哉がこちらを見上げてくる。
 弱々しく…どこか頼りない、性格もまったく正反対な…自分。
 それを見て…眼鏡は酷い苛立ちを感じていた。

「…別に。そろそろ…お前にこうしてやっているのも飽きたから…俺の好きに
させて貰おうと考えていただけだ…」

 しかし、内面の動揺を一切漏らさずに…相手の顔を不敵な笑みを刻みながら
見つめていく。
 瞳の奥に宿る、獰猛さと冷淡さが同居している輝きに…克哉の背中はビクンと
強張っていった。

「ほう…察しは良いみたいだな…これから、俺がどうするつもりか…読めたのか…?」

「ちょ、と待て…こんな、時まで…もしかして…」

「…俺がお前の前に現れて…何もしなかった事があったか…?」

「っ!!」

 その一言を言われて、克哉の顔が一気に赤く染まっていく。
 今までの快楽の記憶が一斉に喚起されて…ベッドの上で身体を強張らせていた。

「お前に奉仕する時間は終わりだ…せいぜい、後は楽しませてもらおうかな…?
なあ、<オレ>…?」

 そう言いながら眼鏡はベッドの上に乗り上げて…克哉の唇をそのまま深く塞ぎ…
ギシリ、と大きくベッドが軋む音が部屋の中に響いていった―。







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