白銀の輪舞(後編)香坂幸緒目覚めたら、隣に誰もいなかった。 時計の針は…昼の二時を指していた。 昨日、あれこれとやっている内に…かなりの時間が過ぎていたのだろう。 いつもの起床時間よりも大幅に遅れてしまっている事に気付いて、 御堂は苦笑いを浮かべた。 今朝はとても冷えていた。 窓ガラスにはうっすらと夜露が残っていて空気は凛と澄み切って 室内は静寂に包まれている。 「さ、えき…どこ、だ…?」 自分をしっかりと抱きしめていた筈の相手の姿はどこにもなく ベッドシーツの上で、幾ら腕を彷徨わせても温もりの気配一つ 感じられない。 身を起こして、相手の姿を探したが…やはりどこにも痕跡がない。 「いない、のか…?」 昨日無理やり剥ぎ取られていた筈のパジャマや下着類は、寝ている間に 新しい物を着せられていたらしい。 緑と白のストライブの寝巻きは、真新しくて…微かに洗剤の香りが残っていた。 ベッドから降りて、リビングやキッチン…バスルーム…そして、今彼が 寝泊りしている一室もくまなく探し回ったが、やはり姿がない。 確か本日は…週末だから、彼は仕事がなかった筈だ。 これが平日ならば、彼がいなくても不安など芽生えなかっただろう。 しかし…あんな時間を一緒に過ごしておいて、朝にはもぬけの空になって いるなど少々冷たいのではないのだろうか? そんな事を考えている自分に、思わず苦笑した。 「…私は、おかしくなっているな…彼の、せいで…」 冷たい窓ガラスにそっと手を添えながら…御堂は俯いていく。 十年間、MGNに在籍して…やっとの思いで築き上げた部長という肩書きや権力、 そして人脈の類は全てあの男に破壊されて、奪われたというのに。 今の御堂が持っているのは自分の貯金、マンション、そしてこの身体一つだけだ。 仕事に、理想に燃えて…全力でプロトファイバーのプロジェクトに当たっていた頃が 何と遠いのだろうか―。 あれだって、自分の持てる能力の全てを費やして当たった大事な企画だったのに。 …途中で、あの男に監禁されて…無理やり、外される形になってしまっていた。 身体と心まで一度は壊されて、この一年を無為に過ごしてしまった。 その事を考えれば、許せる筈が―ないのに…。 「…どうして、だろう…。今の私には、君を憎いという気持ちが…殆ど、なくなって しまっている。この一ヶ月…それが、私を突き動かしていた原動力だったと いうのにな…」 自分の両手を見つめながら、その指先を震わせていく。 本当に信じられなかった。 昨晩の透明な笑顔を浮かべて口付けた、いつもと異なる佐伯の顔が… どうしても脳裏から消えてくれない。 たった一度のあの優しい抱擁は…彼に抱いていた恐怖心や、嫌悪感や憎悪や その他のマイナス感情の全てを打ち砕いてしまっていた。 それで自覚せざる得なかった。 自分は…いつの間にか、彼にあんな風に優しく扱われる事を望んでいた事を―。 「…あんな風に優しくしておいて、その朝に…どうして、私を一人にするんだ…。 君は、本当に…酷い、男だ…」 自らの身体をぎゅっと抱きしめて、寒さに耐えていく。 部屋の中はとても寒くて…パジャマ姿のままでは、冷えて風邪を引いて しまいそうだった。 エアコンのスイッチを入れようと、リビングに向かっていく。 お互いが寝泊りしている部屋にもちゃんと冷暖房は備え付けられているが リビングだけは壁に電灯のスイッチと一緒につけられているので…リモコンを 探す手間が省けるからだ。 裸足のまま…フローリングの床を歩いて、リビングの暖房を点けていく。 何気なく…部屋の中を見回していると、外の変化にふと気付いて…意外そうな 表情を浮かべた。 「…雪…?」 そう、空は灰色の雲に覆われて…ポツリポツリ、と白いものを地上に 舞い落としていた。 この一ヶ月…日付感覚など失くしていたが、今は雪の一つくらい降っても おかしくない季節である事を思い出す。 白い雪が、ヒラヒラと舞う。 その純白を眺めている内に…御堂は、引き寄せられるようにガラス戸を開けて ベランダの方へと足を踏み入れていった―。 ベランダに一歩、踏み出すと…コンクリートは氷のように冷たかった。 本当は何か履物を履いた方が良いのは判っていたが、そのまま裸足で 手すりの方まで向かっていく。 鈍色のからは微かに日が照っていて…空を覆う雲は灰色と白の グラデーションを作り上げている。 其処に雪の純白が酷く映えて…灰色の町並みを、白にゆっくりと 染め上げていく。 その様子を…無言で、御堂は眺めていた。 「綺麗…なもの、だな…」 雪ぐらいで、こんな感傷に浸れるとは思ってなかった。 エリート街道を突き進んでいた頃は…雪が降ったぐらいで風景に 見惚れるような暇などカケラもなかった。 ただぼんやりと景色を眺めて、物思いに浸る時間など無駄以外の何物でもない。 佐伯克哉、という人間に出会うまでの自分はそう考える人間の筈―だった。 白い息を吐きながら ヒラヒラと粉雪が大気を舞う様子を眺める 緩やかに降り注ぐそれはとても幻想的で 見慣れた景色を非日常へと変えてく― その中で想うのはただ一人の…面影だった。 「…まったく…君はどこまで、私という人間を変えれば気が済むんだろうな…」 憎まれ口を叩きながらも、その顔に笑みが浮かんでいた。 そのまま…シンシンと降り注ぐ様子をそっと眺めていると…身体が冷たいな、と やっと感じ始めた。 パジャマしか着てない上に裸足でいれば…当然なのだが、そろそろ部屋に 戻ろうかと思い始めた矢先に、急に暖かな腕に包まれていく。 「…佐伯、か…?」 「あぁ…そうだ」 「…どこに、行っていたんだ…? 朝起きたら…お前の姿がなかったから… 探した、んだぞ…?」 「…すまなかったな。…そろそろ冷蔵庫の中身が乏しかったら、あんたが 寝ている内に買い出しに行ってた。…一人にさせて悪かったな…」 「あっ…」 コメカミの辺りに小さくキスを落とされて、つい甘い声を漏らしていく。 そのまま克哉の唇が首筋を伝い…軽く其処に痕を刻み込んでいた。 どうしよう、と思った。 昨日まではそうされると…感じるよりも先に、戸惑いの感情が先立っていた。 しかし…今は違う。純粋に…感じて、いた…。 「…それより、も…御堂。こんな処にいたら、風邪…引くぞ…?」 相手の吐息が、声が…自分の耳元に掛かっていく。 それだけでゾクゾクと背中が震えて…甘い痺れが走っていった。 暫く、二人はその後は…無言のままだった。 ただ…克哉が自分を強く抱きしめてくれている…その腕の強さに 彼の気持ちがこもっている気がして…嬉しかった。 トクン、トクン、トクン…トクン…。 息遣いと共に、相手の鼓動が背中の方に感じられる。 少し早めながらも…こんなに穏やかな音をしていたのだと…初めて気づく。 お互いの白い息が、微風によって宙にフワフワと浮かんでいた…。 「…引かないさ。お前が…こうして、抱きしめてくれているのなら…な…?」 「…っ!」 御堂から、そんな返答が戻ってくるとは予想もしてなかったのだろう。 克哉が言葉に詰まり、答えに窮していく。 ふと、今の彼の表情をこの目で見たい衝動に駆られていく。 …困惑している彼の腕からするりと抜け出すと…御堂はそのまま 少し腰を落としてベランダの手すりに…両腕で身体を支えるようにして 寄りかかっていた。 「御堂…何がおかしいんだ…?」 「ん? いや…君の驚いている顔など…こうやってゆっくりと見たのは 初めて…だからな。意外に愉快なものだと思ってな…?」 そうして、初めて穏やかな眼差しで佐伯克哉という男を見つめた。 こういう格好になると…彼よりも目線が低くなる形になった。 自分の方が確か少しだけ高いせいで…こんな高さで克哉の顔を 見るのは久しぶりだった。 「そう、か…」 克哉がふてくされた表情で、眼鏡を押し上げる仕草をする。 自分の真意を図りかねている。 そんな戸惑いの表情を浮かべている彼が…何か愛しく感じられた。 「佐伯…私は、君がそんな顔が出来る人間だとは…以前、監禁されていた 時は考えもしてなかった…」 監禁、という言葉に…克哉の顔に緊張が走っていく。 憎まれごとでも言われるとでも思ったのだろう…固唾を呑んで御堂の次の言葉を 待っていた。 「…あの時は、君が憎くて…仕方なかった。君の元に堕ちてやるものか! 私は君が…酷い事をすれば、するだけ…意地になった。 けれど…あぁ、北風と太陽の寓話というものがあったな。私達の関係は それに凄く良く似ている…そう、思わないか? 佐伯…?」 そう、今思えば…自分達の関係はそのままあの有名な寓話に 当てはまっていた。 佐伯克哉という人間が御堂孝典という人間を手に入れようとやっきになって 酷い行為を続けている時は、決して自分は彼に心を預けようとしなかった。 しかし彼が…慈悲の心を見せて、この身と心を暖めてくれた時―自分は 心から、彼に惹かれた。 「御堂…それ、は…」 克哉とて、その有名な話ぐらいは知っている。 同時に…言葉の意味を察して、まさか…と思っているようだった。 驚愕に目を見開き、その唇を細かく震わせている。 …この傲慢な男に、こんな顔をさせているのが自分だと思うと…御堂は 愉快で仕方なかった。 「佐伯…」 初めて、心の底から彼を愛しいと思って笑顔を浮かべる。 今なら…彼の伝えてくれた言葉の数々を受け入れて、信じられる。 だから御堂は、本当に嬉しそうに笑っていた。 そのまま…彼の腕の中に勢い良く飛び込んで、その首に強く強く こちらから抱きついた―。 『私も君が好きだ―』 そうして―ずっと克哉が待ち望んでいた言葉が 初めて、御堂の口から紡がれた―。 最初その言葉を聞いた時、克哉は信じられなかった。 しかし御堂から初めて強い力で抱き付かれて…少し時間が経ってやっと… その言葉がじんわりと胸の中に沁みていく。 自分が御堂を欲しかったから、あれだけ酷い行為を繰り返していたのだと 気づいた時にはもうすでに遅くて…。 人形のようになっていた彼を前にして、もう二度と彼に自分の想いは届く事も ないのだと…何度絶望に陥ったのかも判らない。 だから、本当にこれは夢ではないのか…と思った。 しかし腕の中にいる、相手の暖かさだけは…本物、だった。 「み、どう…」 気を抜くと、涙が零れそうだった。 しかし…その顔を相手に見られたくなくて、彼の肩に顔を埋めてしっかりと 抱きしめ返していく。 相手の息遣いが、体温が、鼓動が全て愛おしい。 二人は雪の降り注いでいるベランダで…しっかりと抱き合い、お互いを 確かめ続けていた。 「…佐伯…」 御堂が瞳を細めて、静かに顔を寄せて来る。 吸い寄せられるように…唇を重ね、その背中を掻き抱く。 パジャマ姿の相手が冷えないように、強い力で引き寄せて…熱い舌先を お互いに絡ませ合う。 クチュ、ピチャ…という水音がお互いの脳裏に響き合い。 ドックンドックンという心音がうるさいくらいだった。 ようやく唇を離すと…御堂は間近で愛しい男の顔を見つめていく。 その顔は甚く、満足そうであった。 「…君にそんな顔をさせているのが自分だと思うと、気持ちが良いものだな…」 「そんな顔って、どんな感じなんだ…? 自分では鏡が無ければ、 判らないからな…」 「少し拗ねたような…私の言葉に困惑しているような、そんな顔だ。 以前は…君の意地悪そうか、傲慢に微笑んでいる顔しか見たことが なかったからな…」 「…悪かったな」 憮然と言い返す様がまたおかしくて、ククっと笑いを噛み殺していく。 けれど…以前の作り物のように一切、表情を変えなかった頃に比べれば からかわれているって判っていても、御堂が笑ってくれる方が何万倍もマシだ。 「…で、君からは返さないのか?」 不満そうに御堂が尋ねると、とっさに何の事を言っているのか察する事が 出来なかった。 「…何をだ?」 「改めて、君の気持ちを…口にしてくれないのか?」 「…俺は、何度もあんたに対して言っているだろ…?」 「私は、今…聞きたい。今なら…君の言葉を信じて、受け入れられるからな…」 今思い返せば…正気に戻った日に泣きそうな顔を浮かべながら 克哉はこちらに想いを伝えてくれていた。 あの時は信じられなくて、そんな言葉を聞いても困惑と混乱しか生まれなかった。 けど…彼に対してのわだかまりを無くした、今なら信じられる。 だから…心の底から、もう一度…聞きたかった。 「そんなにお望みなら、幾らでも聞かせてやる…覚悟、しておけ…」 「…んっ…」 克哉の唇が、耳元に触れて…彼の微かな息遣いと共に…腰に響く 低く掠れた声が鼓膜に直撃してくる。 「…御堂、考典…俺はあんたを…心から、愛している―」 そうして、強く強く…愛しい人の身体をしっかりと克哉は抱きしめていく。 御堂も同じくらいの強さで抱きしめ返していた。 お互いの心は、幸福感でいっぱいだった。 『良かったね…』 ふいに、脳裏に…もう一人の自分の祝福する声が響き渡った。 一瞬…どうしようかと思ったが、そのまま…無理に抑え込まずに好きなように させておいた。 かつては、もう一人の自分の甘さや弱さが許せなかった。 こんな奴と同じ身体を共有しているのも歯痒くて、正直良い印象を持っていなかった。 だから…今までは封じ込めて、表に一切出さないようにしていたのだが…。 (…だが、こいつが御堂の心を解してくれなかったら…俺と御堂は上手くいかなかった 可能性もあるからな…) 悔しいが、こいつが甘ったれた事を言ってくれたおかげで…昨日までと違って 御堂の態度は別人のようだった。 以前はそんな甘えなど邪魔なだけだと考えていたが、御堂の幸せそうな顔を見ていると そこまで…もう一人の自分を否定する気持ちがなくなっていた。 だから、初めて…甘すぎる性格をした自分を、受け入れ始めていた。 (…まあ、良い。とりあえず、好きにしていろ。お前の功績は確かにあるからな…) それからゆっくりと…もう一人の自分の心が、緩やかに溶け込み始める。 御堂の心が閉ざされた日から、自分の胸の中には黒に近い濁った灰色の気持ちが 広がり、占めていた。 しかし今はゆっくりと変化し始めていく。 黒と白が混ざり合い、光に照らされて…銀色へと、変化していった。 自分の中に優しさとか慈愛とか、そんな感情が染み渡っていくのが…不思議と 悪い気持ちではない。 気づけば…克哉の方にも、穏やかな表情が浮かび始めていた。 「…君の今の顔、好きだ。とても…優しい、からな…」 「そうか。あんたの顔は…どんな顔でも、そそるぜ…例えば俺に必死に縋り付いて くる時…とかな・・・?」 耳朶を甘く食まれながら…そんな際どい事を言われれば、御堂の顔は 真っ赤に染まるしかない。 「佐伯っ! 君はどうして…こんな時も…!」 「こんな時だから、言うんだ。あんたの可愛い顔を沢山拝めるからな…?」 「…まったく、本当に君という男は…」 気づけば、いつものように強気な笑みを浮かべられていたが…先程の 穏やかな顔も、この顔も…今ではすっかり愛しいと感じられるようになったのだから 仕方が無い。 もう一度…克哉の顔がゆっくりと寄せられてくる。 御堂はそれを…静かに瞳を伏せて、受け入れていった―。 それと同時に…一瞬だけ街並みに強い陽光が差し込み、白い雪が積もった世界を 眩いばかりの白銀に染まった― それは…二人を祝福しているかのように…神々しく美しい光景だった。 白い雪がヒラリヒラリと舞い落ちる。 それはまるで雪の精が輪舞を踊っているかのような 幻想的な光景だった。 この白銀の輪舞が終わり…街を覆っている白い雪が溶け終わる頃には 恐らく二人の間に…確かなものが生まれているだろう。 絆と呼ばれる、互いを想い合う気持ちが― 後書き個人的に御堂ルートの『嗜虐の果てに』って、ハッピーエンドルート並に 眼鏡の御堂への想いに溢れ捲くっているやん! と萌えたおかげでこの話が 出来ましたとさ(ド〜ン!) 私的に書いてて一番楽しかったシーンは肉ジャガ作っている処と、N克哉が 御堂を抱きしめているシーンの二つでした。 この話の主題の一つに、N克哉も眼鏡に受け入れてもらうっていうのが あったので無事に達成出来て良かったですv 一応自分の中では…この二人の話はまだ続いています。 いずれそこら辺はオフラインで発表しようかな…とか密かに野望を持っていたり しますよ。フフフフフ…(怖!) 作品倉庫へ |