白銀の輪舞(前編)



香坂幸緒





                 



 愛している、と心から思った唯一の相手を壊してから
一年近くが経過しようとしていた。
 気位がとても高くて、傲慢で…プライドの塊のようだったかつての姿が
今となっては嘘のようだった。

 彼は…自分を拒絶して、心を殺す事を選んでしまった。
 その日から、瞳から気丈な光は消えて…ガラス玉のように
無機質な目となってしまっていた。
 その日から一年。かつて住んでいた自分のアパートは引き払い
御堂のマンションで克哉は寝泊りを続けて、真摯に…彼の面倒を
見る日々を重ねていた。

  「御堂…痛くないか…?」

 佐伯克哉はいつものように、人形のようになってしまった御堂孝典を
風呂に入れて…丁寧にその身体を拭いていた。
 上質の手触りの大きなバスタオルを使って髪を拭ってから…全身くまなく
タオルを滑らせて…丁寧に雫を取っていった。

  「ほら…腕を上げて。早くやらないと…お前が風邪を引いてしまうからな。
協力…してくれ…」

 声を掛けても、何も相手が反応しない事など…とっくの昔に判っている。
 それでも普通に接する事を、克哉は止めなかった。
 お互いにこうして…裸になっていても、今は…欲望は何も感じない。
 ただ、糸が切れた操り人形のようになってしまった…御堂を見て、止む事のない
鋭い胸の痛みを覚えるだけだ。

「…………」

 こちらの成すがままに、御堂は腕を上げて…虚空に視線を向けていく。
 決して、こちらを映さなくなった眼差し。
 それを悲しいと思う感傷さえも…今の克哉は失ってしまっていた―

                     
 初めて会った時、何て傲慢で高圧的な人間だと思った。
 人を見下すような態度が、気に食わなかった。
 だから…徹底的に立場の違いというのを思い知らして、屈服させてやろうと
思って…強引に肉体関係を持った。
 自分達の関係は、そんな動機から始まっていた。

 そんな事を思い出しながら、お互いにバスローブに身を包み…上質なベッドの上に
横たわっていく。
 御堂は…自分で寝返りを打つ事も滅多にない。
 気をつけていなければ、克哉が取らせた格好のまま…一日を過ごして皮膚が
鬱血してしまった事も数え切れないくらいあった。

 だから寝る時も…克哉は2、3時間ごとに起きて…御堂の体制を変えてやっていた。
 最初の頃はきつかったが…今となっては毎日の事だ。
 身体はすっかり慣れて、夜中に2回…目覚めながら寝るのが当たり前になって
しまっていた。

(…俺はこんな事になっても…こいつを手放せないくらいに…御堂孝典という
人間が欲しくて…堪らなかったんだな…)

 御堂は、自分の隣で横たわって…安らかな寝息を立てていた。
 食事も排泄も、身の回りの世話も…全て自分がやらなければ、
今の御堂は一日だって生きてはいられないだろう。
 だからと言って、他の人間を雇って世話してもらう事はもっと嫌だった。
 ―その為に克哉は、この一年で…飲みに誘ってくれる人間関係の全てを…
このただ一人の存在の為に、失っていた。

「御堂…」

 月光が白いシーツの上に降り注がれて、愛しい人が闇の中に静かに
浮かび上がっている。
 伏せられた表情は…どこかあどけなくて、まるで子供のようだ。
 無防備で、弱々しい…自分が手を貸さなければ生きていけない。
 そんなモノに、彼を変えてしまった自分の罪が…許せなかった。

「御堂…」

 飽く事なく、呼び声を掛けていく。
 しかし起きる気配も、反応すらもない。
 そんな御堂の手をそっと掬い取って…その指先に優しく口付けていく。
 殆ど身体を動かす事のない御堂の身体は、どこに触れても…冷たく
暖めようとそっとその掌を強く握りこんでいく。

「…………」

 声に出せない強い願いを込めて、強く強くその手を握り締めていく。
 暫く手を繋いだままだったおかげで…少しずつだが、氷のように冷たかった
御堂の手に体温と血が通い始めていく。

「いつか…で、良い…帰って来て、くれ…御堂…」

 振り絞るような、切ない声を克哉は漏らしていく。
 今…この万能の能力を持った男が望んでいる事は、出世でも世界に
自分の力を示す事のどちらでもなかった。
 ただ…御堂の閉ざされた心が、いつか氷解して…自ら身体を動かして
話す姿を見たい。それだけしか…望みはなかった。

「…憎しみでも、俺を罵る言葉でも…何でも良い。ただ…俺は…
あんたの声を、もう一度…聞きたい、んだ…」

 声に出さず、静かに克哉は涙を零していく。
 搾り出すような祈りの言葉に…御堂は相変わらず、反応する事さえない。
 こんな夜を、何回繰り返していたのか…すでに数える事も面倒だった。

 涙はいつしか、哄笑に代わり…乾いた笑い声が喉を突くだけだった。

「はっ…ははは…! 俺は、本当に…バカ、だったんだな…。あんたの事を
これだけ…想っていたのに…あんたの心が壊れる前は…ただの一度だって
本心を…言わずに、痛めつけるような真似しか…してこなかったんだからな…」

 自嘲の笑みを浮かべて…御堂に覆い被さり、触れるだけのキスを落として
その頬を撫ぜていく。
 触れた頬も、唇も何もかもが作り物のように冷たく…マネキンのように
身動き一つしなかった。

「帰って、来てくれ…!」

 願いを込めて、強くその身体を抱きしめていく。
 冷たい身体に、それでも確かな鼓動を感じることが出来る。
 まだ、心は死んでしまっていても…身体は生きていてくれている。
 それなら…希望は消えていないのだと、克哉は自分にそう言い聞かせていた。

 それは傲慢な男が作り上げた絶望的な結末。
 どれだけ悔やんでも、一度壊してしまったものが元通りになる事などなく
修復したとしても…その疵は痕を残し続けるだろう。

   それでも…清冽な夜の大気と、月光がそんな二人を静かに包み込み
見守っていく。
 折れるくらいに強く御堂の身体を抱きしめながら…いつしか克哉も
深い眠りの淵に落ちていく。

 ―いつか御堂が戻ってくる筈だ―

 克哉はその希望を胸に刻み、今宵も深い闇の中に身を落としていく。
 そう信じる事だけが今の克哉のただ一つの救いでもあった―。

                    


 ―克哉の願いが通じたのか、御堂は…冬に差し掛かった寒い朝の日に
初めて言葉を取り戻した。

『ずっと…そこにいたのか?』

 最初は、たった一言。
 それでも…虚ろだった瞳が少しだけ焦点を取り戻して自分を見てくれた時
彼の目はこんなに綺麗だったのかと、思い出せた。

「御堂…」

 泣きそうになる。
 たったそれだけの事に、瞳から雫が浮かび上がって…静かに頬を伝っていく。
 駆け寄って、ベッドの上に力なく身体を起こした御堂を抱きすくめる。
 しかし…その身体は、カチカチに強張っている。
 現状が理解出来ない。
 そんな困惑の表情を浮かべていた。

「…どうして、お前が…ここ、に…?」

 目覚めたばかりの御堂には、ここが自分の部屋だという認識はある。
 しかし…どうして、彼が『今も』この一室にいるかが…判らなかった。
 どれくらい時間が過ぎたのか、まだ把握出来ていない。
 それでも長い―長い間、自分は心を閉ざして…夢の世界に生きていた。
 うっすらとそれくらいは判っていた。

「…あんたを、ずっと…待っていた…」

「ど、う…して…お前は、私を…抱く、価値も…ない、と…」

「弱気で愚痴っぽいあんたよりも、いつもの高慢で生意気なあんたの方が
俺は好きだからな…」

「そ、れ、なら…どう、して…」

 御堂の声は切れ切れで、掠れるような小さな声だった。

「俺は…あんたを、好きだから…」

「…………嘘、だ………」

「嘘じゃない。じゃなければ…壊れたあんたの面倒を…一年近くも
する訳がない…だろう…」

「い、ち…ねん…っ!?」

 何ヶ月か、くらいは覚悟していた。
 しかし…そんなに長い時間が経過していた事に御堂は驚きを隠せない様子だった。
その肩と指先はワナワナと震えて、内心の動揺を現している。

  「…ずっと、あんたを待っていた…御堂孝典…」

 その頬に優しく触れて…愛しげになぞり上げていく。
 御堂は瞠目し、信じられないと眼差しで訴えかけていた。

「そ、んなの…」

 壊れる間際の地獄が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
 あんなに自分に酷い仕打ちをして…今まで築き上げてきた全てのものを
奪い取った男が、自分を愛しているという。
 そんなの…有り得る訳がなかった。
 愛しているのなら、何故…あんなに酷い事を自分にし続けたのか。
 あれ程の地獄を、自分が泣いて叫ぼうとも止めてくれなかったのか。

―心を閉ざす程の、痛々しい記憶の数々が…意識が目覚めると同時に
蘇り、御堂の心を侵食していく―

「嘘だ、嘘だ…嘘だ…どこ、まで…お前は…わた、しを…」

 御堂は必死になって自分を抱きしめてくる克哉の腕から逃れようと
身を捩って抵抗していく。
 しかし一年以上、自らの意思で動かす事のなかった身体は鉛のように重く
満足に動かす事すら出来ない。

「嘘じゃない。これは紛れもなく…俺の本心、だ…」

「……ふっ…ぅ…う、そ…だぁ…」

 克哉はこの一年で、強く感じていた御堂への愛情を口にしていく。
 しかし御堂は信じない。受け入れようともしない。
 嫌いなままでいれば…余計な期待もしないで済む。
 あれだけの仕打ちをされても…不思議な事に、御堂は佐伯克哉という
傲慢な男の事を嫌いになり切れなかった。
 けれど、信じたくない。これは自分にとって都合の良い幻とか空想に
過ぎないのだと…必死になって言い聞かせた。

「お前が、こんなに…優しい訳がない。夢なら…早く覚めて、くれ…
こんな夢を見て…また、あんな酷い事を…され、たら…私は、もう…
耐えられ、ない…!」

 御堂の目から、滂沱の涙が溢れてくる。
 痛々しい表情だった。
 しかし…ここまで、彼を追い詰めたのは自分だ。
 その罪の重さを感じ取り、克哉は突き刺さるような胸の痛みを覚えていく。

「御堂…っ!」

 それでも、強く強く抱きしめていく。
 御堂から、抱き返される事がなくても…腕に力を込め続ける。
(それでも…あんたは、帰って来てくれた。どんな憎しみの言葉も
拒絶の言葉も…引き受ける。だから…どうか…どうかっ…!)

 自分の罪は、自らの手で贖うしかないのだ。
 そう心に秘めて…二人の影は朝日の差し込む中―重なり合う。
 それが…新たな、関係の始まりでもあった―。
                   


  御堂が意識を取り戻してから、十日が経過していた。
  あの日から…克哉と御堂は、一応平穏を取り戻していた。
  腫れ物に触るような…お互いの態度に、表面上は意見を違えて
怒ったり、文句を言ったりする事もない…一見平穏そうな生活。
 しかしそれは…微妙なバランスで成り立っている事は、二人とも
良く自覚していた―。

「御堂…ここに、今朝の分の食事を置いておく。…机の上には昼の分も
用意しておいた。それじゃあ…俺は、行くぞ」

「あぁ…」

 会社に行く準備を終えて、克哉が声を掛けてくる。
 自室のベッドの上から、相手の方を振り返りもせずに御堂は短く、
返事だけしていく。
 短い、やりとり。
 それでも一言だけでも言葉が返って来てくれる事に…克哉は笑みを浮かべて
そのまま会社へと向かっていった。

 床の上に、今朝の分の食事が置いてある。
 そうするように最初に頼んだのは…自分だ。
 今日も筋肉痛で軋む身体をどうにか動かして…ベッドの上からぎこちなく降りていって
膝と手をつきながら…ハイハイするような動きで、おにぎりの皿が乗せられている
お盆の方へと向かっていく。

 一年以上、自らの意思で身体を動かしてなかったせいで…御堂の身体は極限まで
筋肉が低下していた。
 そのリハビリの為に…御堂は必死に、出来る事は自分でやろうとしていた。
 ほんの数メートル…床の上を這うだけでも…汗がどっと吹き出してくる。

「はぁ…ぁ…も、う…少し、だ…」

 みっともない姿を晒していると、自分でも思う。
 しかし御堂の目は…ギラギラと輝いて、強い意志を宿している。
 一日も早く、かつての自分に戻りたい。
 その強烈な願いが、彼の身体を突き動かしていた。

 克哉が作ったおにぎりに手を伸ばすと…それに夢中で齧りついていく。
 まだほんのりと暖かい舞茸入りの炊き込みご飯で作ったそれは…非常に美味しくて
御堂の味覚を満足させていく。

「うまい…」

 ポツリ、と呟きながら…ぎこちなくおにぎりを齧っていく。
 ボロボロと何度かご飯を零すのは歯痒かったが、今はまだ指先も完全に以前の
ようには動かせないのだから…仕方ない、と割り切る事にした。

(…みっともないな…我、ながら…)

 それでも最初、自分の意思で動かした日よりは随分マシになっていた。
 おにぎりと一緒に、用意されたのはトン汁だった。
 細かく切った豚肉に、大きめにカットされたニンジン、タマネギ、ジャガイモに
ゴボウが具沢山に入っている。
 ダシも煮干でキチンと取られていて…味噌の加減も丁度良い。

 佐伯克哉という人間が、意外に料理が上手かったことを知ったのは…意識が
覚醒してからの事だ。
 以前、陵辱されていた頃にはまったく知らなかった一面ばかり…この十日間は
見せ付けられていた。

(…佐伯。君は一体…何なんだ…?)

 零さないように細心の注意を払いながら、トン汁を飲み進めていく。
 おにぎりは上手くいかなかったが、こっちはどうにかなりそうだ。
 暖かいトン汁に、胃をポカポカさせながら…ほうっと溜息を突いていった。
 ―この十日間は、信じられない事ばかりだった。

 自分の意識を破壊される程、酷い行為を繰り返していたあの男は…目が覚めた途端
とても優しくなっていた。
 この十日間、一度もあの男に抱かれていない。
 無理強いをする事もなく…自分の我がままで、食事、排泄、入浴等をやって…床や
トイレ、風呂場を水浸しにしたり汚してしまっていても…一言も文句を言わずに
毎日片付け、自分の世話を焼いてくれていた。

 それは…かつての克哉の姿からは、まったく想像もつかないものだった。
 同時に、壊れていた自分の傍に一年もいた事も…信じられない。
 価値がなくなったら、さっさと自分を捨てていなくなる男だと思っていた。
 なのに…彼はいた。目覚めるまでずっと待っていたと言っていた。
 有り得ない現実に、御堂は…困惑を隠せないまま…十日を過ごしていた。

「…佐伯、ど、うして…お前は、そんなに、私、に…優しく、する…? かつてのように
酷く、扱わ、れれば…私も、憎む…事が…出来る、のに…」

 御堂は力なく、呟くしかなかった。
 嬉しい、という気持ちもあまり湧いて来ない。
 逆に…胸の中に存在する、この複雑な感情をどう処理していけば良いのか
戸惑うしかなかった。

 以前のように扱ってくれれば、こちらも相手を憎む事が出来る。
 拒絶して…この家から出ていけと追い出せる。
 しかし…こんな風に献身的に世話を焼かれて、優しくされたら…どうしても
『私の家から出て行け!』と言うことが出来なかった。
 行き場のない感情は、御堂を混乱させ…どう対応していけば良いのかという
正解をひどく遠くに追いやっていた。

「お前、が…本、当…に…判ら、ない…私、には…」

 克哉が作ってくれた食事の全てを平らげて、御堂は床の上に身体を投げ出した。
 たったそれだけの動作でも、暫くは身体を休めなければ…辛くて動けない。
 そんな身体にした原因は、あの男が作った。
 なのに―憎み切る事が出来ず、胸の中に湧いた…情のような気持ちに御堂は
深い深い溜息を突いて、それを紛らわす事しか出来ないでいた―。
   






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