君が聴こえる

こんな薄っぺらな紙切れに、俺の未来が入るわけない。

 配られた進路調査票を前にした、これが深山浚(みやまさら)くんの感想であった。
 教室の最後尾に位置する机で、いかにもやる気がなさそうに寝そべっている。
「一学期中に君らの進路を確認しておきたいから、提出は一週間後なー」
 担任の若宮センセイが熱の無い口調でそう告げた。途端、浚の周囲からあちこち、調査票に締め切りを書きこむ鉛筆の音が聴こえた。
 浚はもちろん、そんな面倒な事はしなかった。筆箱からシャーペンを無造作に引きぬくと、第一、第二、第三希望の枠を無視して大きくこう書きこんだ。
『ウィーン国立音楽大学』
 それ以外で、後はない。
 自分の名前だけを崩れた字体で書きこむと、浚はひらりと手を挙げた。
「せんせぇ、俺書きましたー」
 そして椅子を引いて立ち上がる。
 早すぎ! と、呆れたような驚いたような声が上がる中を、浚はひょうひょうと歩いて行った。
 向かう先で若宮先生はただ薄く笑っている。
 浚から紙切れを片手で受け取って、軽く一瞥した。
「お前は迷いが無いね」
「他に才能が無いだけです」
 言われたひとことに応酬してから、浚はまたすぐ背を向けた。
 席に戻る途中、ふっと窓際を見やった。黄金色の光がみえた気がしたから。
 一面制服の紺と白、髪の暗色に埋められた教室のなか、「彼女」の存在だけがあざやかに気高く輝き、浚をまっすぐに見据えていた。
 それは、ほんの僅かな瞬き。
 だが、それでも確かに。
「彼女」と浚は、瞳を交わしたのだ。

 ホームルームが終わると下校時間となった。
 クラスメートたちは部活に行ったり、帰ったり、それぞれの場所に散っていく。
 今日はヴァイオリンの個人レッスンを控えている浚は、少し練習してから学校を出ようと、皆が教室を出て行くのを待っていた。
 パックのイチゴ牛乳を飲みながら椅子にふんぞり返って、MDプレイヤーでブラームスを聴いていた。開いてはいてもなにも見えていない視界の端を、クラスメートたちの暗色が流れて行く。
「彼女」は、もういない。とっくに帰ってしまった。
 いつもそうだ、「彼女」は誰より先に浚の前からいなくなる。
「……ら、浚!」
「え?」
 ヘッドホンで覆われている聴覚のなかに、自分の声が響き渡った。
 顔を上げると、目の前に容(よう)が立っていた。小柄でつやつやの黒髪を切りそろえた、朝顔のように可愛い少女。
 黒々と切れ長の瞳にじろりと見下ろされて、浚はヘッドホンを外した。
「なに、容ちゃん」
「なにじゃないだろ、部長。部活の時間だよ、ぶ・か・つ。」
 浚はしまったと思った。今日、部活には出れないことを、副部長の容に伝えるのを忘れていたのだ。
 とたんにみぞおち辺りがきゅーっと緊張して縮こまるのがわかった。
 しまった、どうしよう! 
 容は厳しいのだ。のらりくらりとした浚の態度を、いつも遠慮なく罵倒してくれる。
 怒った容ほど怖いものはなく、浚はかねがね、なぜ自分でなく彼女がオーケストラ部の長を務めなかったのかと不思議に思っていた。
「まさか出れないとか言わないよね! やっとパート練習が終わってみんなでの合わせに入れるってとこなのに、コンマスがその場にいないんじゃーしょうがない」
 浚の沈黙に、たたみかけるように容は言った。にっこりとした笑顔が、逆に浚に重圧を感じさせる。
 背中につめたい汗を感じながら、浚はじりじりと容から間合いを取った。
「……いや……あのね容ちゃん、正直に言おう、ごめんなさい」
「ごめんなさい!?」
 ばん、と容は浚の机に両手をついた。さらさらの黒髪が揺れて花の香りを漂わす、が、浚にその香りを堪能している余裕はなかった。
 内心、息もできないほどの恐怖に喘ぎながら、それでも正直に物申す。
「はい、ごめんなさい。……今日はレッスンがありまして」
「休め! 行くな! 部活に出ろっ」
 容は一喝ごとに浚に迫った。浚はもはや完全に怯えた。
 まったく、この小さい体のどこから、こんな声が出るのだろう。
「……ごめん、無理。いまちょっと大事な時期だから」
「オケ部だって大事な時期よ! 忘れてんの、今年はコンクール出場するんだよ!? あんたそれでほんとに部長なの、なまけもん! やる気なし! バカ浚!」
「すいません」
「謝っても許さない! 今日の練習、どーしろって言うのよー!!」
 容は辺りはばからず絶叫する。教室の内と言わず外からも、何事かと向けられる奇異の視線を感じつつ、浚は、その中に救世主がいないものかと必死で探した。
 容は強い。容には勝てない。誰も。
 ただ一人を除いては──
「──あ! いた、海制(かいせい)!」
 今度は浚が叫んでいた。その声に呼ばれた人物は、開け放たれた教室の戸の外で、つんのめるようにして立ち止まった。どこから声がしたのかと探すように、背の高い立ち姿がきょろきょろとあたりを見回し、そしてやがてこちらを向いた。
 彼に向って容が何か言おうと口を開く。
 そうはさせまいと、浚は勢いよく声を張っていた。
「カイセイ、助けて! 容がうるさい!」
「ちょ、うるさいのはあんたが悪いからでしょ、バカ浚っ!」
 再び容が声を荒げたが、その時には、海制が教室のなかに入ってきて、二人の傍に立っていた。 
「……わかったから、あんまり大声で叫ぶのやめて、お前ら。恥ずかしいから」
「お前らじゃないわよ! 悪いのはサラだもの!」
 たちまち憤激した容であったが、彼女の見上げた先で海制は、実に穏やかな顔をしてこう言ったのだ。
「容。そろそろ部活始まるんじゃないの?」
 ぐ、と返事に詰まり、己の腕時計を見る容である。だがまだ納得できない様子で、浚を睨んでは海制に訴えるような視線を向ける。
「そう、だけど、聞いてよ海制、浚、また無断欠席なの!」
「浚はマイペースだからなー。許しておあげよ」
「じょうだん! 絶対許さない! 今日のオケめちゃくちゃよ!」
「だからさ、ケーキセットを奢らせるとか。」
「ケーキセットどころか、ランチセット二人前よ!」
 実にテンポよく会話を交わしはじめた二人を尻目に、浚はよし、と思った。
 二人に気が付かれないように右手でMDプレイヤーを掴み、鞄につっこむ。
 空いた左手でヴァイオリンケースのストラップに触れると、そのままタイミングを見計らって、勢いよく席を立った。
「後は頼んだっ、海制!!」
「……逃げんのか、浚っ!」
 途端に吠えた容の声には耳を貸さず、浚は全身のバネを使って、飛び跳ねるように駆け出した。
 その身体能力の見事さと言ったら、ない。 
 教室を出る時もドアなどにはぶつからず。
 部活開始の時間のために、生徒でごった返す廊下もすいすい掻い潜り。
 極めつけには三階から一階まで続く長い階段を駆け下りても、息ひとつ乱さずに涼しい顔。
「ここまで来りゃあ大丈夫だろ」
 階段のたもとでひとりごち、ようやっと肩の力を抜いた浚であった。
 が。眼の前に長く伸びる廊下の前方、ほとんど昇降口の真横に位置する職員室、その、入口に佇むひとりの少女。
 彼女を見つけてしまった瞬間、浚はあっさり立ち止まっていた。
 遠目にも抜けるような色白の肌、バービー人形のごとくカールした茶髪。
 なによりも、他者と同じ空気を吸うのを、拒むかのような、静かで冷たいその口元。
 ──仙崎。
 そう。
 「彼女」がそこに、立って居た。

 ***

 「逃げられたー、畜生!!」
 可愛い顔に似合わぬ暴言を吐いたのは容であった。
 浚が脱走を図った直後、当然追いかけようとした彼女であったが、海制に腕を掴まれて引きとめられてしまったのだ。
 海制はまだまだ浮ついたところのある同級生のなかで、抜きんでて冷静であり、しかも穏やかな男の子だった。何かあればすぐ燃え上がる、火のような性格をした容とは対照的で、いつも彼女をいさめる役を務めている。
 容も彼の前だと大人しくなる傾向があったが、それでも今は、彼に対して噛みつかずにはいられない心境だった。
「大体、海制は浚に甘いのよっ」
 浚がいなくなったあとの教室で、容は今度は海制を怒鳴りつけていた。
 海制はただ笑う。
「そうかもしれないね。」
「かもじゃなくて、そうなの! もう、言っておくけどね、今回悪いのは完全に浚なんだよ。あいつ、いっつも副部長のあたしに何も言わないで部活休んじゃうんだから。田中に怒られるのはあたしなのに!」
 田中というのはオーケストラ部の顧問である女性教員である。
 まだ若く、ヒステリックな部分のある教師で、容は彼女が大嫌いだった。
 理論的でないとか、機嫌の良い悪いが激しいとか、色々理由はあるが、それよりもっと単純に、自分はあの年頃の女が苦手なのだった。
 これから田中と向き合わなければならないと思うと心底滅入る。
 ──今、大事な時期だから。
 浚の声を思い出し、容はぎりぎりと歯ぎしりをした。
 ──当たり前じゃない、そんなこと。
 高校最後の一年が、大事じゃない奴なんていないわよ!
 浚はいっそ気持ちの良い位、いつも自分を中心に物事を進めたがる人間だったが、時々その、周囲への配慮の無さを、容は本気で憎むことがあった。
 浚とは一年生の時から同じクラスだったが、全く良く付き合いが続いているなと自分でも感心する。
 海制がいなければ、恐らくとっくに容から絶交を申し渡していただろう。
「気持ちはわかるよ。容」
 海制がやさしく言った。その声。
 深く、低く。耐えず波を繰り返す、名の通りの海の響きを内包している。
 この声を聴くと、どんな怒りもすうっと消えてしまうのだ。
 容はそれが嬉しくもあり、悔しくもあった。
 いちど深く眼をつぶり、数秒そうしてから、またぱちっと瞼を上げた。
「……もういい。過ぎたことを言ってもしょうがないし。部活行く」
 声を低めてそう言うと、隣で海制がほほ笑んだ。
「そうだね。じゃあ、俺は、先帰ってるから」
「うん。──もう、退部届、出したの?」
 容はそっと海制を伺い見ていた。彼は相変わらず柔和に笑っている。
 うん、と頷いて、長い腕が肩の鞄をかけなおした。
「まだ、受理はされてないけど。これから修羅場」
「そか。検討を祈るよ。バスケ部キャプテン」
「元、キャプテン、だよ。」
 海制が穏やかに訂正した、まさにその時、部活の開始5分前を告げるチャイムが鳴り始めた。
 容が悲鳴を上げて飛びあがる。
「まずい! もう行かなきゃ! じゃあ海制、またあとでね!!」
 言うが早いか、鞄とチェロを背負って走り出す。
 背中の後ろに海制の、よく通る声が投げかけられた。
「容、気を付けろよ!」
「はーい!」
 声を張り上げて容は廊下を横断していく。
 ガラス窓からあふれるように差し込んでくる、太陽の光が、木の床を琥珀色にまばゆく輝かせていた。
 中庭を挟んで向かい側にある音楽室からは、既に、オーボエの伸びやかな音色が聴こえ始めていた。
 形良い耳でその旋律を捕らえ、容はちいさくほほ笑んだ。 
 ──庭の千草。

 ***

 容が立ち去った後の教室は、急にがらんとしてしまった。
 ひとり残された海制は、何故かちいさく苦笑して、傍の浚の椅子に腰を下ろした。
 机の上には彼が飲んでいたイチゴ牛乳がまだ残されている。その甘い香りを吸い込んで、海制はぼんやりと胸に漂う寂しさを感じた。
 ──ああ、またか。
 寂しさの謂れに気が付いて、いまひとたび自嘲する。
 つまり、自分は浚に嫉妬していた。
 容の世界を分かち合える男、彼女を正しく理解してやれる人間。
 自分には理解できない容の言葉が、浚にはあっさり、通じてしまう。
「しょうがないのにねぇ。二人とも、芸術家なんだから。」
 一人呟いて、椅子の背に大きく体を預けた。天井の、黒く変色した色が眼に飛び込んでくる。
 深山浚。三年前、若干十四歳にして、国際的なヴァイオリンコンクールで入賞し、一躍時の人となった。
 パリで生まれ、パリで育ち。そのままいけば順調に花の都でキャリアを積んでいく筈だった少年は、しかし、何故か日本の、このひなびた田舎の高校へと入学してきたのであった。
 不思議な奴だ、と海制は思う。
 まさに風のようにとらえどころが無くて、何を考えているのかわからない。
 女のような顔立ちと、軽い口調のせいで、だらしない男に見えたって仕方が無いのに、そうは見えない。
 何故なら、ヴァイオリンを弾くからだ、浚は。
 人を殺しそうな眼で、なのに同時にこの上ない陶酔に浸っている顔で、あの細い四弦を奏でるからだ。
 ──うまいよねえ。本当に。そう思わない?
 入学式で浚の演奏を聴くという僥倖に見舞われて、容は、ほとんど涙を流していた。
 感動したのだ。細い肩を震わせて、黒い瞳を濡らし。尖った鼻先を赤くしていた。
 海制はうまく答えられなかった。
 自分にとっては、浚の演奏よりも、その時目の当たりにした容の表情の方が衝撃的だったのだ。
 何があっても泣かない容。強くて、可愛い、花のような娘。
 その容を、音だけで泣かせた男がいる。
 それが信じられなかった。
 嫌な予感がした。あの時。
 容が遠く離れて行くような。自分には、手の届かない場所へと行ってしまうような。
 生身の心がはんぶん引きはがされてしまうような、とても痛くて、切ない予感が。
 ──そしてそれは的中したのだ。
 海制は机の上に肘をついた。
 窓の外に眼をやり、黄金色に輝くグラウンドを遠く見つめた。
 野球部がランニングをする、その傍らで、サッカー部が練習試合を行っている。
 ホイッスルと、生徒の掛け声、ボールが蹴られる音などが途切れることなく続いていたが、やがてその光景に覆いかぶさるようにして、やわらかな音楽の波が打ち寄せてきた。
 オーケストラ部の練習が始まったのだ。
 ああこの曲、と、海制は思わず笑んだ。
 知っている。
「庭の千草だ……」
 呟いた己の声に、何故かすこしだけ、心が弾んだ。 

 ***

 仙崎香流(せんざきかおる)さんは憂鬱なことこの上なかった。 
 担任に呼び出された職員室の前、いつ入っていけばいいものやらと、タイミングを計るふりをしていつまででも立ちつくしている。
 呼び出しの理由はわかっている。だが、べつに、それそのものが嫌なわけではなかった。
 嫌なのは、担任と話をした後、それによって絶対に落ち込んでしまうであろう自分だ。
 傷つく必要なんてないのに傷つく自分。
 どうでもいいような馬鹿げた考えに振り回されてしまう自分。
 それが、香流は耐え難かった。
 つまりわかりやすく言えばマイペースを崩されたくないということなのだが、いつまでもこうして立っているわけにもいくまい。
 ──どうせまた、この見かけについての話だ……。
 くだらない、と香流はひとつため息を吐きだすと、ようやく職員室へと足を踏み入れた。
「ああ、来たか。」
 中へ入るとすぐに若宮が気付き、手を振った。
 彼の机は窓際にある。彼ではなく、彼の背後の校庭に眼をやりながら、香流は彼に近づいて行った。
「……はい。何でしょうか」
 喉を低く沈めたまま声を出した。自然に、かすれて不機嫌そうな声になった。
 若宮はそれに対して、怒るも笑うもしなかったが、代わりに座れや、と空いている椅子を押し出してきた。香流は首を振るだけで拒む。
「なんだ。時間ないのか?」
 若宮が見上げてきたので、仕方なく彼のネクタイを見つめながら嘘をついた。
「はい。塾がありますから」
「そうか。わかった、じゃあ手短に話そう。あのな仙崎、その髪どうにかならんかな」 
 香流は表情も変えなかった。すっと若宮の細目に視線を合わせ、短くこたえる。
「なりません。」
 強い物言いに、若宮がわずかに眉をひそめたが、香流は平然としていた。
 こういう態度を教師たちは忌み嫌うが、こと若宮に関しては、香流は注意された記憶がない。だから甘えているのだった。
「何度も言っているように、わたしのこれは地毛なんです。染めてもいないし、パーマもかけていませんから。」
 慣れた説明をする合間にも、視界の端で巻き毛が揺れた。
 地毛なのは本当だ。香流にはドイツの血が流れている。
 白人を連想させる白い肌に、渦巻く赤髪、極めつけには金色(こんじき)を擁する瞳と、教師たちから攻撃されるために入学してきたような香流であった。
「それは分かっているんだ、仙崎。だがな、俺はそうでも、そうじゃない人たちもいるんだよ。」
 若宮が言った。香流は再度みじかく答えた。
「知っています。でも、あたしは嘘をついていません。ここで染めたら、あたしは自分を否定することになるし、第一カラーリングは校則で禁止されてるじゃないですか。」
「……お前の場合は特例になる」
「それは変だと思います。」  
 香流はぴしゃりと言い放った。真におかしな話である。
 校則などという物、それに振り回されてしまう位なら、始めから作らなければいいものを。
 大体香流は校則違反を侵しているわけではないのだ。責められるとすれば、こちらが嘘をついていると鼻から決めてかかっている教師の側ではないだろうか。
 香流はふいに校庭を見ていた。
 黄金色に輝く砂、確固としたまとまりを持って動いているサッカー部に野球部。
 ──何でぜんぶ、『グループ分け』されるの?
 個を排除し、集団として統率することが当たり前。それが学校というものなら、何とくだらないものなのだろう。
 ──あたしたちは兵隊アリじゃないんだから! 
 誰かの思い通りに育って、それが自分だと思い込んで生きて行くなど、まっぴらゴメンだ。
 少なくとも香流は、もう気が付いてしまっているのだから。
 本当の自分は、自分の中にしかないと。
「とにかく、お話がそれだけなら、失礼します。」
 もう帰りたかった。若宮に頭を下げると、彼は香流を引き止めた。
「待ちなさい、仙崎。お前は、今年、受験生なんだぞ──」
「関係ありません。」
 言い捨てて香流は歩きだしていた。もううんざりだ。
 心の底から忌々しい気分で職員室を退室し、昇降口へと歩いて行く。すると、ふいに、突き刺さる視線を感じて足を止めていた。
 光が差し込む昇降口の、その、ずらりと並んだ下駄箱の一角に、背を預けて立っている人間がいる。
 逆光で顔は良く見えない、しかし、誰なのかはすぐにわかった。 
 心臓が高鳴り、頬が燃える、肩が燃える。
 香流は、息さえできなくなるのを感じた。なんで。
 ──なんで、深山が、ここにいるの?

 ***

 浚は香流をじっと見つめた。
 彼女の瞳は、光を受けると金色に輝く。
 いま、自分たちが対峙している昇降口は、傾き始めた太陽の光で溢れかえっていた。
 驚愕に見開かれたその瞳が自分だけを映しているということに、浚は異常なほどの優越感を感じた。
 異常なほどの優越感。その、突きあげるような激しさの底に、ひっそりと広がる、純粋な憧れも。
「やあ」
 香流がいつまでも動かないので、浚は自分から口を開いた。
 すると彼女ははっとしたように肩を震わせ、それから一つ、息を吸った。今までそうするのを忘れていたかのように。
「若宮センセから呼び出し?」
 浚は見ていた。香流が職員室に入って行くところを。それよりも以前に、彼女が若宮から声を掛けられていたところも。そしてその理由が何なのかも、大体わかっていた。
 ずっと香流を見ていたから。
「……そこ、どいて。」
 浚の質問には答えずに、香流はそれだけを言った。
 眼が険しく細められ、長い脚がこちらに一歩踏み出してくる。
 他の生徒と比べて短く見えるスカートは、彼女が意図的にまくりあげているわけではないのだろう。単純に、彼女の足が長いのだ。
 浚は微動だにもしなかった。香流がため息を吐きながらふたたび立ち止まる。
 それはそうだ。彼女の下駄箱は浚の背中の後ろに在った。
「ねぇ、仙崎サン」
 名を呼ぶと、苛々とした視線が返って来た。
 並ぶと彼女の背がとても高いことに、浚は今更ながら気が付く。
「どいてって言ったでしょ。あたしの下駄箱はあなたの背中の裏にあるの」 
 浚は応えなかった。ただ、彼女を見つめて尋ねる。
「──もうピアノは弾かないの?」
 沈黙が落ちた。
 香流は何も言わない、だが、彼女が動揺しているのが浚にははっきりと伝わってきた。
 白い顔が青ざめ、それからみるみる紅潮する。
「……あなたには関係ない」
 憎しみすら感じさせる低い声で香流は言い、それから今一度どいて、と付け足した。浚はようやく身じろぎをする。
 下駄箱からわずかに背中を浮かせた。途端、そのすき間に、香流が素早く割り込んでくる。
 すらりとした手がローファーを取りだす、床に置く、上靴が脱がれる、棚の中に戻される。
 香流が靴を履いた。
 浚は、その一連の動作をじっと見ていた。
 やがて光の先に歩き始めた背中に向かって、
「ねえ」
 とふたたび声をかける。
 香流は当然のように振り返らない。まっすぐな背に、艶やかな赤毛が渦を巻いて流れている。
「また弾いてよ。聴きたいんだよ、あんたのピアノ」
 届かない。閉じられている──香流の世界はもう既に。
 だが、浚にはわかる。
 彼女がいる場所がいかに暗く、光が通らずに、けれどだからこそ静かで心地よいのかということ。
 それは逃避なのだ。
 どこまでもずるく、弱い。
「……戻ってこいよ。もう一回」
 浚は呟き、視線を落とした。ヴァイオリンケースを持つ右手が震えている。
 何故かとても心細かった。寂しかった。
 仲間が、欲しかった。
 ──あなたには関係ない
 香流は、弾かないとは、言わなかった。





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