Andante sostenuto




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「わたしの両親はわたしが十の時に離婚したの。原因は父親が別に女を作ったから。金はあるけどワガママで身勝手な親父でね、家族を大切にできる男ではなかったのよ。離婚のあとはわたしと母でふたり、細いけれどしなやかに生きてきた。幸せだったわ。母は元々働きに出ている人だったから、離婚しても特に生活が激変するということはなくて、まあつつましくしてれば普通の暮らしはできた。わたしも、アルバイトができる歳になったらすぐ働くようになったし。幸せだったのよ、ほんとうに。何度も言うけれど、これは自分をだますための呪文ではないわ。心からそう思っていたの。
 母はね、音楽が好きで、わたしに小さい頃からチェロを習わせていた。わたしもチェロをすごく好きでのめりこんでいたもんだから、離婚してからも、母はわたしのチェロをね、お金がかかるからやめちゃいなさいなんて一言も言ったことなかったし、わたしがアルバイトしまくって貯めたお金で音大に入りたい! って訴えたときも、笑顔でいいわよって言ってくれた。やさしいひとだったの。
そう、懐かしいな、大学。学校の教育システムとかレベルは別問題として、大好きな音楽と毎日一緒にいられることがうれしくてしょうがなくて、しょっちゅう閉校時刻まで居残ってたっけ。気の合う仲間を見つけて、コンサート開いて、舞台のうえでチェロを弾いて、もらったわずかなお金でお酒飲んで……。母はそういうとき、連絡さえすれば怒らなかったな。今考えるとすごくおおらかな母だった。  
あのころは家に帰るといつも音楽が流れていたわ。そしてわたしも音楽を奏でた。母は料理や洗濯ものの取り込みなんかをしながら、にこにこしてそれを聴いててね。カナ、その音ちがうわよとか、上手になったわねとか下手になったわねとか、あんまり正直にべらべら喋るもんだからよく喧嘩もしたけど、それでも私たちはとても仲のよい母子だったと思うわ。でももちろん、そんな日々が永遠に続くわけはないって、私は父の一件で既に知ってしまっていたから、だから母が死ぬことをとても恐れていた。
 どんなに毎日笑顔で明るく暮らしていたって、窓の外に時折立っている、黒いなにかがある。それが死だったんだって気づいたときには、もう遅かったわ。母は病気になってしまっていた。医者から肺癌っていう病名を聞かされた時のことは忘れない。足元から戦慄した。それで、理解したの。あ、いつも窓の外にいたのはこれだったんだ、今わたしはそれに飲まれてしまったんだって。悲しいよりも怖かった。いずれ近い将来わたしは一人になるんだって。その心積もりをしなければならないことを悟って、ひどい、と思った。こんな世界があるのねって。辛かったな。1日の中で何度も重大な決心をして、頑張らなきゃって思って、母が死んだ後の日々を想像して、一人暮らしを頭のなかでシュミレーションしたり……。私って、自分でも嫌になるくらいクールなのね。だから、母の病気をあのクソ親父のせいだ! とか、あるいは母の会社のせいだ! とか、絶対言えなくて。物事はなるようにしかならないと思って、ただ縮まっていくだけの母の命を見送っていた。だって、もう手遅れなことを知っていたから。あがいたってどうにもならないことはこの世に確かにあるのよ。問題はきっと、そのどうにもならない日々をどうやって生きてくかということなのね。そんなことを悟ってしまったから、もうまともな世界には戻れない。まともって、わかる? なんていうか、明るくて、いつだって太陽に照らされてて、悩みや嫌なことももちろなるけど、それは仕事とか将来のことだったりして、自分や生活のベースはちゃんと健全なの。恋人がいてさ、落ち込んだらなぐさめてもらって、たまに喧嘩したりして、やがて結婚して。子供ができて。マンネリしながらも幸せな家庭を築いていく。そういう人生を、わたしは自分でとっくのとうに手放してしまったのだと思うの。だって、人なんて最後にはひとりだもの。恋も愛も友情も、なにか第三者が自分を完全に救ってくれることなんて絶対ないのよ。自分自身で生きていくしかないの。すごく寂しい真理だけど、わたしはそれを悟ってから、生きるのがすごく楽になった。死なない限り、生きられるということだからね。母はもういないし、私はその後ひとりで暮らしていくためにチェロを売ってしまったけど、それでもけっして不幸ではないわ。生きることができる。食べられる。これはすばらしいことよ。本当に、命さえあれば、楽しいことはいくらだって経験できるんだから。」
 長くながく、まるで詩を暗誦するような美しい調子でかなでが語る、かなでの人生。
 誠はそのあまりの暗さにしばらく言葉も出なかった。彼女が紐解いていく想い出のひとつひとつを知っては、腫れあがった右腕を押さえて自問自答した。彼女に比べたら俺の今の痛みなんて大したことはない。そうだ、絶対にそうなのに、こんなに自分が弱ってしまっているのは何故だろう。俺は弱いということなんだろうか。
 人が弱いとか、強いとか、あまり考えてきたことがなかった誠であるが、いま自分のすぐ隣で自らの歴史を淡々と語る、闇に花咲く淡色の花のようなかなでを見つめて、こんなひとこそ強いというんだ、と初めて思った。目のまえの現実が命を持った知識として脳に蓄積された。しかし同時に自分自身の状態が情けなくて仕方なく思われ、誠は気づくと何杯目かのウィスキイに手をつけていた。
 普段なら何の問題もない量の水割りだというのに、不思議なほど酔った。時間が過ぎるごとに頭が鈍く重く感ぜられるようになり、かなでの言葉が意味を失った。
「ちょ、笹井さん、飲みすぎ!」
「大丈夫、何の問題もない。牧村は強いな」
「セーブしてるからよ。あたしもこの間まではウィスキイ飲みまくって朝迎えてたのよ。もー、明日も会社なんだからその辺でやめてちょうだい!」
「怒っても、おまえ、きれいだね。」
「はあっ?」
「きれいでたくましい感じがする。俺はなんでこんな弱いんだろうなー?」
「ちょっと、笹井さん、バカ笹井さん。」
「ずっと考えてたんだ。なんでこれしきで落ち込むんだろうって。腕がイカれたからって野球をまたやらない限り何の問題もないだろ。やっぱ、コーチを殺しちまったことが一番デカイのかもしれないな。うん。俺の中では。なんか二回裏切ったような気がする。かわいそうなお人だ。俺なんか見放せばよかったのに」
「笹井さんてば! 酔ってるのね、わかったわ。すいません、お水下さい。」
 誠がべらべら喋ることをかなでは完全なたわごとと判断したらしかった。カウンターに身を乗り出して、その奥にいるバーテンダーにお冷を頼んでいる。誠は酔っていたが、自分ではそうと思っていなかったので、急に視界がぐるんと回ったときには心底おどろいてしまった。九時を指していた時計がいつのまにか十時を告げている。怒り始めたかなでに無理やり水を飲まされた時には、何故か目の前に孝輔がいた。
 さすがに少し酔いが醒めた。
「孝輔くん?」
「ハイ、笹井さん。」
 このあいだ藤原クリニックで会った時と同じように、孝輔は静かにそこに存在していた。彼はいつも淡く光るような気品をその身にまとっているから、酔った阿呆の誠でもこれが夢ではないということぐらい容易にわかった。
 なんで、と呟くと、彼は迷惑してるわけでも困っているわけでもなさそうに、ただ微笑んだ。
「ええと、詳しい話は後にしましょう。帰りますよ。送ります。家はどこです?」
「K市の××町」
「……いや、それ俺の住所ですから。笹井さんの住んでる場所は?」
「いや、だから、K市の××町だって。」
 まったく冷静に答えているつもりだったのだが、信用してはもらえなかった。
 かなでが心底申し訳なさそうな顔で孝輔にこう言っているのが耳に届く。
「ごめんねコウくん、ほんっとごめん。こいつ弱ってんのに酒飲むからさ、悪酔いしちゃって。あたしも止めればよかったんだけど、話に夢中で気づけなくて……まさか知り合いとは思わなかったの。遅くにほんとうごめんね」
「いや、問題はないんだよ、どこにも。いきなり笹井さんに呼び出されて、ふたりが知り合いだったことには、確かに驚かされたけどさ。それよりどうしよう。ほんとの住所がわからないぶんには送ろうにも送れない。ちなみに会社の住所はどこなの?」
 バーの薄明かりの元、並ぶふたりは親密に見えた。上品で育ちのいい雰囲気が酷似しており、誠はなんだか自分がものすごく粗野な人間のような錯覚を起こしてしまったほどだ。
「S区の○○よ」
「うーん。じゃ、うちに泊まってってもらうのが一番の良策かもな」
「えっ。さ、さすがにそれは……申し訳ないわ。いいのよ、こんなヤツ捨てて帰っていいよ、コウくん。ご実家でしょ、あたしが何とかタクシーで連れ帰るわ」
「酔った男とかなでさんみたいなきれいな女性、ふたりっきりにできるわけないだろ! いくら笹井さんだからってね、酒は恐ろしいもんだから、何が起きるかわからない。俺は関わらせてもらうよ。いいんだ、大丈夫。家ならふたつあるから。さあ、笹井さん。帰りましょう」
この頃にはだいぶ頭がすっきりしてきていた誠は、かなでと孝輔の会話によって自分が酔ってバカな行動をしたらしいということを理解していた。恥かしさに穴があったら入りたい気分だったが、こういう時に全てをごまかせるから酒というものは便利なのだ。もうなるようになれ、と半ばヤケクソで成り行きに身を任せることに決める。すでに酔いはいつでも意識を失えるほどの域まで到達していたので、孝輔とかなでに促されてバーを出た後、連れ込まれた車の中で寝た。
 眠りに落ちる寸前に、しっとりした手が頭を撫でてくれたことをうっすらと覚えている。

 目覚めは急に訪れた。酒に深く酔ったとき独特の、なにか不安を孕んだ唐突な覚醒に、誠は心臓をドキドキさせながら飛び起きた。
 辺りは明るく、一目でアパートではないとわかる、広く立派なつくりの部屋だった。起きた拍子に自分の体の下からぎしっと何かがきしむ音が立ち、誠はそれが革張りのソファだと知る。真っ黒で大きな、いかにも高級そうなセンスのいいソファだった。
 ここはどこだ。
 答えは考え出すのとほぼ同時に訪れた。孝輔の家だ。自分はかなでと仕事帰りに飲み、悪酔いして彼を呼び出してしまい、そのままここまで連れてこられたのだ。
自分の情けなさにまた打ちのめされるのを感じながら誠は立ち上がろうとし、そしてその時はじめて同じ部屋のもうひとつのソファにかなでが眠っていることに気が付いた。
 こんなとこまで連れてきてしまったのか、とほとんど愕然とする。彼女は誠に背を向けて横向きに寝ていた。長い髪がつやつやと照明に反射して輝いている。毛布ごしに浮かび上がる彼女のやわらかい体の線や、髪の束の隙間からのぞく白いうなじをしばらく見つめて、誠は、かなでを女だと思った。その肉体も、降り注ぐ運命の全てを受け入れようとする強く細い心も、正しい意味で女らしい、と。
 弦の音が流れていた。
 心に触れたのは今が初めてだが、誠の耳はその存在を彼が起きる前から聴き取っていた。
 ああ、この音、以前にも聴いた。
 誠は思いながら眼を閉じた。記憶は言う。それは倒れた日の病院でのことだったと。
確かだった。やさしく光るようなこの音に、あの日、誠はどれだけ救われたかわからない。ともすればその場で発狂してしまったかもしれない誠を鎮めたのは他でもないこの調べだったのだ。
 どんな人が奏でているんだろう、と思った。ヴァイオリンかな? 
 音楽オンチの誠は曲名はおろか、音から楽器の名前を当てることすらもできなかったが、この音楽はうつくしいと思った。弱りきって惨めな醜態をさらしはじめている自分すら、拒否せず抱きしめてくれるようだ。
「きれいだな」
 思わず感情が口を突いて出ていた。ほんとうに妙なる音だ。厚みと重みがあり、傷ついた心をじかに撫でさすっていく。その感覚に誠はいつしか涙していた。
 まるで音楽そのものに実体があるようで、誠は、もしも眼に見えるならそれは女性だろうと思った。そうだ、きっとかなでがチェロを弾くとき、紡ぎ出すのはこんな音なのだ。
 考えながら音に体を浸していると、ふと、当のかなでが自分を見ている視線にぶつかった。仰天する。
「ま、牧村っ?」
「……ヴァイオリンの音がする」
「え?」
「あおいの音だ……」
 あおいって誰、と誠は思い切り突っ込みたかったが、どうやらかなでは寝ぼけているらしいのでやめた。眼をこすりながら意味がわからないことをもごもご呟いていたが、しばらくそうさせていると、今度はいきなりほほえんだ。その柔らかさは今だかつて見たことの無いものだったので、誠は眼を瞬いた。
「泣いてるのね」
「え。……いや、気のせいだよ」
「嘘よ。でも、ふふ、わかるわ。あおいのヴァイオリンってね、やさしいくせに妙な説得力があるから、わたしもいつも泣かされちゃうの。癒すというよりきびしく背中を押すって感じで。でも、いいのよね。もんのすごくいい。だから大好き」
「まきむら。寝ぼけてんな」
「笹井さんは酔ってるわ」
「もう酔ってない。ここがどこで自分が誰かってことくらいはわかる」
「歩きつづけてね、くたくたになって、もう駄目って立ち止まる夜があるでしょう。その時がいちばん辛いんだけど、でも、そこから明ける空って、すばらしいのよ。雲の隙間を光が割って、地に伏せった私を照らすの。顔を上げると、まるで世界が歌ってるみたいな感覚があって、それで、それでね……。こういう、音楽が、聴こえ出すの。わたし、まだ断片的にしか聴いたことないけど、それでもあの美しさは忘れない。すごいのよ。生きててよかったって、やっと思えるの。ねえ、感じたこと、ない? 誠さんも、そういう光の旋律を」
「……ある、と思う。たぶん、ずっと、ずっと前に。だけど自分で顔を背け続けてる。こわいんだ。なあ、牧村、俺は歩き出すことすらできないかもしれない。」
「できるわ。大丈夫よ。わたしもずっと、立ち止まっていた。ううん、もしかしたら、今も」
「今も?」
「うん……わかんない。自分ではそうしてるつもりなくても、知らない内に足だけ動いてるのかもしれない。だから、誠さん、大丈夫よ。今はさみしいね、辛いね。でもね、乗り越えたらきっと素敵になる。なにもかも。世界は、わたしたちがそうと知っていれば、とてもうつくしいのよ」
 旋律はまだ終わらず、かなでがそんなことを微笑みながら言ってくれるものだから、誠は更に泣いてしまった。涙が後から後からあふれて、胸がぎりぎりきしんだ。
 コーチを思い出す。あんなに自分にやさしくしてくれた世界なのに、なにも応えてあげられず、自分が見放されてしまうのが怖かった。
 ありがとうの一言も言えなかったことが、本当に辛かった。
「さびしい」
 強烈につぶやいていた。
 かなでが微かにうなづいて、わたしも、と答える。
「ずっとずっと寂しいわ……あなたもなのね。」
「うん。きっと、孝輔くんもな」
「あおいもね。間違いなく」
「あおいって誰?」
「コウくんの彼女。とてもいい子よ。今度、紹介するわ」
「そうしてくれ。」
「かわいいから、きっと気にいるわ。誠さん、笑ってて」
「できる限りそうしたい。ごめん、情けない恰好ばっかり見せて」
「そういう意味じゃないの。でも、お願い、元気になってね。頑張って。それしか言えない」
「……うん。ありがとう」
「わたしも。ありがとう」
 そしてかなではゆっくりと、まぶたを下ろした。誠はまた寂しいと思ってしまったが、夜がやさしく過ぎてくれているのを感じていたから、耐えられるとも思った。
 静かにソファに横たわりなおし、毛布をかぶる。自分の側に今いてくれる、あるいはかつていてくれた全ての人のために、ここを越えたいと思った。
 そう、誠はその夜はじめて、本当に自分自身と戦うことを決心したのだった。






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