Andante sostenuto








「ただいま帰りました」
 岡田家に帰り着いたかなでを出迎えたのは藤原孝輔だった。靴を脱いで上がっていったリビングで、初美が実にうれしそうな顔でお茶の相手をさせている見知らぬ青年がいたのである。
「あ。こんばんは。牧村かなでさん?」
 彼が岡田家の母子にどこも似ていないことや、現実離れした印象さえ与える整った顔をしていることなど、かなでは色々突っ込んで尋ねたかったが、とりあえず挨拶されたので答えた。誠とはまた別の意味で、感じのいい青年だった。
「こんばんは。ええと」
「かなでちゃん、お帰り。こちら、コウくんよ。あおいから聞いてる? あおいの彼氏の、藤原孝輔くん。」
「あらっ、まあまあ! それ本当? イギリス在住の? 例の藤原クリニックの息子さん? あ、これ悪い意味じゃないわよ、わかってくれると思うけど。牧村かなでです、はじめまして。」
 初美の紹介にやや興奮してかなではまくしたてた。噂には聞いていたが、こんなに上品で控えめなたたずまいの青年があおいの恋人だとは。実際目の前にしてみるとますます意外な気がした。何故ならあおいは歩く姿は百合の花、を体現した容姿をしてはいるものの、性格はあのとおり、歯に衣着せぬ雌豹であるからだ。
「うわあ、面白い人だな。そう、藤原孝輔です。最近じゃほぼ毎日、岡田からかなでさんのこと聞かされててさ、今更驚きはしないけど、嬉しくはある。これからよろしく」
「こちらこそ。あおい、あたしのこと何て言ってた?」
「聞きたい?」
 にやりとした笑みに嫌な予感がしたが、かなでは頷いた。そしてすぐに後悔した。
「CMみたいにきれいな髪して、すらっと長い手足を持った、潤うようなアルトボイスのアジアンビューティ。チェロがひっくり返るぐらいうまい。ふるいつきたくなるような魅惑のお姉さん、だって。」
 恥かしい! 内心かなでは仰け反ったが、自分から聞いたので、さすがに言葉にはできなかった。急いで話題を転換しようと、コートを脱ぎながら初美に尋ねる。
「初美さん、あおいは? 今日はコウくん、ご飯食べていくんですか?」
「勿論よ。あおいは、残業。恋人不幸な娘だと思わないー? コウくん、せっかく今日帰ってきたばっかりなのにねえ。それも、あおいに会うため休み繰上げまでして」
「それは誤解です! 俺が今回はやく帰国したのは親父の具合が悪いからですよ!」
「あら、じゃああおいのことは考えてなかったのね。」
 真っ赤になる孝輔だが、初美にそう問われると、馬鹿みたいに黙ってしまった。なんとでも嘘をいえばいいのに、とかなでは彼への好意があふれるのを感じながら微笑む。
 正直で、誠実な男の子なのね。
「……かなでさん、岡田を一緒に迎えに行こうぜ。」
「いいわよ。」
 階段を並んで降りて、門を抜ける。さっき見慣れない車だわ、と思った記憶のあるステージア。孝輔はその助手席にかなでを乗せてから、自分も乗りこんだ。紳士だわ、とかなではこっそり思った。
よかった。大事なあおいの彼氏がこの子で。
「中央駅まで行くから、30分ぐらいはドライブできるね。」
「わー、素敵」
 彼が告げた駅名は最寄駅より6つほど離れた都心の駅だったので、かなでは喜んだ。道程が長ければ長いほど孝輔と話せる。
「ステージア、いいわね。かっこいい」
「元々は親父の車。気に入って使ってたらくれたよ。でももうかなり古いんだ。メーターも回ってるし」
「そういえば、お父様が具合悪いとか言ってなかった? 大丈夫なの?」
「うん。ただの過労。気をつけて見てるから大丈夫。」
 きちんとかなでがシートベルトを締めたか確認してから、孝輔は車を走らせ始めた。
 窓から夜空を見上げて、その美しさに気づいたかなでは、今この瞬間に孝輔と会えてほんとうに嬉しいと思った。濃い闇、寒暖差でくもり、やがてにじんでゆく窓ガラス。冬らしい、冷たさの中に発見するあたたかさに包まれて、とても素直になれそうだった。
 あおいと出会って、誠を好きになって、こうして孝輔ともめぐり合って。
疲れるがうれしい。
「今思ったけど、初対面で女性を車に乗せちゃうなんて、俺すごいナンパっぽいよな。」
 孝輔が言う。笑ってそんなことないわ、とかなでは答えた。
「最高の友達になれそうな気がする」
「俺もそう感じてる。自分だけの思い込みじゃないと知って安心したよ」
「そういう瞬間って、あるのよね。ご飯を一緒に食べたり、こうして同じ車に乗ったり。距離が近くて、でもそれが不快ではないから、思いの全てを話せそう。あおいにキミの存在を知らされてから、ずっと会ってみたかったの、コウ君と」
「ありがとう。俺もなんだ。ブラームスは好き?」
「大好き。」
 即答すると彼は笑った。
「だろうと思った。じゃ、かけさせて」
 そして車内に流れ始めたのはこともあろうにチェロの音色だった。
 なぜ、とかなでは心臓に重い一撃をくらってうめいた。本来ならヴァイオリン・ソナタであるはずの「雨の歌」。よく伸びる自由な音がかなでの心臓に絡みつき、胸をえぐる。自ら売り払って以来かなではチェロの音を聴くことをやめていたから、ほとんど二年ぶりに触れる、その存在だった。
「……ヨーヨー・マね。」
「よくわかるね。」
「この曲をチェロ版にしたのは彼だけだもの。でも、ごめん、止めて。わたしはチェロは聴けないの」
「なんで? 弾くんだろう?」
「あおいのお馬鹿。昔のはなしよ」
「やめたの?」
「うん。楽器も売ってしまったわ」
「そうじゃなくて、もう二度とやる気がないのかって聞いたんだよ。」
「ねえ、なんでそんな言い方するの?」
 率直過ぎる孝輔の物言いにかなでは呆気なく傷ついていた。
やる気がないのではない、やれなくなってしまったのだ。かなでにとって音楽は命で、それは家族という生まれた時から与えられている命とはまた別の、自分が努力して勝ち得た生だった。
しかし、それほどまでに愛して執着しているものを守るには、今のかなでは弱りすぎている。だから捨てた。一度は必死ですがりつこうとしたが、自分を必死で育ててくれた母が何の非もないのに重い病にかかり、美しかった頭髪がごっそり抜け落ち、最後にはがりがりに痩せて白目を向いて死んでしまったのを目の当たりにして、かなでは強烈に思ったのだ。
これ以上なにか失ったら私は私でいられなくなるだろう。
だからやめた。チェロを売った。
今かなでが送る静かな生活は、治癒の日々なのだ。
しかし、孝輔は、さすがにいい男であった。彼はそんなかなでの甘えを見透かしたように言葉を続けた。
「岡田もかなでさんと一緒だったよ。あいつもヴァイオリンをやめてた。今でこそ頑張ってるけど、一時はかわいそう位なにもしてなかったんだ。俺はその時期にあいつと会ったから、だからわかるよ。かなでさん、あの時のあいつと同じ顔をしてる。」
「弾きたくても弾けない顔? やめてよ。あたしはもう弾きたくなんかないんだから。色々ありすぎたのよ。お母さんのために弾いてた。お母さんと暮らす自分のために弾いてた。守られている環境の中でしか楽器なんて弾けないのよ。上流階級の所有品なんだから」
「そういう意味じゃないって、ほんとはわかってるんだろ? 音楽っていうのは、生き様だよ。芸術とか娯楽とか、単純に名前のつけられるものじゃないんだ。小手先だけで楽器を奏でるって意味でもない。なんでもそうだろ、絵でも文章でも彫刻も。」
「カッコいいこと言うのね。でも、もう終ったのよ。音楽をやってたあたしは、過去のものなの。可哀想とか勿体無いとか思わないでよ。お門違いってヤツなんだから」
「それはおかしいだろ、だったらなんでチェロが聴けないんだよ?」
 大通りは渋滞していた。わずかずつしか進まない進路に切迫感を覚えてかなでは苛つく。孝輔のことは既にかなり好きだったが、車内が息苦しかった。止まないチェロの音に閉じ込められている錯覚におちいる。だが本当は、閉じ込めているのはかなでなのだ。わかっていた。
 母が死んだことを理由に、自分はずっと音楽を悲しみの中に閉じ込めているのだと。
「……ごめん、言い過ぎた。」
 ややあって孝輔が申し訳なさそうに謝ってきたとき、かなでは心底自分が情けなくなった。
 彼は何も悪くないのに、謝らせてしまった。
「こちらこそごめん」
 うなだれて、両手で顔を覆った。孝輔と会った最初にそう感じていたように、素直になることにする。
「キミが言ってることは正論。ぜんぶ、全部正しい。そうよ、音楽は、生き様。命。だから過去になんてできるはずはないのよ。でもごめん、正直いまはわかんないの。またチェロが弾きたいのか、また音楽がやりたいのかどうかなんて。わかるのは、音楽が呪いみたいにあたしの中から去ってくれないということだけよ」
「それだけ辛い経験をしてるんだからしょうがないよ。そういう言い方をしていいんなら……だけど。悲しいだろうし、寂しいだろう。たぶん今も。でもごめん。俺には身近な人を喪った経験はないから、本当に深くは理解してあげられないんだ。岡田の時もそうだった。口惜しくて、どうしようもない。ほんと自分で自分が嫌になるよ。俺ってどこまでも育ちがいいお坊ちゃんなんだよな」
「そんなこと言わないで。コウくんはそのままでいいのよ。あなたにはあなただけしか知らない色んな膿がある。それに、大切な人が死ぬなんてこと、誰だって経験しないほうが幸せなのだから。大事なのは、そう、幸せはそうやって自分の中にあるもの、大切な人の中にあるものだって認識して、生き急がないことだと思うわ。無くさないよう努力すること」
「幸福は追い求めるものじゃないってこと?」
「ううん……なんていうのかな。わたしは、あくまでわたしは、それは、命そのものなのだと思うの。この世で一番尊いもの。愛を、やさしさを、時には憎しみも悲しみも宿すもの。存在するものに幸せは宿る」
「ああ。……自分の体があるからこそ楽しさを感じたり、泣いたりできる。そういうことか」
「そう。青い鳥みたいに、それは、空のはるか向こうにあるものじゃないということ」
「I think,therefore I am.」
「感じ方としては、そうね。」
 孝輔の引用に弱々しくかなでは笑った。雨の歌が二楽章に切り替わり、車はまだスムーズに進まない。
「ブラームスのシンフォニー、聴いたことある?」
 しばしの沈黙ののち、ぽつりと呟いていた。孝輔は問い返した。
「何番?」
「一番。わかりやすいやつ。」
「あるよ。好きだ」
「闇から光へ、苦悩から勝利へ。こんなこと言うけど、失望しないでね。あたし多分、勝利はできると思うの。四楽章まで、自力で立ち直って迎えると思う。でもいまは駄目なの。疲れてて。弱ってて。音が聴こえなくて、現実に取り残されないように生きるのが精一杯なのよ。寂しさやら悲しさやらに埋もれるしかない時期なんだと思う。自分で自分を憐れむ最低な状態に、あたしはいるの」
「そんなことない、失望なんてするもんか。要するに、辛いんだね?」 
 眼を細めて言う孝輔は、イギリスに中学から留学しているためなのか、孤独というものをちゃんと知っていて、だから他人にもやさしくできるようだった。一緒にいると自分の中の孤独をひっぱりだされて、かなしくなってしまう。
 かなでが言葉を失って彼のことを見つめると、静かな微笑が暗がりの中に見え隠れした。
「かなでさんに必要なのは甘えられる存在だな。あるいは素直に、気持ちを訴えるという行為が。ヘンな意味じゃなくて、俺でよければいつでもどうぞ。あとあおいとか。もしくは別の誰かとか。とにかくこれでもかってぐらい、かなでさんは、もっとワガママ言うべきだ。」
 ……あおいの彼氏じゃなかったらゼッタイ惚れてた、と、かなでは思った。

 誠の腕がまずいことになっていると知ったのは、その翌日のことだった。営業部に遣いにやらされたかなでを出迎えたのが彼で、しかもその時営業部にはみごとに誰もいなかったので、お互い普通に喋ることができたのだ。
「よう牧村。おつかいか?」
 入り口まで出てきた誠はいつも通りの様子を装っていたが、かなではすぐにぴんと来た。何しろ彼の目が今までで一番暗い色をたたえていたのだ。ぎょっとするほど。
「疲れてるなら……帰りなさいよ!」
 言ってみたが、あの誠だ。仕事は何があっても遂行しなければならぬとか、そこまで疲れてねえよとか何とか言われると想像していたのだが、なんと、彼は「うん」とあっさり答えたのだった。
 かなではぞっとした。つまり誠は、もう抵抗する力もないほど弱ってしまっているのだ。
「今日はすぐに帰る。書類もってきてくれたんだろ、サンキューな。」
「さ、笹井さん、まずいよ。その顔、死にかけてるお魚みたいよ」
「自分でもそう思う。やっぱりひどい顔してる?」
「してる。どうしたの、具合が悪い? 腕が痛い?」
「腕が痛い。病院行ったら神経に傷がついてるって言われましてね。すっげえ腫れてて、ペンすら持てないのさ。おかげで可愛い後輩に仕事をやってもらってるよ、いやあ役得。」
「ブラックなジョーク言ってる場合じゃないでしょ! もう……無理しないでよ。しょうがないんだから。弱るときは弱るしかないんだから。お願い、横道に逸れて酒とか女とかドラッグに溺れたりし始める前に健全な状態で落ち込んで。こんなことしか言えなくてほんとに申し訳ないんだけど」
 誠の目線はうつろだったが、かなでからは逸らされなかった。彼はいつだってそうだ。目の前にあるものを無視することができないのだ。だから野球を自分の骨身にしてしまうほどのめり込んだ。だから仕事でいい成績を上げている。
 たまらなくなって、かなでは書類をすぐ脇の、誰のだかわからないデスクの上に置くと、誠の首に手を回して抱きついていた。落ち着かせてあげたかった。
人が人にしてあげられるごく僅かなことを、かなでは誠に残らずやってあげたかった。
「まきむら?」
「帰って。有休取るなりなんなりして、休んでよ。あんたにそんな顔されたくないわ。自分まで辛くなる」
「休んでる方が、色々余計なことを考えちまってな。動いてると忘れられるから動いてるんだ。俺、バカだからさ」
「そうだとしてもそれで余計具合悪くなったらどうすんのよ。それこそほんとに阿呆よ。末代まで罵ってやるわよ。今日は外回りはしてきたの?」
「うん。牧村、きついなー。」
「一緒に帰ろうか?」
「そうしたいけど、正直、今の俺はまともじゃない。腕のせいだけじゃなくて、それのせいでいろいろなことを思い出したりして、今まで逃げていた現実を見せ付けられて、狂いそうなんだ。あるいはすでに狂ってるのかもしれない。おまえをそういう状態で見たくない。自分からこの間は誘ったけど……ごめん、まさかここまで自分が落ち込むなんて思わなかったから。生きてきてはじめてだ。日々がこんなに辛く思えるのは」
 吐き出すような誠の言葉を耳のすぐ近くに感じた、と思ったら、彼はかなでの肩に顔を埋めていた。そのまま片方の腕、左腕をかなでの腰に回してしばらく黙る。苦痛の波と戦っているのが感じられた。
 かなではそっと、彼の濃い灰色のスーツごしに、くだんの右肩に指を触れさせてみた。確かにひどく熱く、じんじんと脈打っている。軽く押してみるとぐにゃりとした弾力があり、誠が喉の奥でうめくのが聞こえた。
「笹井さん」
「うん」
「あのね、人には多くのタイプがあると思うけど、その中に、痛みを知る人と知らない人っていうのがあると思うのね。肉体的な意味でも精神的な意味でも。私は、前に言ったように、家族がいないの。だからそのことによって昔からすごく苦しんできた。寂しくて、切なくて。その感情を払拭するための唯一の手段も、自ら手放してしまって、今もすごく辛い。こんなこと言うのは偉そうだってわかってるんだけど、でも言わせて。誠さんは今、その痛みを知っている最中なんだと思うの。あるいは既に知っているんだと思うの。わたしたちはだから、痛みを知らない人から考えれば一歩ずれた場所に存在しているけど、だからこそ、楽しいこととか嬉しいこととか、すごく敏感に感じ取れると思うのよ。ね、だから、狂っててもいいわ。あたしと一緒にいてあなたがすこしでも楽しいと思ってくれるならあたしを使って。ほんとうにそう思ってるから」
 喋りながらかなでは、また恋をした、と思った。利得もなにもない、剥き出しの恋だと。
 誠は黙っていた。何か言おうとしても言葉が出ないようで、かなでの肩の上で息をしずかに吸ったり吐いたりを繰り返していた。そして、かなりの時間が経過した後、ようやくこう呟いた。
「……おまえの」
「え?」
お前の、話をして、と。









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