Andante sostenuto








「……きみは誰?」
 その瞬間のことを、ずっと後になってから、誠は何度も何度も思い返した。
 まるでそこだけ光に照らされた夜のあいだの瞬間ように、はっきり思い出すことができる不思議なワンシーン。ほんものの出会いなんだと後から理解した。いつだってそうだ。出会いなんて、そのありがたみに即座には気づけない。
「藤原の息子の、孝輔です。笹井誠さんですよね。」
 全体的に、顔のつくりや着ている服もふくめて、控えめな感じのする男の子だった。だがけっして地味というわけではなく、視線を合わせるだけで胸が鳴るような強い瞳をしている。そのことが肌の白さや、よくよく見ると驚くほど整った目鼻立ちとあいまって、なにか浮世離れした印象を彼に与えていた。
 孝輔、と彼が名乗った瞬間から、誠は自分の世界に今まで知らなかった色がつけられたのを感じた。孝輔の色、彼にしか出せない色。それはひどく淡いくせに妙に強烈で、確かに誠の心臓を染め上げ、もうこれから一生落ちることはない気がした。
 なんて寂しそうな眼だ、とじっと孝輔を見つめながら、誠は眼を細めた。かなでと似ている。孤独を、おそらく本物の孤独を知ってしまっている眼だ。
「父が」
「うん」
「眼を醒まして、あなたのことを呼んでいます。三階にどうぞ。ご案内しますから」
「うん。」
「……大丈夫ですか?」
 馬鹿のように頷くだけの誠に孝輔は怪訝な顔をしたが、どうやら自分の父親が倒れたショックでそうなってしまっていると判断したらしい。黙ってその後誠のことを三階の寝室に案内した。
 藤原医師は仕事の最中にいきなり倒れてしまったらしく、白衣のままでベッドに横たわっていた。眼を醒ましたものの起き上がる体力はないようで、ドアを開いて入ってきた誠にすまなさそうな視線を投げた。
 「ああ」と彼は言う。弱々しい声が彼の疲れを物語っていた。
「こんな体たらくで申し訳ない、本当に。お電話したすぐ後に、こう、ふらふらっときてしまってね……。」
「俺のことは構わないで下さい。それよりも、ご自分のお体のことを第一に。以前から思っていたんですよ、お医者様という人種は、人の病は治しても、自分の病や体調には鈍感なのだなあと。俺が担当しているべつのお医者様たちもそうなんです。」
「いやはや、耳が痛い。」
 苦笑しながら身じろぎした医師の肩に、夫人がずっと手を当てているのに誠は気づいた。
 彼女はベッドの脇に椅子を置いて腰掛けていた。孝輔がすっとそちらへ寄っていって、母親の耳元に何かささやく。彼女は弱々しく、だがとても嬉しそうに微笑んで、首を横に振った。
 完璧な家族じゃないのか、と誠は枕もとの三人を見比べながら内心思っていた。温厚な父に美しく上品な母、仲のよいその夫婦から生まれた、賢そうな息子。
 なのにどうして彼はあんな眼をしているんだ?
 誠は再び孝輔のことを見やった。彼もそれに気づいて穏やかな微笑で答えてくる。
 医師が絶妙なタイミングで息子に関して補足を入れた。
「そうそう、そういえば。笹井さんはうちの息子と会ったのは初めてでしょう。もう自己紹介はすんだかもしれませんが……次男の孝輔です。イギリスにずっと留学しているもので、めったに家にいることはないのですが、今年はちょっと事情があっていつもより早く帰国しているんですよ。」
「ああ。今まで出会わなかったのはそういうわけですね」
留学生、故郷から離れてひとりで生きてきた子。そのせいか、と誠はすこし納得した。
「さきほど医学の知識があると奥様が仰っていましたが、やはり医学を勉強していらっしゃるんですか?
「できればそうしてほしかったのですが、息子の人生は息子のものですからね。好きにやらせていますよ。彼は彼で、今は言語学だかなんだかに夢中のようだ。勉強するのが好きらしいんですよ」
「そんな感じがしますね。何だか、落ち着いていらっしゃって」
「そうですか? 自分の子となると、どうにも客観的には見られないのですがね。よければ仲良くしてやってください。日本にいる期間が短いせいで、孝輔にはあんまり日本人の友達がいないようなんですよ」
「友達なんて無理して作るものじゃないだろ、父さん。」
 それまで黙って自分が話題になるのに耐えていた孝輔が口を挟んだ。照れ隠しに怒ってみせている様子で、部屋にいる全員が笑ったが、ひとしきり笑い声をあげたあとの医師のひたいに汗が浮いているのを夫人が発見し、あわてておしぼりを作りにいった。誠もそろそろ帰らないと、と決意する。大体まだ仕事中だったのだ。
 その場でブリーフケースに手を突っ込み、持ってきた薬とそれに付随する諸々の書類の束を医師に見せると、手短に説明を述べて、五分後には深く礼をして部屋を出ていた。医師があまりに何度も申し訳ないと繰り返したので、立ち去りがたいことこの上なかったが、幸い孝輔が父を黙らせ出口を切り開いてくれた。藤原医師と会う時はいつでも中々別れを切り出せずに困っていた誠だったので、これは大変うれしかった。
「ありがとう。いつも、きみのお父さんとはどう別れるのが一番いいかって悩んでるものだから、今日は助かった。」
 階下への階段を降りながら言ってみると、孝輔はいいえと答えて首を振った。
「ああでもしないと夜までお帰りになれないだろうと思ったもので。父はほんとうに優しくていい人なんですが、いささか医師としては人間的すぎるところが欠点なんですよ。客人はともかく、患者さんにまで粉骨砕身、って感じで尽くしてしまうもので。そのせいで自分の休憩時間をぜんぜん取れなくて、今回倒れてしまった。」
「ああ、そんな感じするな。……大事無いといいね。」
 心から言った。孝輔には伝わったようで、彼ははい、と頷いてみせる。
 リビングの脇を通って、更に玄関のある一階まで下る。このままいきなり孝輔と別れるのは、誠はなんだか惜しい気がした。さっき藤原医師は息子と仲良くしてくれと言って来たが、そればかりのためではなく、誠は孝輔ともっと話してみたいと思った。かなでに対しても同じように思ったが、彼女は女で孝輔は男である。明らかに自分よりずっと年下の、そんな年代の”男の子”に、誠はふだんどう間違っても心惹かれるようなことはないのだが。
「……今回は大事ないんです、が。繰り返すのが一番まずい。さっき、父の脈拍やら血圧やら見てみたら、どれも基準値より多いか高いかなんですよ。実は俺の休暇って、本来はもう少し後なんですけど、今回は母から父の体調が悪そうだって聞いて予定を繰り上げて帰ってきたんです。」
「じゃあ、前々から兆しはあったんだな。……っていうかきみ学生だろ? 大丈夫なの、単位とか」
「死にもの狂いで課題終らせて、教授にも何だかんだ説明して、試験も無理やり受けさせてもらいました。たいへんだったけど、親には代えられないでしょう。笹井さんの言ったとおりだから。医者っていうのは自分の健康に盲目なんです。心配だ」
 孝輔は、饒舌というわけではないが、的確に、吶々と、自分の思ったことを言葉にした。頭で喋るタイプだな、と、営業マンとして今まで多くの人間に関わってきた誠は判断した。しっかりした感受性があって、でも器用ではないから、理論でそれをコントロールしようとする。勉強が好きというのも、自分で自分を掘り下げる快感が得られるからだろう。医者っぽい性質と言えば確かにそうなのだが、孝輔はそれよりもう少し、人間的な気がした。彼が自分の父親をそう評したように。
「孝輔君、お父さんに似てるね。」
 口に出してみると、意外そうな顔をされた。茶色い眼が見開かれて誠に向けられる。
「はじめて言われました。どちらかというと母似、って言われますよ」
「見かけはね。性格が……しゃべり方とか、考え方とか、なんとなく似ている。」
「会ったばっかりなのに。」
「営業マンだからさ、俺。いろんな人と会ってきてるから。孝輔君は、寂しそうだな。ずっと留学してたって聞いたからかもしれないけど、自分が孤独だってことをちゃんと理解して、その寂しさを払拭するために勉強してるのかなって思った。まあ、これできみに全然寂しくなんかないっすよ、とか答えられたら、全部俺のカン違いにすぎないんだけどね。ごめんね。おごり昂ぶった一人の人間の意見として受け止めてくれていいぜ」
「そんだけ喋っといてそのまとめ方はないでしょう」
 孝輔はくつくつと笑った。おお、と誠は思った。初めて見る孝輔の笑顔は、想像よりずっと明るくて平和だったのだ。
 よかった、と思った。
 彼の世界にはちゃんと光が射しているのだ。出会ったばかりなのに、誠はすでに、孝輔の幸福を願うほど、彼のことを好きになり始めていた。
「カン違いですよ、とばっさり言ってみたい気もしますが、やめときます。その通りですよ。自分が孤独だとか認めるのは……なんかすげー情けない気もしますが。あいにく中学からずっと一人で留学してるもんで、孤独と向き合うのは当たり前になってしまいましたよ。でも、イギリスは好きだ。そこでできた友達も、逆に日本で出会えた友達も。少し前まではそうできなかったけれど、俺は今、自分の人生をやっと認められつつあるんです。」
「きっと、素敵なひとたちと出会ってこれたんだろう。暗く、ないもんな。」
「そうですね。……感謝している出会いは、たくさんあります。」
 玄関前で話し込んで、二人して今自分たちが置かれている状況を忘れかけた。話すことが、とても心地よかった。お互いにそう思っているのが感ぜられた。今までずっと心に開いていた空洞に、ぴたりとはまる言葉に声。野球みたいだ、と誠は思った。心の中で今、それと孝輔は同じような大きさで、同じくらいの位置に並んでいる。
「また会おう、孝輔君。」
 きざな男のセリフのようになったが、誠はもちろん本気だった。そして孝輔はそのことを理解した。
「はい」
 淀みなくはっきりと答える、孝輔のようなそんな声を、誠は自分でも出したいと思った。何があっても。
「ぜひ。」
「電話番号教えて。絶対にかけるから。日本にはいつまでいるの?」
「新年が明けるぐらいまでです。」
「わかった。……あ、それと。」
 携帯電話をふところから取り出し、孝輔の番号を登録しながら、誠は思い出したように言った。
「お父さんのことは本当に気をつけて。病気や怪我っていうのは、人の力である程度はどうにかできるものだから。もしも、決定的な瞬間が訪れてしまったら、その後ではもう遅いからね。失うなんて一瞬だ。どんな大切だったものでも、ただの一瞬で、もう絶対に手が届かなくなってしまう。それは、とても、とても苦しくて悲しいことだから。だからそうなる前に、これでもかっていうぐらい注意してあげて。」
「笹井、さん?」
 なんでそんなことを知っているんですか、と言いたげな孝輔のまっすぐな視線に微笑を返して、誠はそれじゃと靴を履いた。
 夫人が息子を呼ぶ声が聞こえる。降りてこられる前に、玄関のドアノブに手をかけた。
「またね。会えて嬉しかったよ」

 社に戻ると19時だった。
 月曜だというのにひどい疲れようで、誠は鬱々とパソコンに向かった。ちかごろ、こうやって疲労を感じると必ずと言っていいほど右の肩が痛くなる。今も、キーボードを叩くたびに小さな痛みが突き抜けている。関節の周囲が熱を持っているのがわかって、触れてみると腫れていた。それもかなりひどく。
 野球少年としての経験が冷やさなければまずいぞと訴えていたが、同時にそうして何になるよと皮肉る現在の自分がいる。正論だ。どうせもう二度と野球などには手を出さないのだから、神経の1本2本がイカれたとしたって自分にとっては何の支障もない。
 そうさ。全くそのとおりだ。だいたい俺は元から肩が弱いんだ。高校時代のあの頃からな。
「今にはじまったことじゃないっつーの。」
 声に出して言うことで自分自身を納得させ、結局それから小一時間ほど机に向かい、無事業務を終了させた。時計を見ればまだ八時になっていない。家に帰り着くのがはやくても11時だった近ごろの誠から考えれば、これは紛れもなくベストスコアだ。
 うきうきして帰り支度を整え、営業部を出る。かなでに会いたくて事務課の前を通ろうかとも思ったが、ヘンな噂が立つと困るのは自分だけではないのでやめた。
 そうして正解だった。
「あ、笹井先輩だー!」
「おお、鈴木ちゃんではないか」
オフィスの出入り口付近にて他でもない事務課の女の子と出くわしたのだった。もしも事務課の前をうろちょろしていたら即効見つかって噂になっていたことだろう。
 ひゅー危ねぇ、と内心焦りながら誠はその子と向かい合った。派遣社員の二十歳だ。若くて身奇麗な、小鹿のようなかわいい娘。
 以前誠は彼女が仕事のことで泣いている現場を発見してしまったことがあって、それ以来なにかと気にかけているのだ。正社員とか派遣社員とかそういう名称を、人によっては人間の価値を測るものさしみたいに使う場合もある昨今だから。
「お久しぶりです、元気ですか? 先輩、この間ぶっ倒れちゃったって聞いて心配してたんですよー。」
「あー、なんか、栄養不足と睡眠不足と疲れがたまってたみたいでね。うちの会社は人使い荒いから。でもありがとう、今は大丈夫だよ。鈴木ちゃんこそ最近は悩んでないの?」
「ないですー、最近は平和。がんばって事務やってます。」
 にこにこ、と笑う鈴木ちゃんは本当に屈託がなく、明るい。年齢のせいも大きいだろうが、未来への希望いっぱいに日々を生きている感じが全身からにじみ出ていた。毎日ぬかりなく気を使われている身なりにメイク。せいいっぱい体当たりで仕事をして、落ち込んだり成長したりを繰り返し、毎週末にはデートなんです、と生き生き走ってオフィスを出て行く。
 幸せの中にいる女の子だ、と誠は知らずしらず微笑しながら彼女のことを見つめていた。かなでとは違う。全然、まったく、違う世界を生きている。
 この鈴木ちゃんにとってはきっと、生きるとは完璧な青写真のようなものなのだろう。仕事をして、恋をして、結婚して、自分の存在価値を悩んでみたり、なにか目標を持って生きたいと考えたり。多少つまづいたりしながらも、歩く道は雄大な大空の元、大地の上に切り開かれており、太陽の光に照らされている。そして彼女の背中の後にはふるさとへ続く道が常にあり、望めばすぐそこに帰ることができるのだ。
 でも、かなでは、きっと違う。
 誠は彼女のことをまだほとんど何も知らないが、それでもかなではこう言った。自分には家族がいないと。それだけで十分だ。それ以上かなしいことがこの世にあるか?
 考えて、誠は急にかなでに会いたくなった。
 牧村の道はきっと、鈴木ちゃんの歩く道よりずっと下に、ずっと暗い谷底にある。
「笹井さん、痩せましたね。ちゃんと、ごはん食べないとまた倒れちゃいますよ。営業一課のホープなんですから、笹井さんがいなくなったらうちの会社やってけなくなっちゃって困ります」
「牧村にもこの間同じこと言われたな……ああでも、それはないよ。いなくなることはない。俺、今の仕事好きだしね。給料は安いけど、色んな人と会えるし。社内の女の子、みんな可愛いしなあ」
「あいかわらずですね、先輩……。ところで
牧村さんってうちの事務課の牧村さんですか? 髪のながーい、アジアンビューティ?」
「うん、そう。倒れたとき助けてもらったから、礼を言いに行ったんだよな。そしたら、彼女見た目どおりクールなんだな。びしっと生活態度に喝くらっちゃってさ。美人に怒られるのは気持ちがいいもんだ。俺、Mかもしれないね」
「クールなのは確かですけど、いい人じゃないですか。無口だけど態度でたすけてくれるっていうか」
「そうなの? 俺一度しか話したことないからわかんない」
 誠はさらっと嘘をついた。なんとなく窓の外に眼をやって、想う。
 かなでは透明な夜のようだ。無言で腕の中に世界を抱き、全ての者に対してひっそりと優しい。
 藍に澄んだ夜空、そこに月はない。だが、ビルとビルの合間に、上に、砕いたガラスのような星が細かく輝いている。うつくしいと誠は思った。この闇の明度。
 着実な冬の訪れ。
「じゃあ、さよなら。笹井先輩」
「ああ、さよなら。お疲れ様」
「お疲れ様でした!」
 きちんと頭を下げてお辞儀をすると、鈴木ちゃんは小さく細い足でオフィスの方へかけていった。誠はその後姿を見送ってから、ふかくため息を吐き出す。
 まったく本当に恋っつーもんはとんでもない。
 体の疲れも苦痛もまったくお構いなしだ。会いたいと想う自分と、そのあまりに強い気持ちだけを残して、世界のすべてが消えうせてしまったような気がした。さみしい。そう、多分、本当に真剣に人を愛するということは、孤独と向き合うことなのだろう。刹那の甘い夢などは恋のほんの表面を覆っている幕だ。
 今や誠は一秒ごとにかなでを恋するようになっていた。







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