Andante sostenuto








 誠は北国の生まれである。幼少から高校まで一貫して両親の里である青森で過ごし、東京の大学に入学してから初めてその慣れ親しんだ地を離れた。田舎と都会の差に落胆したり驚いてみたり、大学の教育システムに戸惑ったり、初めての一人暮らしでいろいろ生活の勝手がわからなかったりと、表面的には完璧な大学一年生を演じきった誠だったが、真にはあの頃、何にも感動していなかった。
 彼の心には当時ひとりの人物がいた。高校時代の恩師だ。野球部のコーチで、入学以来誠の野球を高く評価し、プロを目指せと強くはっきり言って来た。
 情熱的ですこし頑固な人物だったため、何度も誠との間に持たれた話し合いは、いつも少し一方的な、談判に近いかたちを取った。
 誠は高校在学中ずっとそれが苦痛だった。恩師の優しさだけはなんとなく感ぜられたが、激励を素直に受け止めて成長しようと殊勝に思えるほど彼は精神的に成熟していなかったし、何より、野球だけに未来の形を限定されてしまうのは自分の将来という空に二度と晴れない大きな雲がかかってしまうようで息苦しかったのである。
 高校三年の夏、コーチ率いる誠たちや旧部員は悲願の甲子園出場を果たしたが、一回戦を突破した日の夜、誠は右肩に激痛を覚えて宿の部屋から出て来れなかった。
 最終学年ということでその年の練習量は平生の倍以上だったし、誠はそうでなくとも肩があまり強い方ではなかった。6月ごろから肩に変調を覚えていたものの、コーチに言い出せないうちに夏を迎え、そして一回戦の夜に殴り飛ばされることとなった。
 なぜ言わなかったんだ。
 コーチは岩のように重い声で誠に言ったが、誠は、言葉が見つからずに押し黙ったままでいた。
 あの時もしも誠が、誠自身の心の内を明確に説明することができていたら、あるいは彼は今も野球をやっていたかもしれない。だができなかった。彼はあまりに若く、野球以外のものを見ていなかったため、心の微細な色を表現する言葉の魔法など知るよしもなかった。
 あなたを失望させたくなかった。
 今なら言える。はっきりとそう言えるのに、当時は言えなかった。
 すべて俺が悪いのだ、と、そののち誠は何度息を止めたか知れない。
 部は二回戦で敗退した。誠は、右肩が動かず、出場することができなかった。プロどころか野球自体を高校でやめることに決めた。その年の秋にコーチは脳溢血で亡くなった。
 彼を殺したのは自分だと、誠は今でも信じている。

「乳腺医院?」
「うん。この間検診受けて、もう一度来るよう言われたの。」
「乳がんの可能性ありなの? お前」
「ないと思う。がんは痛みないし。たぶん、乳腺炎。」
「大事ないといいが……。俺、担当にいい乳腺クリニック知ってるぜ? 教えようか?」
「あ、ほんと? でも、この間の病院はいい病院だったと思うわよ。大体、会社のつてで行ったし。」
「ふーん。なんて病院?」
「藤原クリニック。」
 かなでの答えに誠は飲んでいたココアを噴出しそうになった。銀座の土曜から明けて翌週、月曜日。せわしない朝のオフィス街を、ふたりは飲み物片手に歩いていた。
「汚いな。大丈夫?」
 隣を歩いていたかなでが眉をしかめつつ心配してくる。誠はむせながらも頷いて見せた。彼女のことはこの間バッタリ鉢合わせしたコーヒーショップで発見した。今日もいるかな、と思ってのぞいたら、いたのだ。当然声をかけたが、もうお互い遅刻するのはこりごりなので、飲み物をテイクアウトにして少し歩こうとプランを立て、現在それを実行している最中。
 銀座での食事以来、お互いすっかり打ち解けていた。まるでずっと前から知っている仲間のように、危険なほど心を開いているのがお互いに感ぜられる。
「……あー、死ぬかと思った。」
 げほげほ、とまだ少し咳をして喉を整えながら、誠は言った。
「焦って飲むからよ」
「ちげーよ。お前の口にした医院の名前がまさに俺の担当の医師の病院だったもんで、たまげただけだ」
「えっ。ふ、藤原クリニックが!?」
「そ。マジびっくりした……まあ、県下唯一の乳腺医院だし、当たり前といえば当たり前かもな。」
 答えて少し誠はわらった。かなでの驚いた様子が面白かったのだ。
 社内での彼女、まるで能面のように不気味な無表情さで仕事にはげむ彼女しか今まで知らなかっただけに、こうして表情の変化を眼にすることが単純に喜ばしい。
 どんな美しい顔かたちをしていても、誠は表情のない女は嫌いだった。人間として味がない。
「確かにあそこはいい病院だよ。先生もやさしいし。従業員も上品だし。奥さんも美人で、それからたまに、すげえうまいボランティアも来てるし」
「……ヴァイオリン?」
「そう。よく知ってんな。あ、もしかしてお前が行った時に来てたのかな、そのヴァイオリンのボランティア。俺が見た時は若い、お前ぐらいのかわいい子だった記憶があるけど。」
「笹井さん、また出てるわよ、女好き。」
「違うって! なんだよその、俳句のリズム!」
 話す合間合間に温かい飲み物を含み、コートの襟を立てて向かい風のなかを進んでいく。今日は寒かった。街路樹の影など周囲のどこにも見えないというのに、足元を朽ちた落ち葉が舞っている。かなでがブーツの足元を止めて、いきなりその内の一枚を拾い上げた時には、誠はびっくりしてしまった。そういう行動は幼い子供のみがするのだと、彼は勝手に認識していたからである。
「どこから来たのかな。ポプラの葉?」
「……東京タワーのたもと、とかじゃん?」
「あ、そうよね。近いもんね。真っ赤だわー、きれいな色。」
「黄色いのもあるぞ。拾う?」
「きゃー、やめて、笹井さんがそういう行動するのって何かすっごく気持ち悪い!」
「気持ち悪いって、お前、失礼すぎ!」
 誠が言うと、顔の前で落ち葉をくるくる回しながらかなでは笑い、鞄から本を取り出すと頁の間に真っ赤なそれをはさみこんだ。洋書だった。あまり意識していないらしく無造作な動作だったが、誠はしっかりと、その一挙一動を見た。あまり見つめすぎて、顔を上げたかなでに怪訝な目線を返されたほどだ。何よ、と問われる。いや、と短く答えて首を振った。
 心臓が、強く打ち始めるのが自分でわかった。景色が、空気が、光が、まるでかなでのためにあるように彼女をとりまいて輝かせ始める。透ける細いきれいな髪の毛がトレンチコートの背中でつやつやと揺れていた。
 わかる。こういう瞬間の変化が意味するものを、誠は知っている。
 それだけに戸惑いとショックを隠せず黙り込んでしまって、会社のビルが眼前に現れたときにはほっとした。
「何の本? さっきの。」
「ヘミングウェイ。」
「似合いすぎだろ。ハードボイルド」
「ほっといて」
「でも牧村って、本とか音楽とか似合うよな。ほら、さっき言ってたヴァイオリンのボランティアとかさ。楽器弾けそうじゃん」
「そう? ええ、まあ。好きだけど。音楽。バッハとか」
「バッハ! 俺はクラシックてんで知らねえから全然わかんないわ。」
「大丈夫、見ればわかるわよ」
「……おまえ喧嘩売ってんのか?」
 どうでもいい会話を続けて、動揺を表に出さないよう努力した。何しろ営業マンだから、感情の制御にかけてはプロである。エレベーターでオフィスのある階に辿り着くと、じゃ、と片手を上げてかなでと別れる。組織というのがいかに狭くゴシップ好きな存在か知っているため、二人の行動は如才なかった。
「笹井さん、お電話入ってます!」
 心の中に芽生えたかなでへの恋心、自分自身おどろくほどに誠実で純粋なそれに、誠がさてどうしようかと腕を組みはじめた、その朝のことだった。
 新たな出会いがぽとりとひとつ、彼の目の前に落ちてきたのである。
「はい、誰から?」
 その電話から何が始まるかも知らずに、誠はデスクの電話を取り上げる。後輩がよく通る声で元気に答えた。
「藤原クリニックの院長様からです。」
「了解、ありがとう。」
 そして赴いた医院で、誠は遭遇することになるのだ。驚くほど澄んだ瞳を持つ、あるひとりの人間に。かなでと自分の人生に、これから深く関わることになる、とても大切な友人に。

 藤原医師は入社当時から誠が担当している乳腺科専門の医師で、総合病院を勤めたのち自ら医院を開業した。
 県下で唯一の乳腺専門医ということで病院はいつも混み合っているが、温厚でやさしい医師はどれほど患者が多くとも、一人一人にかける診察の時間を減らすことは無い。医院にはいつも控えめな音量で上質なクラシックが流され、くわえて世にも上品な従業員が雇われている。
 家柄がよく育ちのいい人物が多い医学界のなかでも、藤原医師のように誠実な人物は稀である、というのが誠の勤める医薬品会社での評判だった。
 ピンポーンとインターホンを鳴らすと、いつも通り美しい藤原夫人がドアを開いて出迎えてくれたが、どことなく顔色が悪くつかれたように見受けられた。何かあったのですか、とすかさず誠は尋ねる。すると、
 「ええ実は……」
 夫人がさらに疲れた顔をして白状した。
「わざわざ来ていただきまして、こんなことを申し上げるのは本当に気が重いのですけれど……先ほど、主人が倒れてしまったのです。」
「お倒れになった!? 藤原医師が?」
「はい。」
 告げられた事実に誠はほとんどよろめくほどのショックを受けた。いくら仕事上の取引先とはいえ、藤原医師との付き合いはもう5年以上になるのだ。情が移るにはじゅうぶんな期間である。
 それに、突然人が倒れて亡くなってしまう経験は、誠にとって無論はじめてのことではなかった。
「脳、溢血ですとか、脳梗塞ですとか」
 震える声が出た。夫人もそれを悟って、けなげに背筋を伸ばすと、誠をいたわるように見やった。
「ああ、いいえ、意識はしっかりしておりますし、そういう類の病気ではないようですの。今は息子が付き添っておりますわ、多少は医学の知識もございまして、おそらく過労による失神ではないだろうかということです。……お茶を淹れますわね。」
「お構いなく。」
 誠はこたえたものの、内心かなり動揺していた。
 近ごろの弱った自分から考えると、藤原医師の失神という事実は受け止めるにはかなり重いものに感じられる。
 皆が疲れていく。俺も、牧村も、医師も。くたくたになりながらも結局毎日朝早く起きて、仕事をして、夜家に帰り着いて寝て、そしてまた次の日を迎えるしかないのだ。そんなことを続けた先に幸せがあるかなんて誰にもわからないのに、人はただ前に向かって歩いて、生活しているのだ。道の途中で果ててしまう人だってたくさんいるのに、その人々の屍を踏み越えて、避けて、あるいは眼をつぶって無視して。
 どんなに自分にとって大切な人だったとしても、最後には離れるという選択肢しかない。
 コーチ、と誠は両手で顔を覆って呟いていた。ここ最近、ずっと彼の夢を見ていた。
 浅い眠りの中で彼は何度も、なんども現れ、当時と何も代わらない情熱的な口調で誠を誉めた。殴った。抱きしめた。
 だが最後には必ず、どんな展開の夢の場合でも、コーチは死ぬ。誠の目の前で、まずいことに、「お前は俺の誇りだった」とかなんとか言い残しながら。
 毎朝のようにベッドから飛び起きて頬に流れる涙を拭くたび、誠は違うとかすれた声で否定した。ちがう、俺はあなたの誇りにはなれなかった。むしろ逆だ。あなたの期待を裏切って、あなたの恩を忘れて、あなたを死に至らしめてしまった。
 そういう時、誠は自分が地の底に沈んでいくような気がしていた。背中の後にも、前にも伸びる道がない、ただ下へ下へと落ちていく状況。
 空を、見上げることなどできなかった。それはあまりに明るすぎ、まぶしすぎる。否応無しに未来や世界の広さを教え、誠にとって今それは、自分を押しつぶす絶望以外のなにものでもなかったのだ。
「笹井さん? 大丈夫ですか? ……お茶をお淹れしましたけれど。」
 頭がガンガンする。体の内側に鉛がこびりついてしまったかのように全身が重く、ぐったりとする。
 身じろぎもしない誠を心配して夫人が声をかけてきた。かぶりを振って、誠は低い声でこたえる。
「……すいません。少し、ショックで。藤原医師は俺が入社当時からお付き合いさせていただいている、とても大事なお方ですので。」
「まあ、それほどまでに思ってくださるなんて……ほんとうに光栄なことです。けれど、大丈夫ですよ。もう気がついたかもしれませんわ、様子を見てきます。ここでゆっくりしていらしてください、お仕事ということも今だけは忘れて。」
 柔らかく足音を立てて夫人が去っていくのを感じ、静かになった空間で、誠はひとりかなでを想った。
 彼女が、言っていた。心に傷を負ったとき、泣けないほどに疲れてしまったとき、それでも肉体が痛みを訴えてくる間はまだ大丈夫なのよと。だってそれはまだ自分で自分を治せる余地があるということなのだから。まだあなたに強さが残っているということ。
 なんでそんなことを知っているんだ、と誠は今ごろ、痛烈に思った。
 お前もこんな経験があるのか、牧村。あるいはお前のその瞳が語る孤独、それに覆われたもっとひどい場所に、お前は落ちたことがあるのか。
 それとも今、そこにいるのか?
 そんな状況でお前は俺にやさしくしたいと言ってくれたのか?
「笹井さん?」
 はっと、顔を上げた。そうしなければならないと思わされるほど、澄んだきれいな声が自分を呼んだから。夫人ではなかった。声が男の声だったことで、それはわかっていた。だが藤原医師でもなかった。それが誠を混乱させた。
 リビングのドアの戸口に立っていたのは、まだ年若い青年だったのだ。









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