Andante sostenuto








 倒れてからの誠は周囲の心配をよそに、今までよりむしろ倍はよく働いていた。
 毎日朝早く出社し、夜は10時過ぎまで残業をする。家賃を払う必要がないぐらいに家での滞在時間は少なく、食事も掃除もおざなりになっていた。今朝顔を洗ったときに自分の顔を鏡で見てその痩せ具合に自分自身で驚いてしまったぐらいだ。
 さすがに何か食わなければ、とあわてて開いた冷蔵庫の中がからっぽなことに気がついて二度驚かされ、その結果として、今、会社近くのコーヒーショップに入っている。
 熱いコーヒーが胃に染みるぜ、と思いながらもくもくと食べていると、ふと店の奥で、ひとり異様に目立っている女の子が目に付いた。あぜんとする。
 牧村かなでだった。
「……マジで?」
 こんな偶然ありか、とソーセージマフィンを噛み砕きながら誠はつぶやいて、すぐには席を立たず、しばしその場からかなでのことを観察した。
 薄暗がりの中でも輝いている髪の毛。ほんとうに長いが、整ったシルエットと色のために清潔感がある。ほっそりとした背中は椅子の背にはもたれておらず、自主的に伸ばされている。豊かなまつげがするっと伏せられた先にはペンを握った白い手があり、彼女は書類かなにかを書き付けているようだった。服装は制服ではなく、タートルネックにジーンズ。足元に視線を落としてみると、洒落たゴールドのパンプスを履いているのが見えて誠は好感を抱いた。
 過労だとか耳に入っていたが、彼女はこうしてちゃんときれいな恰好をして外に出てきている。
 社内では実はモデルらしいとか、どこかの社長令嬢だとか、その容姿と無口さによっててんで勝手なイメージを持たれているかなでだが、もちろん彼女だってただの一個の人間なのだ。その長い髪やきれいな手足を維持するためにかなでがどんな努力をするのか、あるいは、どんな顔で服を選んで出てくるのか。想像すると尊敬の念さえ抱いてしまう。
 自分はこうして疲れにかまけて醜く痩せ始めているというのに、偉いものだ。日々の中、ああして美しい自分を保っていられるということは、それだけの強い精神力をかなでが持っているということだ。誠はそのことに好感を抱いたのだった。
 変な言い方かもしれないが、誠は自分が倒れたところを発見してくれたのが彼女で、ほんとうに嬉しかったと思う。
 社内でかなでを見かけるたび、ほんのわずか胸に響く何かがあった。それは恋のもたらすときめきとか、綺麗な女を見たことによってうずく本能とか、簡単に名前のつけられるものではない。
 例えるなら、過ぎる季節に似ていた。車窓から見る、自分の目の前を流れていくだけのそれは、手を伸ばしてもけっして身のうちに留めることができない。今は確かに目の前にあるのに、一瞬後にはもう二度と取り戻せないものへと変わってしまうなにか。
 誠にとっては、未だに肉体の記憶に刻み付けられている、あの夏だ。かなでを見るたび、いつもその印象が、その音が、胸の奥で布一枚隔てて淡く発光するような感覚が確かにあった。
 ずっと、話をしてみたかったのだと思う。
だから、それが自分にとって決定的な喪失の瞬間だったとしても、誠は、自分が倒れたことによってかなでとのつながりが生まれたことを、心の底から嬉しかったのだ。
「牧村さん」
 立って行って話し掛けると、彼女は思い切り驚いて、勢いよく顔を上げた。
 長い髪の毛が体の動きに沿って帯のようにたなびく様も美しかったが、自分の瞳にはじめて合わせられたその切れ長の瞳の美しさは、これはもう衝撃を伴った。まるで夜の海がそのまま封じ込められたような眼だ。暗く透明に輝いている。
 誠は文字通り見惚れて、自分から話し掛けたくせに、しばらく言葉を編めなかった。
「……勤務外なのにごめん。」
ようやく口が動いたと思ったら、かすれた声しか出てこなかった。かなでがいいえ、というように首をかすかに横に振る。彼女は淡い色のコーヒーを飲んでいた。
「営業一課の笹井誠です。この間は本当にありがとう、助かったよ。牧村さんが対応してくれたおかげで。」
「お礼を言われるようなことはなにも」
 ここではじめて絡んでいた視線がほどけた。かなでが、眼を伏せたのだった。
「……していないわ。お具合は?」
「いいとは言えないが、格別悪くもないよ。」
 彼女の躊躇ない強い喋り方に、内心驚きながらも誠は笑っていた。年下だから敬語を使えなんて言うほど自分は厳格ではないし、かなでにはこういう物言いが似合う、と、今まで心のどこかで思ってきたからかもしれなかった。妙に心が浮き立っていた。
「朝食?」
「そう。」
「家でまともな食事してないのね。だからそんなに痩せてるのよ。また倒れたらどうするの? 二度はないわよ」
「それは俺の体が、って意味? それとも、牧村さんが俺を助けるのは、ってこと?」
 誠が言うと、かなでは眉をしかめてみせながら答えた。
「両方よ!」
 その時だった。誠には感じられた。
 突然脳裏がまっしろく開けて、そこにあざやかな映像が映ったのだ。倒れたあと、病院で見たそれと全く同じ光景だった。
 真夏日。砂にまみれた球場。観客席を埋め尽くす人々と、服の中にすら入り込んできて肌に張り付く、むっと暑い空気。潮の香りが鼻腔の奥に満ちて、同時に目の奥が痛んだ。
 コーヒーショップが、かなでが、全てが誠の世界から消えて、彼の眼前に今広がるものはまったく別の景色だった。
 過去だった。もう絶対に、自分では実現不可能な画像。
「……笹井さん?」
「牧村」
 右肩を、根元からもぎとってしまいたい衝動が体の底から沸き起こったが、もちろんできるはずはなかった。実際にできたのは涙を流すことぐらいだ。
 かなでの自分を見上げる視線に慈しみが混じったのを見つけて、誠は喜びを覚えた。
 死者の国ではぐれた仲間と再会した瞬間はきっとこんな感じだろうというような、そんな悲しすぎる喜びだった。
「何故泣くの」
「苦しい」
「……生きることが?」
「失うことが。」
 誠は囁くようにこたえてから、いや、と首を振った。
「ちがうな。失うことは辛くない。身動きが出来なくなる、この切なさが辛い」
 周囲の客が気づかないほどひっそりと、声も上げずに誠は泣いた。そして、それからかなでと連れ立って外へ出た。
 朝の匂いにはしっかりとした冬の冷気が混じり、濡れた頬を冷やすその感覚が心地よかった。
 朝日がビルとビルの隙間からのぞき、やさしい光でこの身を照らす。

 コーヒーショップを出て、現在時刻が始業10分前だとかなでが気づいて叫んだ後、誠は彼女と社まで全力疾走するはめになった。
 スーツに革靴、ブリーフケースといういでたちで、同じように出勤途中の人々の群れを抜けていく。かなではパンプスの足元で颯爽とついてきた。
「ああクソ! 走るのは大好きだが、焦らなきゃなんねえ状況っていうのは大嫌いだ!」
 かつて甲子園に出場したほどの野球少年だった誠は、実際にグローブとボールを手にしなくなって久しい今でも何かにつけて体を動かすのが好きである。仕事で営業先に向かうとき、わざと目的地の一駅前で降りて、線路沿いに歩いてみたりすることもあった。
 運動すると、全身が活性化する。肉体が大きく波打って、血液と酸素を必至で循環させる、あの感覚がたまらないのだ。心まですかっと澄み渡っていく。
「わかる。思い切り走って、死ぬほどおなかとか喉とか痛くなって苦しくなって、そのあとふうっと楽になる、あの感じがいいのよね。遅刻寸前だとそんな感覚楽しんでるひまもないけど」
「そう、世界が、なんか、透明できれいに見えてな! 脳に新鮮な酸素がいくせいだろうか」
「わかんないけど、人生もそうだといいわよね」
「人生?」
「苦しみの後にはすっごく気持ちいいことが待ってるってことよ!」
「……牧村、足はえーな!」
 だだだっと高い足音を立てながらビルに駆け込み、その更に奥のエレベーターホールに飛び込んだ時、朝礼五分前だった。四角い動く箱の中には他にも遅刻しそうでイライラを顔に出している人間が何人も居たが、突然空間を飛び越えてあらわれたかのような誠とかなでにはさすがに驚いたようだった。
 一瞬、場の空気が完全にふたりのものになる。それとなく視線を向けてくる人間の中には、当然ながら同じ会社の者もいた。たちまちかたく口を引き結んで呼吸を整えるかなでの横顔を伺いながら、誠は、久しぶりに走った、と思った。
 胸と脇腹が痛くて口の中は血の味だが、そう、この後を待てばいいのだ。そうすればふっと世界が明るく、やさしくなる。
 元々スポーツマンだから、体の反応はすばやかった。程なくして息が整い、手足の隅々にとくとくと血が送り込まれていくのがここちいい熱と共に感ぜられるようになった。
 近ごろ恐怖に捕われて無意味に働きまくっていたせいだ、体も心もよどんだ血に凝り固まって停止しかけていたらしい。胃の辺りでさっき食べた朝食がすごい勢いで消化されていくのがわかって、誠は、生きてるなあと馬鹿みたいに思いながら、気がついたらかなでを見ていた。
 さっきから何度も見ているのに、初めて目にするような美しさだ。白い頬に赤味がのぼって、形のいい唇がほんの少し開いている。
 もっと見ていたい、と希った。いつまでだって眺めていられそうだった。
 見惚れるなという方が無理だった。

 結局始業には間に合ったが、かなでとはそんなこんなでちっとも落ち着いて話ができないまま別れた。
 本意ではないにしろ彼女の前でうっかり涙まで見せてしまった誠である。このまま終わらせられるかと心ひそかに考えていた。
 自分から動かなければかなでとの接触は単なる出来事になる。そんなはずはなかった。
 誠はかなでの目の前で倒れた瞬間、確かに、それまで自分を構成してきていた魂の一部を失ったのだ。少し前までは、一部どころではなく、魂そのものだったもの。それが一瞬で消えてしまった今、正直かんぜんに途方に暮れてしまっている。休む間もなく働いているのはそのためだ。愚かなことをしているのはわかっている。きっと、こんなに逃げ回っても、自分の右腕は近いうちに自分を喰らうだろう。予感ではなく、確実に訪れる未来だ。そのことを考えると体の中が真っ黒くなる。恐怖のあまり絶叫したくなる。
 かなでは、その絶望の淵に立っていた。誠が少しずつ打ちひしがれていく、始まりに。
 かなでと自分が今日ばったり会っただけで終わらないと誠が思ったのは単純に直感だった。運命。ロマンチックな意味合いではなく、決して避けられない、もっと怖い意味での、自分たちが必ず遭遇するはずだった悲しいそれ。
 自分はきっとこれからもっと酷い場所に落ちていくだろう。そしてきっと、そんなひどい状態の中で、かなでが抱えるものを知ることになるだろう。
 救いがない程しんどい未来だが、それは不思議と嫌ではなかった。自分の運命は自分で乗り越えるしかないが、人と人とが出会った上で起きる運命は、もう少しまともな気がした。
 早い話、かなでの瞳を覗き込んだ瞬間から誠は彼女に強く惹き付けられていたのだった。目が離せないほど孤独な瞳だった。だが奥底には焔が燃えていた。
 手を伸ばさなければと思った。
 今日の朝、冬のつめたいあの空気の中で、ふたりの間の何かが重く、動き出した。
「はい牧村です」
 就業間際、夕方までに仕事を全力で終わらせて、誠はかなでに内線をかけた。
「俺。営業一課の笹井です」
「……お疲れ様です。何の用?」
 相手が誰か知ってかなではあからさまに声を低めたが、誠は気にしなかった。気になる相手には卑屈にならない、が、彼の恋愛哲学である。
「この後空いてる?」
「空いてると答えたら食事に誘うの?」
「そう。察しがいいな、イエスかノーで答えてくれよ」
「ノー。最近知人の家に引っ越したばかりでね、遅くなれないのよ。」
「わかった。じゃあ週末にしよう。土日はヒマか?」
「……ヒマだけど。あんた、大胆ね。噂になったらどうすんの。」
「噂はしょせん噂だろ。訓練してない運動選手みたいなもんだ。吹けば飛ぶ。じゃあ土曜空けといて、昼間会おう。」
「わかりましたよ。ねえ、元球児だってホント?」
「お、いいね、俺にちょっとは興味わいてきたかい、お前。」
「バーカ。同課の若い子があんたのこと好きなだけよ。本当なの?」
「ああ。甲子園に出たこともあるよ。もうやれないけどな。じゃ、また連絡する。お疲れ」
 さらっと口にした自分に驚きながら、誠は受話器を置いた。同じデスクの人間がにやにやした顔で電話の相手を探り出そうとしてくるのを受け流し、エクセルを開いて今日の業務内容を打ち込み始める。途中で終業ベルが鳴り響いてもキーボードを叩く手を止めなかったが、次第に体が重くなってくるのを実感として感じてしまい、辛かった。
 ほら、まただ。また一つ、何かが零れ落ちていく。拾えない。
 大好きだった野球。世界が輝いていた、思い出すと今でもまぶしくて目がくらむ、あの頃。他でもない誠自身の過去。
 夢幻ではない、この身を内から支える血肉。
 ──もうやれないけどな
 全部失ってしまったなんて、信じられなかった。









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