Andante sostenuto








 笹井誠が倒れた数日後、かなでは思いもかけない形で次の住まいを発見することになった。
 朝起きた瞬間刺されたように胸が痛み、背中を伸ばすことができなかったので、またしても会社を休み、病院へ行ったのだ。県下唯一の乳腺医院、という近所の病院に這って行って、待合室の椅子に腰掛ける。病院は繁盛しているようで、たくさんの女性客がきちんと順番を待ちながらソファに腰掛け、やさしげな受付のお姉さんや看護婦さんが暇を見つけては話し掛けてきてくれた。大丈夫ですか? 混んでいてごめんなさいね、すぐお呼びしますから。それまでは本など読んでいて下さい。あ、そうそう、もうすぐボランティアの方が来てくれてヴァイオリンを弾いて下さるんですよ。
「ヴァイオリン?」
 院内の雰囲気のあまりの感じよさにじんと来ていたかなでは、看護婦のその一言に自分の内の遠い一部が覚醒したのを感じた。久しく顧みていない自分自身だったので、心臓に深く手を突っ込まれ、その奥に隠れているものを取り出されたかのような、恐ろしい痛みと圧迫感をともなった。血まみれでいきなり宙にさらされたそのかなでは、震えながらなつかしがる。
 ヴァイオリン、弦楽器の音、かつて愛してやまなかった音楽を。
 あおい、元気かな、ともう何年も会っていない大切な友人の顔を思い出した。自分と同じ悲しみを共有して、同じ激情を抱いて、しかし最後にはそれぞれの人生の波のなかに飲み込まれて別れてしまった。何度も連絡を取ろうと試みたが、電話機を取り上げるたび、ペンを握るたび、お互いがまだつながっているという保証がどこにもない気がして、結局なにも行動を起こせなかった。
 彼女は、かなでと同じ大学に通っていた女の子で、ヴァイオリン専攻だった。色白であかるい色の髪をした、見た目はいかにもはかない風情のきれいな子のくせに、音は存外力強く、容赦ない。性格もそれに表わされているかのように率直で、だがとても、とてもやさしい、歌うように喋る女の子だった。
 そうそう、ちょうど、あの子みたいな髪型と背丈だったのよね……
「……って、え?」
 思い出にふけりながら病院の中庭を眺めていたかなではぎょっとして声を上げた。周囲の視線が向けられたが、気にする余裕はなかった。大きなガラスによって遮られた中庭、秋から冬へと移り変わる時期独特の、あまい金色の光がふりそそぐ緑のそこに、ヴァイオリンケースを抱えて立っている女の子がいた。
 ねむそうに、だけど、明るい期待を抱いた眼で空を見上げていた。
 かなでは立ち上がった。たちまち胸に走った激痛が背筋を曲げたが、その場に膝をつく前に相手もこちらに気がついた。

「かなでちゃんっ」
「……あおい。」
 窓を通り抜けたのではないかと思われるほどの速さで院内に飛び込んでくると、あおいはかなでのことを前置きなしで抱きすくめた。大勢の患者がいる前だったので、さすがにかなでは恥かしくなり、ちょっとちょっと、ともがいて暴れた。
「ちょっとじゃないよ。どこに行ってたの、ずっと連絡なしで、どれだけ心配したと思ってるの!」
 再会を喜ばれるより先に怒られた。そのやり方も澄んだよくひびく声も、あんまり記憶のなかにあるあおいらしくて、かなでは嬉しくて思わず笑ってしまったが、あおいは笑ってくれなかった。むしろ更に怒った様子でかなでをずるずる病院の奥にひきずっていき、人気のあまりない場所まで来ると、やにわに「もう!」と、その特徴的な淡い茶色の瞳に涙を浮かべた。
かなでは当然、ぎょっとした。
「あおい?」
「死んじゃったかと思ったのよ!」
 嘘偽りのない悲痛の声を上げたあおいの手元にはもうヴァイオリンケースが見られなかったので、かなでは彼女にボランティアはどうしたの、と聞きたかったが、そうすると今度こそ絶交されそうな気がしたので思いとどまった。せっかく二年ぶりに、奇跡のようなこんな状況で再会できたのに、それは絶対にいやだ。かなではあおいが大好きなのだから。
「ごめん」
「謝るんじゃなくて、もう、もう、ほんと…心配したんだからっ。お母さまが亡くなられて、予告なくいきなり大学やめて、チェロもやめたのかその後さっぱり噂聞かないし、連絡も取れないし、文字通り消息不明! とんでもない!」
「ごめん、本当、ごめんね。いま、働いてるの。あおいは元気そうでよかった」
「チェロは?」
「……やめちゃいました。」
 睨み付けられて仕方なく真実を口にすると、あおいはそんなことだろうと思った、と言いながらも、実に悲しそうに眼を伏せてしまったのでかなではますます胸が痛むのを感じた。昔からこの友人は、人の痛みを自分のもののように感じて奔走することのできる人間なのだ。たとえそれで自分も痛い目を見ようが、あるいは努力の果てに裏切られようが、あおいは、人が人を何がしかの形で助けることができると信じている。
 あおいは何かを壊したり、戦ったりしたくなることはないの?
 あるよ?
 同じ音大に通っていたころ、モーツァルトのディベルティメントを練習しながら、そんな言葉を交わしたことがある。平和な初夏の昼下がりで、土曜日だったのだろうか、辺りは静かで、どこか遠くから胸をわくわくさせるようなトランペットの音がかすかに聴こえてきていた。空いた教室に忍び込んで合奏の練習をしていたかなでとあおいは、それぞれに薄着をして、演奏に邪魔だからと髪の毛を結んだり、周囲の机を蹴り飛ばしたりしていた(これはかなでだ)。
 ぜんぶ壊してやるって思うことがある。怒った時とか、暗い衝動に呑みこまれて、家の中に今でもその痕跡が残ってるよ。今度、見に来る?
 そんな風に見えないわ。あおいは、馬鹿みたいにやさしいから。人の嫌なことも愛すべき部分に見えているのかと思った。
 そーんなわけない、ない! あたし、善人じゃないし。やさしくしたいと思っているだけの愚かで自己中心的な人間だから。でも、だからこそね。いちばん簡単で、シンプルにやさしい方法を他人には施したいの。嫌味がないやり方っていうか。つらい時こそ優しさが痛かったりするでしょ。そうね、なんていうんだろう。
 戦うよりも愛する方が、あたしはずっと簡単だと思ってるの。
「かなでちゃんのチェロ、大好きだったのに。」
 がっくりとうなだれてあおいが言うので、かなでは責められている気分になった。慌てて身を乗り出し、彼女の白魚の手を取る。自分が男だったら感嘆したに違いない、ちいさくて爪の健康的なピンク色が美しい、愛らしい手だった。
「そんな悲しそうな顔しないで」
 つないだ手を振りながら言うと、あおいもぎゅっと手を握り返してきた。
「悲しいから悲しい顔になっちゃうの。でもまあ、それについては後で話を聞く。なんでこの病院にいるの? あたしはボランティアよ。ここ、知り合いのお父さんの病院なの」
「胸が痛くて。さいきん、体の調子わるいんだ。」
「ちゃんと寝て、食べてるの。というかそもそも、かなでちゃんは一人暮らしなの?」
「あたりまえじゃない。あのクソ親父と一緒になんて暮らせるもんですか!」
 不意を突かれて、思わずほとばしる憎しみをそのまま口に出してしまうと、あおいは眉根をひそめて首をかしげた。金色がかったセピア色の髪が肩につもる。
「ふーん……。家はこの近くなの?」
「ええ。でも、もう追い出される。」
「追い出される? なぜ?」
 びっくりしたようにまっすぐ見つめ返してくる瞳に、かなでは、久しぶりに人の眼を覗き込んだと思った。だがしかしすぐにそれを否定する違和感を感じた。
うそだ。こんなに至近距離で瞳と瞳を合わせたのは、絶対あおいがはじめてじゃない。
では誰が? 考えると答えはすぐに出た。
笹井誠だ。
「えーっと、わけあって、というかあんまりないんだけど、苛々してて部屋の窓を割っちゃったのよ。飲んでたウィスキーの瓶で、がちゃーんと。だから、管理人怒っちゃって。即刻出てけ出てけって言われてるんだけど、なかなか、新しい部屋が見つからなくてさ。今探してる最中なの。」
「それは、怒る、だろうねえ。管理人さん。夜中に割ったんでしょ」
「そうなの。真夜中二十五時」
「じゃ、うちにおいで。」
「はっ?」
 あんまりあっさりあおいが言ったもので、かなでは理解ができなかった。しかしあおいが続けて何か言おうと桜色の唇を開いたところ、後方からかなでを呼ぶ、牧村さん牧村かなでさん、という声がしたので遮られてしまった。
「まあ、いいや。診察終わったら、あたしのボランティア終わるの待って、すぐうちに行こう。」
「あの、あおい、本気? だってあんた、一人暮らしじゃないでしょう?」
 あおいに助けられて立つ形になりながら、かなではほとんど呆然としていた。一緒にご飯を食べよう、という気軽さで、あおいはかなでにとってあまりに都合のいい提案をしたのだ。
 しかしもちろんあおいは本気で、あの、かなでのよく知っている一方的なやさしさの施しを全力で行っているのだった。
「かなでちゃんはあたしがどれだけお人よしかってことを誰よりよく知ってるかと思ったけど。実はそうでもなかったのかしら?」
「し、知って、知ってます。」
「ならわかるでしょ? 岡田あおい、24歳、お人よし。現在自宅にて母親と二人暮らし。部屋ならいっぱい余ってるのー、満室にならない内にはやくおいで。お母さん、前にかなでちゃんの話したら会ってみたいわって言ってたの、だからきっと喜ぶわよ。」
「牧村さん、いらっしゃいませんかー。」
「あ、はい……!」
「ほら、はやく行って。あたしはヴァイオリン弾いてるからね。」
 そして、地獄のように痛い乳がん検診と、切なくも力強いあおいのヴァイオリン演奏を間にはさんだ数時間ののち、かなでは岡田家に迎え入れられていた。
 乳腺医院の余りにもちかく、ひいては自分が間借りしていたアパートのあまりに近くに岡田家が存在していたことにかなでは驚きを通り越して恐怖の念すらおぼえた。
できすぎてる。後できっと、ツケがくるわ。 
しかし自発的になにかをするというエネルギーがあまりにも枯れ果てている昨今、この申し出は断るにはあまりにも魅力的すぎたし、あおいとあおい母は強すぎた。
「お父さん、ただいまあ。こちら、かなでちゃん。前にも話したことあったよね。大学時代のわたしのお友達。すっごいチェロを弾くんだから」
 玄関を上がって通された居間で、あおいがまずそんな風に声をかけたのは一枚の写真だったのだ。白黒で大きい、木のフレームに入れられた男性の写真。どう見ても初老にさしかかっているようにしか見えないほど老けて見えたが、かなではそれが誰かよく知っていた。息をつめて、写真を指先でなぞるあおいの穏やかな横顔を見守る。
あおいの父だ。かなでが母を亡くしたのとほぼ同時期に、やはり病気で亡くなった。
「かなでさん、いらっしゃい。お話はかねがね。紅茶が好き? それともコーヒー?」
「あ、お構いなく……はじめまして。」
「はじめまして。あおいの母の、初美です。」
 キッチンに立って、明りが灯るように笑うその背の低い女性は、名乗らずとも母だとわかるほどあおいに似ていた。思わず見つめてしまう色素の薄い瞳も、そこからぐっと人を惹きつける強い意志にふちどられた全身の輪郭も。
 愛する人を失っても、人はこのようにしっかり生きられるものなの。
 突然切り開かれた他人の家という道の上で、かなでは、うろたえて衝撃を受けていた。自分の弱さと、目の前で確かに生きて動いているこの人たちの強さのあまりの対比にめまいがして、地面が揺れたような気すらした。すすめられて腰掛けたソファから、居間をそっと伺うと、どうしても目に付いてしまう男物のごつい時計や、女の子は絶対読まないであろうと断言できる鉄道関係の本、それに無造作に壁にピンで留められた古い手紙。
 喪失の息遣いを感じてかなでは戸惑った。やはりやめた方がいいような気がしたが、もう後には退けないという妙なプライドも自分の中で強く主張しており、しばらく悩んだ結果、考えることに疲れて、楽な方に流れた。
「かなでさんの部屋はあおいの隣の部屋でいいわね。誰も使ってなかったし。おふとんは余ってるし」
「うん、荷物とか、あたしも一緒にいくから、今日取ってきちゃおうよ。面倒なことははやめに終わらせたほうがいいでしょ。で、夜はパーティしよ」
「いいわね、パーティ。あおい、あんたケーキ焼きなさい。かなでちゃんは何が食べたい?」
「いえ、ほんと、あの、お構いなく。置いてもらえるだけで幸福なので」
「いいのよお、何言ってるの。あたしたちもお兄ちゃんたちがいなくなってから寂しくて暇があって、色々つまらなかったのよね。どんどん甘えて良いわよ。あんまり構わないから、好きな時に好きなことして」
「かなでちゃんはパエリアが好きです、ママ。」
「ふむ。じゃあ地中海風料理にしましょうかね、あおいちゃん。」
 かなでが目の前の現実に眼を白黒させてまだ何もはっきりとイエス・ノーを言わないうちに、ことは決まってしまった。今までと全く一緒だ。
 どうして世界はいつも、こんなにも私の外で動いているのか。
 もう慣れきった疎外感にため息を吐いて、かなでは腹をくくった。
 ソファに頭をもたせかけ、高い天井を見上げて、ふたたび笹井誠に想いを馳せる。彼は元気になっただろうか。まだあんな、寂しい眼をしているのだろうか。それでも、周囲にはあのいつでも心の底から笑っている表情を惜しげもなく振りまいているのだろうか。
 話してみたいわ、とふと思った。
話してみたい、誠と。この空気が告げる、風景が告げる、深まっていく自分の季節に、どこかひどく傷ついた眼をしていた彼と。
「かなでちゃん、確認。本当にうちに来るんだよね、自分で来たいと思うんだよね?」
「──うん。お世話になります。」
 岡田母子の質問に、かなでは顎を引いてはっきりと答えた。
 花のように彼女らは笑った。






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