Andante sostenuto




2



 気がついたら病院にいた。仕事中に階段から転げ落ちて気絶してしまったらしい。
 自分で自分にあきれながら起き上がった誠に医師が下した診断は過労、全身に軽い打撲、くわえて右肩の骨にヒビ、という三点だった。打撲と挫傷の度合いは軽いから体力さえ戻ればなんら問題はない。同僚達は大げさに喜んだが、当の誠はうれしくなかった。
 通りいっぺんの診察を終えたあと、医師がこともなげに告げた一つの事実が。それが、誠の体のなかで黒く蕾み、じわじわと花開こうとしていた。
「日常生活に支障は全くありませんが、激しい運動は避けていただきたいですね。神経が炎症を起こして、最悪の場合右腕がまったく動かなくなってしまう可能性がありますから。」
 一つの光景が、休憩室の窓を通して遠く夕焼けを見つめる誠の脳裏に映っていた。それは盛夏の正午である。太陽が空の最も高みに昇り、ぎらぎらまぶしい白い日差しが砂埃をきらめかせ、丸坊主の少年達を焼いている。グラウンドのざわめきも歓声も、その中心から放たれる強烈なエネルギーも、誠には一瞬現実の色と音で聴こた。見えた。
 過ぎた日の残像というよりは、この現実に突然切り込んできた白昼夢のようだ。体が内側から圧迫されているようで苦しい。
 過去を感傷的に捉えてしまうのは人間の性だ。もう自分とは関係のない場所にあるはずのものがこうしていきなり蘇ってきて胸を焦がす。それなりに日々を頑張り、やりがいのある仕事を任されて、たまにだるくなったりして、それがつまり生きるということなのだと分かってはいるはずだった。
 だが、違う。
 今この胸の内に広がるものは間違いなく、挫折や一時の感傷などというかわいいものではなく、もっと恐ろしくたちの悪い、たぶん絶望という感情だった。黒くどろりと下へ溜まって固まっていく。誠はわかっていた。
 きっといまの自分はもう、昨日までの自分とは決定的にちがうのだ。
 運命は確かに自分から何かを奪った。そして今までそれが蓋の役目を務めていたトラウマたちが、見ない振りをし続けてきた悲しみが、これからどんどんあふれてくるのだ。
 声を上げて思い切り叫びたい気分だった。だが同時にどうしていいかわからないほど怯えている自分もいて、結局その場から微動だにすることもできない。
 生きることを全身で面倒くさいと思う誠の耳に、病院のどこか遠くから響いてくる、夢のような弦の音が聴こえていた。

「牧村かなで?」
 三日後、仕事に復帰した誠は青天の霹靂という表情でその名前を発音した。向かいのデスクに座っている同僚が教えてきたのだ。
「そう。お前が倒れた現場に居合わせて、迅速に対応してくれたのはその子だ。目立つから多分見たことぐらいはあると思うぞー、CMに出てくるようなキレーな髪したクールビューティ。ほら、うちの会社が一時期中途入社枠作ってた時があって、その時に入った子だよ。ちょっと噂になんなかった? 中途入社の美女コンビ」
「知ってるも何も、超有名な美人じゃねえかよ。チョコレート色のロングヘアした事務の子だろ。すらっとしてて、無表情な感じの。で、もう一人は営業の二課じゃなかった?」
「ご名答。そうそう、ちょっとふっくらしたさあ、めちゃめちゃ歯切れのいい子。営業唯一の女の子だよ。」
「名前、なんだっけ。アンナ……とか言わなかった?」
「そう。塚本、塚本安奈。やっぱ女の子はあんくらいグラマーなのがいいよなぁ。さわり心地よさそーじゃん」
 明らかにその子のことを気に入っているのがわかる表情で口元をゆるめた同僚はさておいて、誠は内心で仰け反っていた。なんと、あの牧村かなでが人のために、しかも俺のために救急車を呼んでくれるとは! 
 ふだんは外回りのためにあまり社内にいない誠であるが、それでも彼は生粋の女好きなのである。かなでのような美女を見逃すはずはないではないか。廊下でごくたまにすれ違う瞬間や、彼女が営業課におつかいに来ていた時など、向こうが気がつかないのをいいことにそのエキゾチックな美貌を存分に眺めていたものだ。
 すらりとした長い手足に、いつでも内側から光を放っているかのように輝く髪。顔立ちは際立って美人というわけではないのだが、目鼻立ちがすっきりとしていて、全体的にどことなく色めいている。女好きな誠でなくともその器量に捕われる者が少なくないかなでだが、同時に彼女がおそろしく無口で人嫌いということも、社内では音に聞こえた事実なのであった。
 故に、誠は倒れた自分を助けてくれたのがかなでだと知って、驚愕すると同時に感激しているのである。二日欠席したことによって机の上に積みあがっているメモや伝達の書類の束も一瞬目に入らなくなった。礼をしなければ、と社会人らしい精神を発揮して電話機を取り上げた誠に対して、同僚が今一度向かい側から声をあげる。
「あ。礼を言うつもりなら残念でした、牧村かなでは本日休んでるらしいぞ。」
「なにい? 休み?」
「うん。事務の鈴木ちゃんが言ってた」
 鈴木ちゃんというのはおしゃれで可愛い20歳の派遣社員のことである。
「過労だって。牧村もここ最近具合悪くしてるんだそうだ。後、法事とかなんとか」
 そうか、と誠は答えようとしたが、すぐにかかってきた電話によって遮られた。得意先の医師からで、来月から特定の薬の販売量を増やして欲しいという。即座にパソコンのデーターを開き、誠は完全仕事モードに切り替わる。
 日々は淀みない。自分はきちんと息をすることができて生きていて、こうして飯を食うことができる仕事にもありつけていて、そのことに対して一片の不満もない。それなのに苦しかった。全身を喰らいそうな程凶暴な赤い絶望に、立ち向かう力が持てなかった。
 エネルギーがどんどん体から抜け出していく。押し留めることができない。
 牧村かなでのことなど既に流れ去ってしまった頭で、誠はうつろにただ一つのことを考えていた。
 疲れてしまった。休みたい。




BACK/ NEXT


2style.net