Andante sostenuto




19




「あれー、初美さん?」
「あら、こんにちは、かなでちゃん。お邪魔してます。」
 クリスマス・イブの夕方、仕事を終えたかなでが誠とともに父の病室を訪れると、初美がオレンジの皮をむきながら笑っていた。愛人と隣同士に腰掛けてなにやら実に楽しそうである。ここ最近は容体の安定している父も、ふたりの女に囲まれてでれでれ鼻の下を伸ばしていた。
わざわざ誠が来てくれたのに……と父の醜態に恥かしくなりながらかなでは頭を下げた。
「来てくれたんですか、うれしい。こんな情けない親父のためにありがとうございます。」
「そんなそんな、とっても面白い方よ、牧村さん。ゴルフ会社の社長さんだったんですって?」
「ええ、つい先日まで。今はもう引退を決め込んじゃったみたいですけど。あ、親父、これみやげ。一応イブだしあんた甘いもの好きでしょう? ケーキ買って来たわよ。」
 手にしていた白いケーキの箱をかかげてみせると、父はこけた頬で笑顔を作った。彼はどんどん痩せていく。体の機能がほとんど停止しはじめているのだ。 
いつ死んでもおかしくない状態ですが、精神力のお強い方ですね。毎晩のように高熱を出して意識不明に陥っては、翌日の朝にしっかりと目覚めていらっしゃっています。
今さっき、廊下で医師から聞かされたばかりの話を思い出して、かなでは瞳が凍りついてしまった。
「もうちょっと言い方ってもんがあるだろうよ、かなで。」
 ぽん、と後頭部を叩かれて我に返る。恋人が父と愛人と初美に自己紹介しはじめていた。はっきりとよく通る声が、オレンジの匂いがたちこめる病室に響く。かなでは訳もなくほっと息を吐き出した。
 かなでさんの同僚の笹井です、娘さんとはお付き合いさせて頂いております、はじめまして。屈託なく枕もとにひざを折った誠に、いやいやどうも、かなでの父です。と妙に照れ笑いしながら父が答える。
 ……あーあ、娘に恋人ができたと知っちゃったら、親父、今夜にも死んじゃうかもしれないわね。安堵してポックリと。
 彼の、どこか遠くを見るようなあいまいで脆い瞳に、かなではその瞬間が近いことを悟った。
「あーっ、おかあさん?」
 ぱたぱたぱた、と廊下を走ってくる足音がして、看護婦かしら、と扉の前から退いた。ふわりと甘い香りがたち、やわらかい黄色が視界に入る。それはベージュのコートを着て花束を抱えたあおいだった。
「あおい。やだ、あんたまで来てくれたの?」
 驚きに思わず声が大きくなる。誠がこちらを振り向き、おお、と言ったのが聞こえた。
「あっ、かなでちゃん。ごめんね来ちゃった。お仕事おわったの?」 
「うん。あんたも? コウくんは? 一人で来たの?」
「そう、うん、ひとり。藤原くんは後からくるって。ほら、クリスマスにひとりってすごく寂しいでしょう、だから。今かなでちゃんを預かってる身だし、やっぱり挨拶はしておかないとなって思って来たのに。先越されちゃった」
「なんか、あんた、修道院のシスターみたいね……」
 どうしようもなく嬉しくて泣き笑いのような表情を作ってしまったかなでに、あおいは、なあにソレ、と微笑んだ。白い頬に花の淡い影が映って彼女が動くたびにゆれている。天使の衣、と思った。
「あおいちゃん、きれいなお花ね。梅? 黄色い梅なんてあったっけ?」
 初美が立ってきて、娘の持つ桜の枝のような一風変わった花束を受け取りながら声を上げた。
「あ、これね、蝋梅なの。珍しいなって思って花屋さんで見てたら、花言葉が“優しい心”なんですよって店員さんが教えてくれて。すごくいい香りだし、毒々しくない黄色だから買ってみたの。かなでちゃんのお父さん、お花好きですか?」
 歌うように説明しながらあおいはかなでの父親を見やって尋ねる。彼は頬を強張らせながら「ええ」と微笑んだ。
涙を我慢しているのだと、かなではわかった。
「……とても好きですよ。あなたのような可愛い女の子が持ってきてくれた花ならなおさら」
「あおいちゃん、可愛いっすよねえ。」
 うんうん頷きながら誠が言った。彼は時々無意識に悲しみを仲裁することがある。かなでは嬉しかったが、表向きには怒った振りをよそおって眉をつりあ
げた。
「誠、退場してもいいのよ?」
 スーツの肩がすくめられる。
「まだ試合は始まったばかりなんで。調子はいいのに、勿体無いだろ。」
「なんの試合よ」
「人生の試合? 恋愛ゲーム。対かなで」
 途端、どっと病室内に笑いがあふれる。父も最近では珍しいことに、本当に楽しそうに顔をくしゃくしゃにして笑い、勢いのあまり咳き込みながら言った。
「じゃあ、審判は僕がやらないといけませんね。娘を負かせるわけにはいかないし。」
「心配しなくても、誠相手じゃそう簡単に負けはしないわよ。親父。」
 かーっと顔が熱くなるのを感じながらかなでは手元のテーブルにケーキの箱を置いた。
「それよりケーキ! 食べるの、食べないの」
「食べる食べる。香子、後ろの棚に紙皿とスプーンがあるから取ってきてくれ」
「はい、はい。」
「みなさんのぶんだぞ。」
「わかっております。」
 病床にあっても横柄な父親の指図に従って、愛人が立ち上がった。彼女が父の寝ているベッドの後ろにまわり、そこの白い棚を開けてがさごそやっている間に、誠が敏捷に病室の入り口まで身を翻した。かなでにスーツのジャケットを脱いで渡しながら言う。
「俺、自販機で飲み物買ってくるよ。炭酸だめな人います?」
 前半はかなでへのセリフだったが、後半は皆に向けられた呼びかけだった。
 誰も手を挙げるものがいないと見るや、誠はにこりと笑ってそのまま廊下へ駆け出していった。かなでは喉元までこみあげる、まぶしいような感情に眼を細めて、その後姿を見送る。また、視線を戻すと、あおいが窓際で蝋梅を生けていた。むきだしの器材や、歯磨き粉やタオルなどで雑然と散らかった室内を初美がてきぱきと主婦らしい手つきで片付け、そこに愛人が紙皿を並べていく。
 忘れないで、と自分で自分に懇願する。
 この光景、病院の白とみんなの色が溶け合うさま、薬の匂いと病人の臭さを蝋梅がやわらかく包みこんだこと、父も私も誰もが笑っているという事実を、なにがあっても忘れないでいさせて、覚えていさせて。
 永遠を誓うことなど誰にもできなくても、わたしが今そうしたいと思っているのだから、いつか記憶が少しずつ欠け落ちてゆくとしても、この空気、病室内のやさしさを、冬のあまい金色の日差しが輝かせている、その印象だけでも、わたしに喰わせて。
 優しい心。
 純粋な人々の好意に触れられて、そしてそれを分かち合えるということは希望だと思う。人は心を受け継ぐことができる。 例え何度それが折れても、時の砂に埋もれても。
「買ってきましたよー。大人組にはコーヒー、子供組にはオレンジジュース」
 誠が両手いっぱいに缶ジュースを抱えて戻ってきた。楽しそうな顔をしている。
 ありがとうと呟いて、かなでは自らケーキを切るためナイフを取った。
「ちょっとしたパーティだな。ははは」
 父の上機嫌な様子には救いがあった。涙がほんのすこしだけ瞳の上に浮かんで消えた。初美が、換気しましょうかと窓を少し開き、そこから微風が吹き込んだ。
 あまい香りが立つ。蝋梅の匂い、冬の花。
 優しい心のかけらが、今自分のなかに降り積もって淡く光っているのを、きっと父も感じているに違いない。誠も。あおいも。初美も、愛人も。
 こういう瞬間を、人生の合間あいまにふいに降って来るかすかな恩寵を、かなでは全身全霊で信じる。人間を愛する。
 辛すぎることを経験してしまったなら、楽しすぎてしょうがないことを見つけてやろうではないか。
 
「うわー御免、郵便局が手間取りやがって、間に合わなかった、ちっくしょう!」
 見舞いを終え、ケーキうまかったねとバス停までの道をぞろぞろ歩いていた三人の前に、見慣れたステージアが滑り込んだ。ばんと音を立てて恥じ入った様子の孝輔が降りて来る。真冬なのにシャツとセーターしか着ていない。
「コウくん、見るからにさっむーい。」
 木枯らしに身をすくませていたかなでが思わず自分で自分を抱きながら言うと、彼は申し訳なさそうに答えた。
「車だから。かなでさん、ほんとごめんね。お父さん大丈夫?」
「大丈夫。ぴんぴん。この分だと年越せそう。よかったよ、生き延びてくれればそのぶんだけ、あたし、彼との時間を過ごせるから。取り戻せはしないけど、なんていうのかな。大事にできるでしょ」
「そっか。よかった。……俺、いまから行って来ようかな」
 考え深げに孝輔は言ったが、この律儀な意見はおなかいっぱいで寒がりやのかなでと誠によって却下された。大体今日はイブなのだ、世の中で最もパーティが多い日なのだ、自分たちがその例に漏れなければいけない理由はどこにもないではないか。ましてや、明日はあおいの誕生日なのである。今日はその分も含めた盛大なパーティをするつもりで数週間前から準備してきたのだ。
「いいよ、いい、ノープロブレム! 親父の見舞いはいつでもいけます、大丈夫死なない!」
「わかんないでしょう、それだけは! いいよ、俺行って来る。」
「えーっ。寒い。ねむい」
 不謹慎に口を尖らせるかなでを、孝輔は眼で一喝した。
「えー、じゃないでしょ。後悔はしたくないのさ、俺は。すぐ戻るから。みんな、眠いなら乗って待っててよ。どうせ帰りは揃って岡田んちなんだから。」
 というわけで、一行はステージアに乗り込み、またすぐ病院へ戻った後ようやく、今夜のパーティ会場である岡田家に向かうことになったのであった。
 助手席に座ったあおいが孝輔に尋ねる。
「藤原くん、課題まにあった?」
「ギリッギリ。イギリスの国番号がわかんないとか、重さがわかんないとか、バイトの奴が応対しやがってさー。マジ焦ったよ。これ間に合わなかったら留年なのに、って。」
「イブなのにね。聖夜なのに。嫌な思いしちゃったね」
「ほんとだよな。まあ、いいんだけど。イブだから逆になんでも許せる。」
 くすくす、と笑い合うふたりを後ろから見て、ああ可愛いなあ、ザ・恋人同士だなあと思っていたかなでは、不意に「おい。」と肩をつつかれて横を見た。BGMはマライアのGREATEST HITSが流れている。
「なによ、誠。せっかくクリスマスの恋人たちを眺めてたのに。」
「逆じゃね? 恋人たちのクリスマス、だろ。」
「うっさいな。何の用なのよ」
「いや、あのね。お前に聞かせてなかったと思って」
「なにを?」
 きょとんとしてかなでが瞬くと、誠はすっと眼を細め、声を低くして語り始めた。こんな声も彼は出せたのかと思うほど、抑揚と艶のある、魅力的な語りだった。
「……“人は儚い。カゲロウよりももっと無為に生き、愚行を繰り返してはその存在価値を叫ぶことも出来ず志半ばにして死んでいく。何をしても満足できない愚かでかなしい生き物だ。だがしかし、人には心がある、物を考えて音に、文に、なにがしかの形で記録して残すことができる。”」
「なに? なんの話?」
「“そしてそれを分かち合うのだ。私は野球が好きだったが、それは野球がひとつの人間性を記録できる力があるゲームだと気がついたからだった。勝ち負けは本当はあまり関係ない。そこに行き着くまでがゲームだ。人生ゲーム”」
「誠さん? ついにほんとの馬鹿になった?」
 訳がわからなくてかなでは言ったが、言葉の中身は理解できた。自分がこの一月ほどで経験して感じたもの、世の中の理、人間としての心の強さ、のようなものをちゃんとカバーした話だったからだ。
 誠はくすっと笑った。つい数週間前までなら絶対に見られなかった、安らかな強さの垣間見える笑顔だったので、思わず見惚れた。
 窓の外の景色が急に広くなった、と感じたら、都心を抜けたらしかった。ぎらぎらしてクリスマスの赤と白、金銀がうしろに小さくかすみ、代わりに圧倒的な蒼穹がそこに在った。
 空がきれいだね、今日は。
 孝輔の声が聞こえて、あおいが答えるのが聞こえた。
 うん、ほんとだね。でもなんだか、いつもより近く感じる。手が届きそう、やさしい感じがしない? 誰かがあそこにいるみたい。
「いまの、誰が作った言葉だと思う?」
 誠が言ったのでかなでは答えた。
「知るわけない。……けど、少なくとも誠さんじゃない。コーチ?」
「ピンポン。日誌の中のお言葉です。」
「いーい先生だったのねえ。」
「うん。今だからおもう。大好きだったよ」
 ──神様ありがとう、とあなたに出会えた事を感謝したい。
 マライアが歌うことの意味を、私たちは知っている。
かなでは心の底から思った。
 そのことが嬉しくてたまらない。
「“そしてそれを分かち合うのだ”って。よくわかる。人間は一人だけど、逆にそれが救いね。だってだからこそ、他人とこんなにも深い絆をつなげるのだもの」
「言葉にするとなんでも砂みたいに風に散る気がする……けど。うん、ほんとう、そうだね。この瞬間が。ここまできた自分が。色んな人がいてくれて、よかったよ。ほんとに。抜け出せてよかった、気がつけてよかった。」
「もう悪酔いしないでね」
「お前こそ、もうあんまりめそめそ泣くなよ。」
「泣くよ。だけどちゃんと抱いていくよ。親父はもうすぐ死ぬし、誠さんとも別れるかもしれないし、今度は自分が病気になるかもしれない。でもチェロはやめない。好きなものを見失わない。今度は自分で切り開いていくよ」
「うん。……そうだね。」
 座席の上に投げ出されていた誠の大きな手を取り、かなではそれに頬を寄せた。この世でいちばん暖かいものは、これだ。 
 辺りに光が満ちていく。
ゆっくりと、だが確かな熱を放射しながら、泣きたくなるほどちいさなこの身を照らす。かなでは何でもできる気がしていた。すぐにきっとまたくじける。切なさに動けなくなる。だがその時には思い出そう。友の差し伸べてくれた手、好きだと想う男の涙、やさしいメロディ。この光。愛し育ててくれた両親を。
「あおいちゃん、いくつになるんだっけ?」
 後部座席から誠が言った言葉にあおいは両手で耳をふさぐしぐさをした。
「ぎゃー、やめてください、二十四ですよー、おばちゃんになっちゃうんだからー。」
「まだまだじゃん。若いよ。なんでもできるよ。優しくて、強ければ、最後には世界は君を認めるよ。」
「そうだよ。ヴァイオリンちゃんと弾けよ。かなでさんもチェロ始めたし、一人じゃないし。俺たちは何があってもお前の味方だからな。」
ハンドルを切りながら孝輔が言う。ありがとう、とあおいは照れくさそうに笑った。ステージアはまっすぐ走っていく。後はもう、一同に言葉はなかった。
 全員エンジンとマライアと、風を切る音だけを耳にいれて、それぞれの方向を見据えていた。
 おめでとう。生まれてきてよかったね。
 後部座席にこっそり積まれた花と贈り物を思い、かなでは友を祝福した。



(Fin.)





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