Andante sostenuto




18




 というわけで、翌日はさっそくチェロを買いに行った。
 土曜日だったが早起きをして、大学を辞めるまではよく世話になっていた楽器屋にでかけていった。楽器屋といっても高齢のイギリス人じいさんが一人でひたすら楽器を作っている工房のような店で、店員もじいさんの孫である若い女の子がひとりいるだけだ。
 その規模もさることながら、じいさんのあまりの耳の遠さと、「気に入ったもんにしか作ってやらん」というおっそろしく偏屈な性格のために決して流行っている店ではないなのだが、かなではじいさんのチェロを愛していた。
 じいさんのよぼよぼの手先が信じられないほど綿密に計算された動きで生み出す、あめ色の木材に封じ込められた彼の魂に、心の底から惚れこんでいた。
 チェロを売ったこと、あやまらないと。殴られてもいいから。
 思いながら、厚手のコートを着て出かけていった。

「おじいちゃんは去年の秋に死んじゃったわ。」
 お昼休み、の看板を無視して中にいれてくれた店員の女の子は、コーヒーを飲みながらけろりと笑った。かなでは、ちょっと待ってよ、と驚いてしまった。
「亡くなった?」
「ええ。老衰で。歳だったからね。安らかに逝ったわよ、眠るような死に顔ってああいうことだわ。」
「ちょ、待って、えー、あんまりだわ! わざわざここまで来たのに! おじいちゃんの作るチェロじゃなきゃ嫌だったのに! あたしまだ、謝りもしてないし!」
「謝る? 何をあやまるの」
「チェロを売ってしまったこと。」
 木造の店内は冷え込んでいて、カウンターに座ってお茶を飲んでいるかなでと女の子の足元だけが木炭ストーブの赤い火に照らされて熱かった。時間は長いものなんだわ、と眩暈を起こしそうになりながらかなでは思った。
 二度と同じものはありえない、音楽のように、あるいは時間とはそれだけでひとつの命なのかもしれない。昨晩のまぼろし。没した楽器職人。
 行ってしまったのね、と改めて見送る気分になった。
 あなた方がわたしに安らぎをもたらしてくれることはもう、ないわ。
「牧村さん、チェロやめたの?」
「一度は。だけどまたやりたいの。許されない?」
「何があったか、聞いてもいいかしら。」
 かなでは話した。ここに至るまでの経緯すべて。チェロを売り捌いた日。就職。仕事の苦労と快感。静かな生活。いつしか心が壊死しかけていたこと。それに気付いた出会い。あたたかな手。声。いとしいものたち。
 物語を語りながら、かなでは自分がいま、その結末をどれだけ望んでいないかを知った。本を読むとき、いつだって最後のページをめくりたくなくて、気がつけば何度もぐるぐる同じ個所を読む、あれと全く同じ感覚だ。
 愚かなことだ。そんなことをしたって今こうしている間にも父が病床で死に続けるのを、止めることなどできないのに。
「親の前では子供って一生、子供なのね。音楽の前ではあたしは一生、ちっぽけで馬鹿な女であるみたいに。その立ち位置は生まれ変わらない限り変わらないんだわ。いま気付いた。生きてるってことはいやね。そういう理不尽な決まりごとがいくらでもあるって気がついてしまう。」
 女の子が聞き上手だったので言葉はいくらでもあふれた。喋れば喋るほどむなしくなって、やがてかなではふいに黙り込んだ。
 マリ(というのは女の子の名前だ)が、言った。
「全部はわからないけど、わかることもあるわ。おじいちゃんはあたしにとって生まれた時からおじいちゃんだった。いつもこのお店の奥にいて、楽器を作ってた。彼氏と別れた日も、日本を離れた日も、双子と殺し合いみたいな喧嘩をした日も。あたしはいつもお茶を入れておじいちゃんがお客様をテストするのを見守ってた。ううん、見てはいないの。見るとおじいちゃんは怒ったから、いつもカウンターでなにかしら仕事をしてた。だから、背中が覚えているのよね。じいちゃんの温度っていうのかな。罵声が飛んできても、ああ今回は売るな、とか。今日は駄目だな、とか。疲れてても、ここに来ればなんとなく落ち着いて、うれしかったんだけどねぇ。もう、そういうの全部なくなっちゃったんだものね。信じられない。今でも。振り返ればいる気がするのよ」
 かなでは微かにうなづいてみせた。黙ってマリの、ジーパンに包まれたかたちのいい足や、西洋の血が混じっていると一目でわかる彫りの深い顔立ちや緑がかった茶色の瞳を見つめていた。
 通じ合った部分はほんの少しでも、その透明さと硬度があまりにも高貴だったために、言葉は無意味だった。
 誰かがいなくなるというのはそういうことだ。帰ってくるような気が、してしまう。頭ではわかっていても、肉体の記憶は呪いのように薄れないから、その人の足音を、ドアを開けるときに一瞬だけ間をおく癖を、覚えている。
 ストーブの火に照らされながら千葉のいなかでこんなことを考えているのが本当に不思議だったが、かなでは自分が父をどうやら、愛しているらしいことを知った。
 マリがふいに立ち上がったと思うと、店内のショーウィンドウをがらっと開けて、一本のチェロを取り出した。まだ作られて間もないことがよくわかる、ぴかぴかと新しいニスの艶だ。
「おじいちゃんが最後に作り終えたチェロよ。死んだその夜の、ほんとうに、数時間前までつくってた。だからかな。なんかね、音を切なく感じるのよね。牧村さんに弾いてもらいたいわ」
「マリさんが弾けばいいわ」
「あたしはチェロは専門外よ。あなただから頼んでるの」
 潤んだ眼で言われては断れるはずもない。かなでは腹をくくってそのチェロを受け取った。ネック部分に手を触れたせつな、何か強い、とても強くて熱いものが脳天をつきぬけて焼いた。永く引き剥がされていた恋人の体に触れたときのような歓喜と後悔だった。
 ごめん、おまえが必要だったのに、引き剥がしてごめん、裏切ってごめん。
 笑えるぐらいに手がふるえていた。会いたくてたまらなかったのだと、今更ながらに痛感した。 
「二年も弾いてなかったから、だいぶ鈍ってると思うけど。なにが聴きたい?」
「フォーレをお願い。じいちゃんの好きだった、」
 マリは、祈りをささげるような声でつぶやいた。
「……“夢のあとに”。」

「なんだなんだ、でけー荷物」
 迎えに来た誠は開口一番そう言った。かなでは、笑ってみせた。
マリがサービスしてケースまでつけてくれたので、ゆうに三キロはあるその巨大な楽器を担いで帰ることになったのだ。こういう時こそ恋人の存在は活用すべし、と誠に電話をかけてみたところ、彼はわざわざ東京から車を飛ばしてやってきてくれたのだった。
「チェロ。買った。誠さん、でっかい車ね。」
 広い後部座席にチェロを横たえながらかなではライトに照らされた運転席を振り返る。いつのまにか夕方になってしまっていた。太陽はもう沈んだ。田舎道らしく、まっくらな空気に鳥と虫の声だけが聞こえていた。
「おう、エアウェイブは俺の愛車だ。ってかチェロ、マジで買ったの?」 
「買ったわよ。」
「だって高いんだろ?」
「なんのために働いてると思ってんのよ。あたし今までのボーナス全部使わないで溜めてたのよ。まさかこのために使うとは思わなかったけど。結果オーライだわ。」
 助手席に乗り込んだときはじめて、誠はかなでの異常に気がついたようだった。身を乗り出して眼をのぞきこみ、「どうした?」と聞く。
 そのどことなくひょうきんな声を聞くと、かなではいつも、安堵のあまり泣きわめきたくなってしまう。
「かなで?」
「海に連れてって。いますぐ。千葉の」
 ついに堪えきれなくなり、鼻声で言った。
 エンジンをかけたままのエアウェイブはゆるく振動し続け、まるでこの身をあやしてくれているようだ。泣きすぎの自分が情けないが、これはもう生理反応だ。心をともなわずに悪い水だけが流れていく。
 だがもちろん誠はバカなので、かなでがワガママを言うのはこれはよっぽどのことだと、なんとかしてかなでを泣き止ませなければならぬと、粉骨砕身をつくしはじめた。
「どうしたの。親父さんのことがつらい?」
 誠のどこを好きかと聞かれて即答できるかなでではないが、こういう時に体に触れることをためらわない潔さや、ロマンティストな部分は好きだと想う。また人生を野球から学んできたために持ち合わせているのであろう、そのしぶとさも見習うべきものだと感心していた。
「なんで知って……あ、あおいね、あるいはコウくんね。」
 腕のなかに抱き取られながらもかなでは健気に強がった。何しろずっと一人で生きてきたので、そう簡単に人に心を許すことはできない。人生はバトルだ。騙されたら終りという本能のようなものがかなでには染み付いている。
「そーだよ。皆心配してるんだぞ。おまえ、痩せたね。ちゃんと食ってる?」
「食ってる。あおいの料理は世界一よ。ねえ、海、連れてってよ。」
「いいけど、今から行くと、帰りが遅くなるよ。」
「子供じゃあるまいし。泊まってもいいじゃない」
「こういう時にそういう関係になるのはまじめじゃないから俺は嫌いだ。」
 ヤケクソで言った言葉に思いがけず真摯な答えが返ってきたのでかなでは不意をつかれた。顔をのぞきこむと誠は怒ったような眼をしていて、ごちんと額をぶつけてきた。
「いたいっ」
 本当に痛かったので叫んだら、今度は髪をなでられた。わけがわからない。
「あおいちゃんが心配してんだぞ。最近のお前はただでさえ病院に張り込んで帰ってこないって。今日もメール来た。予告なしにいなくなった! って。ほぼ半狂乱だったぞ。なんで連絡してあげないんだよ。好きなんだろ?」
「だいすき」
「だったらなんで」
「……自分で自分がよくわかんないの。」
 そろそろ反抗するのも疲れてきたのでかなでは正直に弱音を吐いた。
「なにが?」
「あおいの優しさとか、ちゃんと受け止められてるのかなって。こわい。元気になってるのはわかるの。だけど、体はまだ疲れたりハイになったり、めちゃめちゃでぐちゃぐちゃ。ことあるごとに涙が出るし、自分に振り回されて疲れる。あたし、死にたかったのよ。今だからわかるの。誠さんとこうやって喋れるようにならなかったら、あおいと再会できなかったら、コウくんと会えなかったら。いまごろ死んでた。一人ではそれ以外の道を見つけられなかったと思うの。」
 頭の上になにか温かいものを感じたのでかなでは顔を上げた。誠の唇が額と、頬にそっと押し当てられた。まじないをかけるような仕草だ。中和されていく涙ににじむ眼で、彼のグレーのセーターを見つめた。肌触りも仕立ても一級の服。
「海、一瞬でいい? すぐにあおいちゃんちに送り届けるから。」
「いい、全然問題ないよ。」
「あとしたいことは?」
「親父に会いたい」
「うん。俺もそう。他には?」
「キスしてもいい?」
「いいよ。」
 即答されたので、手を伸ばして誠の顔を捕らえた。彼の肌はきめが少し粗く、荒れていたが、体温が高くさわると指先がじんじんしびれた。触れ合わせた唇もやはり同様に熱く、かなでは思わずため息を吐いていた。
「誠さん、あつい。」
「それ、感想? よかったってこと?」
「自分からしておいて良かったもなにもないわよ」
「それもそうだな。じゃ、今度は俺からしよう」
 言うがはやいか誠は押し包むようなキスをした。カーランプの下でするそれはとてもちっぽけで、しかし全世界がそこに集中してしまうような凝縮された愛情を秘め、弱った恋人を勇気付けるだけのなにかに満ちていた。
 なにか。生命力?
 かなでは考えた。まつげが触れ合うほど近くにある誠の黒い眼、穏やかに澄んだ輝きをたたえるそれの中を覗き込み、海を泳ぐような気分になりながら、じんわりと胸に広がる感動を受け止める。
 そうだ、誠さんは、生きることそのもののような人。
 その愚かな正直さ。傷をひきずりながらも動き回っていた体力。泣いて、笑って、酒に酔い、ちいさなことで傷ついて、情けないくらい落ち込んだ。うつむいたかたちのいい頭、途方にくれて宙をさまよう指先。
 それでも背中は常にまっすぐだった。
 思い返せば、はじめから、誠には後がなかった。彼は計算などできない。姑息なテクニック抜きでいつだって今を生き、目の前に現れた穴に落ちた。
 けっして強い人間ではないし賢いともいえないタイプの男だが、その、けれんのなさが、見ているものに無限の可能性を感じさせる。
 誠は常に生まれたての赤ん坊のような、これからの存在だ。
 希望そのものだ。
「だから、惹かれたのね……。」
 思わず呟いたとき、かなではまたしても涙目になっていた。視界が銀色に染まって何も見えなかったが、今度は思い切り泣いても後味が悪くないであろう、喜びに満ちた涙だった。
「なに?」
 誠が首をかしげ、少しだけ身を離す。かなでは首を振った。
 窓の外は絹のような闇に包まれていた。
「ううん」
 変わっていこう、と思った。この男がそれを教えてくれた。つらいことや悲しいことに負けたくない。常にこの身をしなやかに変化させ、全てを受け入れる風の腕を持つ、空でありたいと思った。あるいは海でありたいと。
 色んな場所に行って、たくさんの人と出会って、青を透かす翼を広げるのだ。
「なんでもない。好きだよ。誠さん」
「ず……いぶん、素直じゃねえか。今日は」
「たまにはいいかなって。出会いは与えられるだけのものだし。ねえ、腕の腫れ、ひいたのね。」
「ああ、手術したからね。」
「知らなくてごめんなさい。」
「いいんだ」
「野球はできるの?」
「いや。できない。二度と。だけどいいんだよ、本当に。友達に、恋人ができたからな。」
「詩人なのね」
「おまえたちの影響だな」
 笑った目じりのしわがやさしかったので、かなでも笑った。
 飛び去る風景を脳裏に刻み付けて、こぼれおちる言葉たちをかき集める。愛しい。すべてが美しく、悲しい。一瞬一瞬が永遠で、最後だ。
 聴こえる、とかなでは瞳にまぶたを下ろした。
 きこえる、光と闇の旋律。残されたものと消え去ったものの別れの歌。
 その全てをこの身に取り込み、新たな命として得よう。
 大好きなひとたちと、行こう。







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