Andante sostenuto




17




 父の状態は予想通りにひどかった。長い年月の間に蓄積されたアルコールとニコチン、不摂生に加えてゴルフ会社の社長という立場による疲労が加わって、本人が気が着いたときには彼の体内はもうめちゃくちゃだったらしい。肝硬変に胃潰瘍、内臓脂肪に悪性腫瘍。癌という名前を聞いた時にはかなでは父親を素手で殴ってしまったほど腹が立った。
「よりによってその病気にかかるなんて、どこまで子供不幸なのよっ。」
 そばにいた看護婦も父の愛人もあっけにとられていたが、なかんずく最も驚いていたのはかなでの父その人だった。女に手を出すことは多くとも手をあげられたことはほとんどなかったため、彼は眼を丸くして娘を見つめ、それからいきなり肩を大きく揺らして笑った。
 なんで笑うのよ、とますます腹を立ててかなでが怒鳴って見てみれば、彼はなんと泣いていた。愛人が大丈夫ですか、と彼の肩を支えたが、父親はベッドに伏せて、腕に、鼻に半透明のチューブを通しながら、しゃっくりのような妙な音をたてながら大泣きした。
 後で愛人からかなでが聞いたところによると、その時父は、娘があんまりかつての母親そっくりに育ったものだから、嬉しいような、申し訳ないような、なつかしいような気持ちになって泣いてしまったというのだ。今の自分の状況や余命の短さを思って感情の行き場がなくなってしまったのだと。
 ……やりきれないわ。
 愛人がいい人だったのがせめてもの救いだ、と思いながらかなでは岡田家に帰宅し、いつも通りにあおいと初美とご飯を食べて、お風呂に入った。部屋に戻ってベッドに腰掛けると、同じ日の朝に誠と青春して早朝ランニングをしたことがまるで嘘にしか思えないほど、なんだか遠い疲れが襲ってきた。
 ばすっと布団の上に倒れて眼を閉じる。頭はクリアで、この上なく冷静だった。涙もちゃんと出る。素直に悲しむには父と自分の関係は冷えすぎていたが、かなではやはり、辛かった。横倒しになった腹が緊張にねじれて痛んでいた。母が死んだ時と同じ症状だが、あのころと決定的にちがうのは、自分が今どうすればいいのかということがちゃんと見えているということだった。
 見届けなきゃ。もう逃げないで。失うことを恐れないで。
 津波のように押し寄せてくる衝動にかなでは黙って身を任せ、そんなに泣けることが自分でも不思議なほど泣いた。
 荒々しい波が何度も喉元まで押し寄せ、呼吸をするのも苦しかったが、やがてそれは小さく、短くなり、最後にはほとんど細波と呼べるほどになった。
 すんすんと鼻を鳴らしながらティッシュで眼と鼻を拭い、かなでは窓の外に浮かぶ白い月を見つめると、その輝きがいつでも同じであるということに安堵し、こうやって温かく眠れるベッドがあるということに感謝し、毛布をかぶると眠ってしまった。
 夢の瀬に響く甘いヴァイオリンの音色はとても好きなブラームスで、あおいがわざと、自分のために弾いてくれているのがわかって嬉しくなる。人が人のために奏でる音楽は特別なのだ。
 チェロ、ほんとにまた弾こうかな……。
 うとうとしながら考えていると、明日を迎えることも苦ではなかった。
 光の旋律は聴こえなくても、かなではもうそれを自分で作り出すことができる。切なくて切なくて、声を限りに叫びたい愛がある、感謝がある。生きていると、自分は生きていくと精いっぱいに両手を広げたい。 
 ──かなでは響香にそっくりだなあ。
 母の名を紡いで、父はそう泣いた。

 それから一週間ほど、仕事帰りに父親を見舞い、彼が起きていたら彼と話し、そうでない場合は愛人と話し、請われれば病院に泊り込んで翌朝いちばんで岡田家に戻ってまた仕事に行く……というような日々を送っているうちに、かなでは自分でもそうとわかるほどげっそりと、痩せていった。
 心は、元気だ。
 ものすごく痛めつけられて打ちのめされてはいるものの、日々悲しい静寂が減り続け、視界がクリアになっていく。理由なく目覚めた夜の底で感じる、自分のなかの、情けないぐらい強い芯がある。
 夜を超えてやる、と思える。こんなところでは果てない、と。
 母が死んだ時かなでは一切泣かなかった。だから今回はその分も思い切り、ただ涙することを惜しまなかった。放射すべきものを無理やりゆがめて押し殺してしまうと心が次第に腐っていくのだ。
病院で感じる人間という生き物の臭さや、肉のもろさ。濁った血の色に、一定の間隔を置いて繰り返される人工呼吸器の音。
 かなではそれらを飲み込んで、そして吐いた。
 父というひとつの肉体、命の入った器が毎日少しずつその機能をおかしくしていくのを見送りながら、受け流した。
 涙を流すたびに人間はどうしようもなく脆くやわらかい物体だと絶望しながら、同時にだからこそ生きていくことは尊いのだということに気がつき始めた。
 命は、奇跡だ。
 人間の足元にある大地は、頭上の無数の雲と新鮮な澄んだ空気は、そのことをいつだって謳っている。気がつきさえすれば、世界はあらゆる恩寵にあふれているのだ。
 愛した人がいなくなっても、愛された記憶が痛くても。
 そしてそういう自分自身に絶望する夜が何度訪れようとも。
 いま、ここに存在していること、心臓が脈打っていること、体温が感じられること。食欲があること。
 恋ができること。友達がいること。
 音楽を愛していて、それを命がけで自分の味方につけてきたこと。好き過ぎて一度は手放してしまったけれど、またやりたくてたまらないこと。
 千もの、万もの瞬間の閃きを取り込み、命は輝く。
 きっとそれこそ人が可能性と呼ぶものだ。愛であり、宝だ。心とも名を持ち、またある時は人という牙をなくした獣に憑依する、野生に成り得る。
 ──あたしはずっと、死にたかったんだわ……
 あまりにもアンバランスな心と体の落差にぜいぜいしながら、かなでは今、水底から這い上がろうとしていた。
 あたたかく守護されていた国を追われた姫君は、長いドレスの裾を引き裂き、荒野を歩き、剣を抱いて、いつのまにか戦っていた。胸が凍りつきそうになるほど寒い夜、あっけなく砕け散った弱い心のかけらを集めて、それらを自分の手でまた繋ぎ合わせようとしていた。
 ──死にたくない。生きたい。
 だってあたし、愛されて育ってきたから。
 人間の命は止まらない。何があろうと決して。だからやるしかない、かなでは進む。自分だけの生を死に物狂いで勝ち取りに行く。
 そして、自らを幸福にする。

「おまちどおさま」
 だしぬけに母の声がしたので、かなではきょんと眼を瞬いた。
 岡田家のリビング。あおいはまだ帰っておらず、初美が台所に立って料理をしている小柄な後姿が見えている。洋風料理が好きなこの家らしく、にんにくを炒めるいい匂いがあたりいっぱいに満ちていた。
 幻聴かと思って首を振ったが、あろうことかまた、今度はなんといま病気で死にかけている筈の父の声まで耳に届いたではないか。
「今度の土日は三人でラウンドってのはどうだ?」
 あたし、疲れすぎてるのね、きっと。
 かなでは気楽に考えたが、初美に水をもらおうと立ち上がった瞬間、目の前に広がる家族の風景に気がついて凍りついた。それはちゃんと影を持ち、血の色を通わせていた。
 自分が、いた。
 岡田家のテーブルとは違う、少し小さめの白い食卓にちょんと腰掛けて、幼い両手でキリンビールの瓶をもち、その中身を父のジョッキへ不器用に注いでいる。髪は肩につくかつかないくらい、小学校中学年ぐらいの歳だ。
 ジュージュー音のたつグラタン皿を持ってきた母は若くすらりとしていて、娘からの酌を顔ほころばせて受け取る父同様、まだ全く健康だった。
 見るからに普通で幸せそうな家族の風景。親子供が全員揃い、同じ食事を囲んでいる。
 それなのに彼らの存在は、しっかり眼に見えるのにどこかぼやけ、もっと見たいと凝視するとますますその輪郭をにじませてしまう。温かい色合いなのにまるで豆電球のように弱くわびしい、あきらかに現実にいるものでない人々の濃度だった。
 かなでは身動きがまったく取れなかった。彼らを見つめるしか出来ることはなかった。
 鏡を見ているように現在のかなでにそっくりな、若い母が言った。
「またラウンド? お断りよ。あんたは若い子のお尻しか追っかけないんだもの、かなでに悪影響だわぁ。ねえ、カナ。それにカナは発表会あるもんね。チェロの練習しなきゃいけないものねえ」
 ああ、そういう言い方をされると、練習嫌いなあたしは余計逃げたくなっちゃうのよ、お母さん……。
 まるで夜の街にいそうな妖しい美貌を誇りながら、その実は真面目で教育熱心だった母。
 目の前で彼女の長い手足が動くのを見て、かなでは懐かしさで変になりそうだった。頭の脇に両手を押し付けて、あふれそうになる感情を押さえつける。
「うーん、ゴルフしたいな」
 子供時代の自分が生意気に答えて、かなでは恥かしさに顔が真っ赤になるのがわかった。ガキのくせに、なんというませた奴だ。
「ほら見ろ! かなでは俺の子だものなあ?」
 父が大きな笑い声を立て、実に嬉しそうに娘のつややかな頭に手を置くと、そのままぐしゃぐしゃとかき乱す。母が顔をしかめて、かなでからキリンビールを取り上げた。
「ほら、カナ! お酌なんてしなくていいっていつも言ってるでしょ? 水商売の女みたいにならないの」
「水商売? ってなに? 水を売るの?」
「……なんでもない。それより、ほんとに明日ゴルフするなら、チェロはどうするの。発表会は来月なのよ?」
「帰ってきてから練習するう。それに、フォーレはそんなむつかしくないもん。」
「カナは上手だもんなあ。他の子なんか目じゃないもんなあ。」
「うん!」
 子供特有の、まったく純真で得意げな笑顔で“カナ”は思い切りうなづいた。母が娘の前にグラタンを取り分けた皿を置きながら、呆れ果てた顔で父を見る。
「もう、あんまり甘やかさないでよ。それよりあなたは聴きに来れるの? 発表会」
「もちろんだ。仕事があっても抜け出すぞ。そうだ、ドレスは買ったのか?」
「まだよ。カナ、着たがらないんだもの。」
「ドレス、弾きにくいの。ズボンの方がらくなんだもん」
「ドレスアップの仕方を知らない内はおまえは子供だなあ、カナ。女はおしゃれができなくちゃ一人前じゃないよ。綺麗でいることは武器だからね」
 がははと声を上げて、父は磊落に笑った。
 昔から、女好きで能天気な、大様な人間だった。社長という立場の割によく会社を抜け出しては、子供の自分の授業参観や発表会に来てくれて、秘書だという人物が怒りくるっていた。
 また彼は夏でも冬でも夜によく母の目を盗んでコンビニへ行くのが好きで、こっそりとビールを買ってきては、ついでにかなでにもアイスをくれたりした。まあ結局は空き缶を捨てるのを忘れて、翌朝母から大目玉をくらうことになるのだが。
「何色がいいかな。赤かな。」
「赤はこの間着たのよね。カナの好きな色は?」
「青いの!」
 悲しすぎる、とかなでは血の涙を流した。もういない、彼らはもう死んだ。
 人はどうしてこんなに変わってしまうものなのだろう。父がこの映像を同時に見たとしても、きっとかなでと同じことを思うに違いない。
 戻れない。
 この時の自分たちと今の自分達の間には、年月なのか、経験なのか、喪失なのか、そういう絶対に殺せない生きた壁が立ち塞がってしまい、二度と再びひとつの存在に融合することはできないのだ。
 帰らない、想い出の中の日々。こんなに愛しくてたまらない人々。
 まだ必要なのに、もっとたくさん話したいことがあったのに、何も成す術がない。そのことが何よりも切ない。
 やがて親子が蛍のように消滅したとき、かなでは床に突っ伏して泣いていた。
「かなでちゃん?」
 何事だと振り返った初美の、その鮮やかな花のような今そこにある生命力に、部屋にうっすらと残っていた家族の光はかき消されてしまう。強いガーリックの匂いにグラタンの音が負ける。母の髪の艶が見えなくなる。父の酒臭さが感じられなくなる。
 畜生、なんというリアリティの、そして同時に儚い白昼夢だ。
「まあ、まあ、かなでちゃん。どうしたの、悲しいの?」
 初美のスリッパの音がぱたぱたと近寄ってきてやがてすぐ前で止まる。熱い両手で背中をさすられ、ますます喉に涙が詰まるのがわかった。
「かわいそうに、かわいそうに。泣きなさい。泣きたいだけ泣きなさい。」
 その声に応えるように、むせび、声を殺して、しゃくりあげながら、それでも泣き止んだ時にはかならず必ず今より強くなってやると呪いのように思いながら、かなではただひたすらに泣いた。
 チェロ。チェロを弾かなきゃ、また取り戻さなきゃ。
 啓示のように強力なその決意は、いきなり降って来た。そうだ、弾こう、それしかないんだ。
 あたしは弾きたい、そしてこの孤独な身に取り戻したい。
音楽という光る命を。
 そして希望を!









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