Andante sostenuto




16





 ロミオとジュリエットの朝から、ぷっつりと、誠はかなでに会わなくなった。
 告白したから気まずくて誠から避けているというわけでは無い。かなでの前ではなんだか失態ばかり見せているが、本来女の子が大好きなのだ。恋愛で誠が臆することはほとんどないと言っていい。
「かなで、生きてる?」
 彼女の姿を見かけず声も聞けない状態が一週間ほど続いたある日、休みを取って右肩を手術した誠は、家に見舞いに来た孝輔とあおいに聞いてみた。相変わらず仲睦まじく、彼らは答えた。
「生きてますよ。元気は無いけど」
「そうなの。……お父様が肝硬変で意識不明だとかって」
「肝? 意識不明? マジで?」
 ふたりは土産にケーキを買ってきてくれていた。右肩を三角巾で吊って身動きが取れない誠に代わって、あおいが台所で立ち働きながら答える。
「こんな嘘ついてどうするんですか。マジですよ。もう、どうしていいかわからないの。かなでちゃん、親戚いないのよ。母親の方はみんな死んだり行方不明だったりなんか特異な家系で、お父様がゴルフ会社の社長だけあって、父方はみんな金の亡者ばかりが集まってるの。遺産とかそういうもの目当てで、いつも家には誰かしらいて、お父様にへこへこしてるんだって。かなでちゃんは離婚した妻の娘、っていう位置付けだから、そういう人たちの頭の中からは抹殺されてて──まあ、その方がいいんだけど。どう考えても。──だからかなでちゃんはお父様を失ったらほんとうに天涯孤独になっちゃうの。」
 あおいの口から語られるかなでは自分の全く知らないかなでで、誠はより一層心が彼女に引き寄せられるのを感じた。小さなかなでが父親の大きな家を、他人の好奇の目にさらされながら母の手に引かれて出て行く様子。そんなイメージが胸を占拠して、今まで感じたことのない自分の中の未知の部分に強く訴えかけてきた。
 かわいそうな可愛いかなで。
 守ってやりたい、と、恋愛の熱さなどではない、もっと普遍的で肉体の奥に根ざしたものが望んでいた。たぶんそれは、父性のような、とても原始的な意味での男らしさのようなものなのだろう。
「かなでって、女の子なんだよな……。」
「何今更気がついたみたいに言ってんすかー。だから惚れたんでしょう?」
 孝輔がまるで自分の部屋にいるようにカーテンを開けながら言った。誠は昨日手術を受けていらい、明けて翌日の今日までずっとベッドで寝ていたので、部屋の中は夜中モードのままだったのだ。あおいがコーヒーをマグに注いで運んできて、ガラスの小さなテーブルの上に置く。
 誠は昼の光に眼を眇めながら起き上がった。外を車が行き交う音が聞こえていた。
「いや、そうなんだけど。なんていうか、心があんまりしっかりしてるから、そのことを忘れがちになる。女は弱いもんだっていう概念が俺の中にはあるもんだから。今、あおいちゃんの話聞いて、なんかやっと、かなでの正像が見えた気がする」
「聖書にありますね。男性は常に女性が自分よりも弱い器であるということを意識して、守ってあげなければいけません。って」
 ケーキはモンブランと雪のように白いショートケーキ、それからいかにも甘さ控えめな小さいチーズケーキだった。どれがいいですか? 天使のような笑顔であおいが尋ねてくる。自分の部屋に女が上がりこんだことが久しくなかったため、誠はどきまぎしながら答えた。
「シ、ショートケーキ。……ねえ、その文句って、結婚式でよく引用されるやつだよね。」
「そうですよ。あたし、結婚式っていつも泣きそうになるな。みんな華やかで。白く光ってて。愛をその日だけ信じるの。お式そのものも披露宴も二次会も、いくら温かくてもなんだか儚くて、笑顔ばかり眼について切なくなる。そこいらじゅうで音が聴こえる。見上げたステンドグラスは高くて、夢のように空が遠く感じられて。目の前に伸びる道は果てしなく長い。」
 淡々と言葉を織るあおいの髪が背後からの陽光に輝いている。そのやわらかい冬の陽のなか、伏せられたまつげもほとんど金色に透け、あおいはここにいるのに同時にどこか遠い世界に存在しているような、そんな怖い透明度を感じさせた。天国のような。
 ああ、これが、あおいちゃんの心の風景か……。
 誠は思って、背筋がすっと冷たくなった。彼女はふだん誰にでも優しくてあかるいし、どんな小さなことにも細心の心配りを忘れない女の子だから、人は皆彼女が晴れた庭園の中にいて、そこで幸福な、花と歌と愛に満ち満ちた日々を送っていると勘違いしてしまいがちだ。
 しかし実際は無論そうではなくて、あおいは今こうやって誠の小さいアパートでインスタントコーヒーを作り、ケーキを取り分けているし、毎日派遣社員としてあくせく働きながら、少ない自由な時間を縫ってヴァイオリンの練習を頑張ってしている(と、かなでが情熱的に語っていた)。病院でボランティア活動をしていると思えば仕事をいきなり休んでどこかへ消えたり、思いつきでバックパッカー宿をてんてんとする旅行に出てしまったりする(これは孝輔から聞いた)。
 自分で自分の可能性を無造作に試しているような、一種自虐的な生き方をしている女の子なのだ。
 見た目はアナウンサーみたいな可愛い子なのになあ、と誠はショートケーキを一口すくいながら舌を巻いた。女の子で心が強すぎると不幸だ。体が弱いのに辛い道を選んでしまう。
 まあ、彼女の場合は、
「岡田、モンブラン一口ちょうだい。チーズケーキもやるから」
「横取りしないでよう。甘いもの駄目なんでしょー、藤原孝輔くんは。」
「今日は違うんだよ。いただきます」
「あっ、もう!」
 いつも隣で同じ目線にすっぽりはまりこんでくれる、賢くてえらい恋人がいるから、きっと最後には戻ってこれるのだろうが。
 ああ畜生、なんて健全なカップルなんだ。きれいごとをべらべら恥かしげもなく喋るくせに、その全部が彼らの実感だなんて、なんて残酷なことだろうか。
 かなでが彼らを心から好きな理由が誠はわかる気がした。ケーキの甘味とやわらかさが体に染みる。コーヒーで押し流してみても、それはいつまでもとろりと舌にまとわりついた。甘いが、うまい。
 うめいた誠に目の前のふたりは嬉しそうに笑う。
「でしょ。やっぱ疲れたときにはこういう控えめな甘いものがいいんだよ。かなでちゃんの分も買ったんだ、チョコレートオペラ。」
 あおいが言って、その隣でマグカップを傾けながら孝輔がたずねた。
「今日は帰ってくんの? かなでさん、岡田んちに」
「不明。でも、昨日病院に泊まったから、多分戻ってくると思う。」
「え? あいつ、父親見舞ってんの?」 
 誠はフォークを動かす手を止めて言った。あのかなでが彼女の“親父”を見舞っているなどと、ちょっと信じられなかったからだ。
 あおいは当たり前でしょう、と言わんばかりに茶色い眼を見開いて答えた。
「誠さん? さっき私、言わなかったかしら? かなでちゃんのお父さんはかなでちゃんの最後の身内だって」
「言った、聞いた、わかってる。だけどさ、あいつの話の限りだと……おせじにも仲のいい親子って感じじゃないだろ。」
「どんな関係だとしても。親子の縁は一生切れない。生まれた時から心臓に巻きつけられた鎖よ。」
「だってかなでを捨てた親なんだろう?」
「あなただってコーチを捨てたのでしょう?」
 あまりに冷静にそう言葉を向けられて、誠は一瞬呆気にとられた。胸の痛みが遅れてやってくる。かっと顔が熱くなった。
「そういう言い方はないんじゃないの?」
「怒らせるつもりじゃないの。ただ、人とのかかわりって、そういうものだって言いたいだけ。自分にとって心地いいばかりものじゃないのよ。ある程度自分で操作できても……本当に大事な縁っていうのは、選べないんだと思う。利用されたり、しちゃったりしながら、その関係を断ち切りたくて逃げて、だけど離れた後もその影響の強さに苦しめられたりするのよ。誠さん、よくわかるでしょう?」
「わかるけど」
 ぐっと身につまされて誠は黙った。あおいが言っていることは痛いぐらいよくわかった。彼女は正しい。自分はずっと逃げつづけてきた。過去のある一点にこの手が縛り付けてしまった哀れな亡霊から。その眼が悲しげに訴えるものを読み取ろうともせずに、ただ逃げて、逃げて、しまいにはそのことを忘れられるぐらい図々しい大人に成長してしまった。
 だから今肩が動かなくなった。
 だからもう、コーチに会えない。
「逃げることは悪いことじゃないと思うけど、その間に二度と触れなくなってしまう存在って、絶対にある。誠さんにとってのコーチみたいに。かなでちゃんはそのことをよく知ってるから、だから例えどんなにお父さんが憎くてもできる限り見届けたいのよ。今、よれよれで見てられないぐらいだけど、実際がんばって毎日病院行ってる。」
 モンブランとチーズケーキを交互に食べながらこの小生意気な娘は断言した。孝輔がちょっと焦った表情を浮かべているのに気がつきながらも、誠は彼女に一言物申さずにはいられなかった。
 フォークを置き、ごちそうさま、の代わりに言う。
「あおいちゃんはさ、正直すぎると思うよ。敵を作るよ。そんな態度で万人に接してるんだとしたら。もうちょっと自分を守るためにずるくなってもいいんじゃない?」
「いいの、だって、八方美人になったら嫌な奴等まで引きつけることになるし。それはやなんだ。それより誠さん、日誌読んだの?」
「え?」
「藤原くんから聞いた。手術もしたし、ふっきれたんでしょ? そんな顔してる」
「……やっぱり、いい性格してるよ。あおいちゃん。」
 にこにこにこ、と天使の微笑みを向けながら人の痛みに平気で触れてくるあおいに、誠は苦い苦い笑いを浮かべた。
「コウくんすごい子と付き合ってんね」
悔し紛れに彼女の彼に言ってみるとさらりと答えられた。
「どういたしまして。最高の彼女ですよ」
「うわお。ごちそー様。いろいろ」
 自分で淹れるのとは一味もふた味もちがうインスタントコーヒーをぐいっと飲み干して、誠はふうっと息を吐いた。なんだかやたらに疲れて感じられるのは、こうやって腹を割って友達と話したことが久しくなかったためだろう。大学時代の友達も、会社の同僚も、酒を覚えてからの友はほとんど飲み仲間のようなもので、自分の秘密を打ち明けたりはできなかった。無論しようと思えばできないことはなかったろうが、なんだか彼らが自分に求めているのはそういう深い感情の共有ではなく、その瞬間瞬間を盛り上げる口当たりのいい会話や、面白おかしいエロ話だった気がする。
 友達、そうか、友達なんだな。こんなに歳が離れてても。
 その事実に気がつくと、妙に胸が熱くしびれた。目の前のふたつの頭を超えて、冬の晴れ空が高く回り、一本まっすぐ、ひこうき雲が伸びている。誠の部屋は二階にあるので、窓の外の木々の枯れ枝が風にゆれる様子が見えた。
 最近、世の中のこういう景色がやたらと眼に入るようになってきて、誠は時々その美しさに本気で涙ぐんだりしている。そしてそういう瞬間、かならず意識の彼方でなつかしく感じられる面影がある。
 それは高校生時代の自分だ。
 あのころは当たり前のものとして受け取っていた他人の愛情や誠意を、ちかごろとんと誠は忘れてしまっていた気がする。与えられているだけの弱い子供からいつのまにか、自分からなにかを得ていかなければいけない大人になってしまい、その差に戸惑ったまま長い時間が過ぎた。だから景色をじっくり見つめる暇などなかった。
 今、自分が見つめる景色は、球児だったころの自分が見つめているものとまったく違うように思えて実は同じだ。違うものは、自分だ。明日を疑うことのなかった幸福な少年は、少しの痛みと喪失の空白を経験して、絶対に消えることのない切なさをその胸に宿した。
 戻れない、でも、今俺が見る景色だって、こんなにきれいだ。
 生きることがこうやって、自分で自分に触れていくことだと、誠は今まで知らなかった。肩を打って、かなでに恋して、あおいと孝輔と出会って、知ることができた。
「ありがとう」
 聞こえないように呟いたつもりだったが、目の前の友ふたりには届いたらしい。
 何がですか、と、眼を細めて彼らはやさしく微笑んだ。 
「なんでもないよ。そうだ、日誌見る? ふたりとも」
 立ち上がって、誠も笑った。

 ***

(実家に電話をかけた二日後には誠の手元に届いていたコーチの日誌。最終頁から抜粋)

 可愛い誠。
 愛ゆえに、わたしはおまえに辛く当たってしまったようだ、許して欲しい。そして同時に感謝を。お前を育てられたことが、私にとってどれほど幸福なことだったか、誰にも説明はできん。
 挫折しろ。迷え。苦しめ。そうして自分で自分を勝ち得、最後には幸福になれ。なにが幸福なのかなんて誰にもわかるもんじゃないが、お前ならお前なりの答えを得ることができると信じてるよ。
 もういっぺん、話したかったなぁ。酒、飲みたかったなぁ。
 人生の大先輩として、お前のこれからに一言だけ助言しておこう、誠。
 酒と女は上質なものを選んだほうがいいぞ!










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