Andante sostenuto




15




 明け方になっても夜の魔法はまだ効力を発揮していた。誠と会えたのだ。
なんとなく目覚め、カーテン越しにうすらぼんやりと輝くものを感じて窓を開けたかなでは、そこに蒼い世界が息づいているのを目の当たりにして息を呑んだ。
 植物も物体も墨に溶かしたようなブルーの底で、微動だにせず、ただ静かに太陽を待っている。抗争がはじまる直前の戦場のようだった。
 辺りには犬っころ一匹見えないが、そこいら中の影に隠れて、幾百万の命が確かにそれぞれの岸辺でねむっているのが感じられる。
 太古から連綿と繰り返されてきたこの夜明けの光景、世界という命の流れに、自らもいつのまにか参加していたのだと実感できて、かなではふいに胸がふるえ出すのを感じた。喉にせりあげてくる熱いものを感じながらバルコニーに出ていき、ブルーの大気に手を伸ばした。肌が蒼にかすむ。
 きれい、と思った。このブルーは夜という女が着ているドレスの裾だ。世界が存在するかぎり、自分たちを染めつづける。
母が病院に入っていたころ、かなではよくこの蒼に包まれて朝を迎え、夜を迎えた。起きている間は目を離した隙に母が死ぬかもしれないと不安で眠れず、眠っている間は起きたら母が既に死んでいるかもしれないと考えて恐怖で起き上がれなかった。
 あの頃はこんな日々がさっさと終わってくれれば楽になれると簡単に考えていた。
それがどんなに残酷な終焉を意味するかはわかりすぎるほどわかっていても、かなでは思い切りふかく呼吸をしたかったし、笑って友達と遊びたかった。好きなだけチェロを弾いて、毎日やせ細っていく母のことなんて無視したかった。彼女がどんどん生から引き剥がされていく様子を目の当たりにして、自分が世の中に対してどんどん冷めていってしまうのが何よりいやだった。
 周りは皆未来を信じているのに。日常は楽しいものであるはずなのに。かわいい恋をして、普通に大学を出て、結婚して、それから親を見送りたかったのに。
 ひどい、聞いてない、理不尽に人生を狂わされた。どんなに強く在りたくたって、乗り越えたくたって、こんなに希望を抱くことができなくては前へ進むことなどできるはずがないではないか。
 ──強く生きてね。かなで。お母さんも頑張って働くから。ふたりで楽しく暮らしましょうよ。
 そう笑った母は、しかし、あまりに儚く死んでしまった。まるでカゲロウのようにやせ細り、腹だけをふくれさせて、最後の最後の瞬間にはひゅっと喉を鳴らして息を吸っただけだった。
 かなでのことなど見もしなかった。
 瞳の奥からあふれてくる涙を拭いもせずに流しながら、かなではひたすら蒼を眺めた。それはもはや薔薇色へとその色彩を変化させ、ゆっくりと、空の上のほうへと向かって昇っていきつつあった。
 いま、自分が何をしたいのか、かなではよくわからない。
 真冬の明け方、亡きひとを想いながら永遠の蒼に身をひたしている。今日もこれから一日を始めなければいけないことがすごく面倒で、泣きたくなる位嫌だと思う。だが負けたくないから歩いていく。
 過去に裏切ったものにいつまでも未練がある。やりたければやればいいだけなのだが、それだけの勇気がない。
 穏やかに生きたいと切に願っている。もう何も失いたくない。
 やさしくしてくれる本当の友、傷ついて泣いている好きな男を。
 ここがきっと水底だということは感じられた。だから、見上げる空に残っている白い月と雲が、あまりに遠すぎて手が届かなくても、美しい大気がナイフのように鋭く頬に触れてぴりぴりしても、もう上がっていくしかないと思った。
 私が動かなければ、上へ戻らなければ。
 そして幸福にならなければ。
 私を含めて私に対し懸命になってくれる、すべての者のために。
 ……誠さん、誠さんに会いたい。
 流れ星が光るようにそう突然ひらめいたのと、眼下の歩道に他でもないその彼が現れたのはまったく同時だった。

「誠さん?」
 かなでは自分でも驚くほどまぬけな声でそう呼んだ。この明け方の悲しい空気を飛び越えて、別の場所から誠がいきなり現れた。そんな感じがしたのだ。
「かなで! やっぱりこの家だった。俺すげーかも。」
 弾けるように笑って、バルコニーの真下から誠はこちらを見上げた。明らかに走ってきた様子だ。無造作な髪の間からまるい汗の粒がとめどなく流れ、首元にはスポーツタオル。そして服装はなんとも若々しい、スポーツブランドのウィンドブレーカーとパンツだった。
「あらまあ」
 どこから突っ込んでいいのかわからず、かなではしばし逡巡した。ロミオとジュリエットのような構図で見つめあっているというのに、片や泣きすぎで腫れた目をこすり、片や早朝ランニングのためだらだら汗を流しながら息を弾ませている。そして明け染め行く世界はいまや黄金色の太陽によって煌々と輝いていた。
 会いたかった時に彼がやってきた、そのことはちいさな奇跡に違いなく、自分にとって切実に必要なことだった。あまりにムードがなさすぎることはこの際目をつぶって、かなではどうやら祈りを聞き届けてくださったらしい神様に対して、すなおに感謝することにした。
 バルコニーの手すりに体重をかけ、あおいが起きないようできる限り声をひそめて誠に呼びかける。
「おはよう。やっぱり、っていうのはどういうこと? ストーキングしてたの?」
「ちげーよ、勘、男の勘。俺、この町に住んでるんだよ。孝輔くんとあおいちゃんには言ったけど、お前は知らないんだよな。」
「うん、知らない。まあ今更たいして驚かないけどね。どのあたりに住んでるの?」
「駅裏の、ブックオフの近く。」
「ああ、あの辺。いいところね。それでなんで、いきなりランニングとか始めちゃったわけ?」
「体が不健康だと心も不健康になるんだ。だから」
 そしてまたにぱっと笑う。数日前までと比べてあきらかに鮮やかなその笑みに、かなではううむと首をひねった。元気になっている。いや、無理をして元気になろうと務めているのだろうが、それにしても、既に山を越えたというか、折り返し地点を過ぎたような爽やかさが感じられる。
 自分はまだターンコーナーを曲がりきれずにいるというのに、さすがスポーツから人生を学んできただけあって、誠は自らの心を治癒する方法を自力で嗅ぎ当てたらしい。かなでを一心に見上げる黒い眼は相変わらず疲れていたが、だが以前とは決定的にちがう、なにか吹っ切れた人がみせるシンプルな強さを湛えていた。
「いきなり元気になったのね。うらやましいこと」
「無理やりなんだぜ、これでも。お前の件があったから、頑張っちゃってんだ」
「あたしの件? 社内の件、のことかしら」
「それもある。……なあ、かなで、出てこられるか?」
「出ようと思えばね。」
 先を越されたことが悔しくて横柄にかなでは言った。誠は何だよそれー、と元気な声を上げ、タオルで顔を拭いた。きんと澄んだ空気のなかに彼の吐く息がま白く豊かに立ち昇っている。
 やがて息が整ったとき、誠はまっすぐ繰り返した。
「出てこいよ、かなで。いつまでもそんな場所にいないで。走ろうぜ」
 何でもいいからきっかけを求めていたかなでは、この挑発にあえて乗った。

 シャワーを浴びてから楽であたたかく動きやすい恰好に着替えると、外へ出て行った。
 時計を確認すると時刻はなんと四時半だ。あおいは当然起きてこなかったので眠っている可能性が高いが、もしかしたら彼女のことだから全て感づいていてあえて静かにしているのかもしれない。
 いずれにせよ、今自分たちを邪魔する存在はいなかった。
 顔を合わせるなり、まず、走る。
 以前誠が感嘆したほど足の速いかなでは、出だしから飛ばして目的地に設定した公園を目指したが、何しろ最近食べていないし動いていないし不健康だし、ということで、五分もしない内にエネルギーが枯渇して誠に抜かされることになった。
 さすが元高校球児だけあって彼の走りっぷりは見事だ。姿勢が美しく、歩幅がちゃんと揃っている。力を温存する方法も熟知しているようで、実に気持ちよさそうにゆったり構えて駆けて行く。くやしい、とかなでは猛烈に思いながらも、その誠の、朝の光に乗っていくような躍動感あふれる動きから眼を離せなかった。
 風景が飛んでいくが、ちゃんと目にうつり、心に届く。
 あれ、あたし、もしかして今癒されてる?
 そう気がつき始めたとき、公園の入り口が目に入った。春は桜に、梅雨は紫陽花に、夏にはムクゲに覆われる自然ゆたかな公園だ。中央に小ぶりの野球場がある。
 白く伸びるスタジアムライトを視界に入れた瞬間、誠がわずかに減速したのがかなでにはわかった。寒さのあまり空気が薄い膜となって目にまとわりつくように感じられ、ダイヤモンドが淡く光って見える。
 ふたりで公園に突入し、そしてどちらも口に出したわけではないのに、いつのまにか球場へと入っていった。
「っひー、くるし……!」
 息をゼイゼイ言わせながら始めにかなでが立ち止まった。心臓がバクバク暴れ狂っているのが感じられ、あまりにも長い間離れていたその感覚に破裂したらどうしようと本気で心配になった。背中を揺らしながら大きく息を繰り返し、砂の上を行きつ戻りつする。背後で誠がおかしそうな声を出した。
「ぜんぜん駄目だな、かなで。お前やっぱ不健康だよ。」
「あんたに言われ、たく、ないっつーの!」
 いつのまにか彼が自分を名前で呼ぶようになっていたことに気がつき、かなり動揺させられながらかなでは答えた。その場に座り込み、実にひさしぶりに鼻や額ににじんだ汗を腕でぬぐう。顔が燃えるように熱く、つめたい空気がここちよく感じられた。
「鍛えればもっとうまく走れるようになるよ。お前、無駄な動きしないから、呼吸さえ整えれば長距離向くって。」
「べつに……マラソン、する気ない」
「一緒に走ろうよ。これからも、こうして、時々。こんなに綺麗な時間があるんだから、一日のなかには」
「なにがあったの?」
「特に何も。ただ、逃げるのはもうやめたんだ。」
「今更青春を演じてもムダよ。その歳で。ガキなのは認めるけどさ。」
「ひでえ奴。ま、確かにコウくんとか見てると、俺ってすっげえ精神年齢ひくいなーって思うけどさ。」
「彼はいい男だもん。あんたなんか比じゃない位かっこいいわよ。」
 髪を結い上げたうなじに汗が流れた。空を見ようと目線を動かしたところ、球場のはじに設置された時計を見つけた。まだようやく五時になったばかりだが、着実に時間はこうして過ぎていく。これから会社に行かなきゃいけないのか……と考えてどうしても鬱々とした気分になるかなでだったが、誠が隣に腰を降ろしながら言った言葉に救われた。
「会社だりーな。サボろうか」
「嘘でもそう言ってくれるとうれしいわね。」
 いちど素直にそう笑うと、ひねた態度をするのは難しくなってくる。かなではたちまち恋する年ごろの娘になった。好きな男の隣で、その体温に安心をもらう。
「本気なんだけど?」
 自分からやってきただけあって、今朝の誠は攻めの体制を取っているようだ。白い息のかかるほど近くでこちらをじっと見つめている。かなでは慌てた。
「でもほら、仕事あるし。立場みたいなものもあるし。」
「かなではそういうの、なくしたくないの?」
「……どうかな。なくしたくないのは、大事なもの。あおいとか、コウくんとか、誠さんとか。母の思い出とか。それによって感じるようになった世界の色々な部分。汚いこと、いやなこと。さっきみたいに……すてきな夜明け。」
「泣いてたね」
「うん。お母さんを思い出してたの。」
「かなではこれからどうするんだ? ずっとさっきみたいに、蒼い空気に溶けるみたいに世界を外側から見つめるのか? 勿体無い。お前には色んな力があるだろうに。仕事なんかいくらでもある。もっと大事なことはお前が何をしたいかってことなんじゃないのか」
「今は何をしたいかわからないわ。」
 かちんと来たかなでは切り口上で応酬したが、誠は一歩も退かなかった。
「そうか? 俺はわかるよ。お前はきっともう一回チェロが弾きたいんだよ。休みたいんだよ。つかれてるからずっと寝たい。元気になりたい。ブルーを単に悲しいとか不可能とか、ネガティブな色合いにとらえたくないんだよ」
「ブルー? なんでブルー?」
「おまえ、青のイメージがある。いい意味で。赤と同じぐらい鮮やかで強い色だけど、赤よりずっと見つめていられる。聡明な色だ。」
「誠さんどうしちゃったの? なんだか今日、へん。」
 いつになく饒舌に、しかも彼らしくない語法で喋る誠に、ようやくかなでも彼がなにか言いたい事があるらしいことに気がついた。回りくどく、外堀を固めながら次第に中央へ向かってくる。やり方は卑劣だったが、まあ気分がいいから許す、とかなでは思って、待ってやることにした。
 首を曲げて見つめた誠の横顔は、走ったためかほんのり赤く染まっていた。
「あのな。会社でお前の話を聞いたわけ。で、俺のせいだって思ったわけ。だってお前の生きてきた道とか聞いて知ってて、それについて考えてたのに、あんまりあっさり社内でのお前の居場所を奪っちゃったわけだから。わかるか、俺は猛烈に後悔してるんだ。そして同時にすごい勢いで立ち直り始めてる。お前がいるからだ、たぶん。こういうこと言うのはすごいカッコ悪いってわかってるけど。だけどそうだろ。現に俺たち、会ってからごろごろ世界が変わってったろ」
「ええと……それって、遠まわしな告白?」
「ばか、そんなレベルじゃなくて。覚悟したんだよ。俺は。」
「なんの?」
「いつもどこかで、死ぬ気でいようって。本気で生きていかなきゃいけないって。でなきゃお前を好きにはなれない」
「やっぱ告白じゃないの!」
 度肝を抜かれて叫んでしまった。誠がストレートな奴だということをかなでは知っているつもりでいたが、どうやら彼はそれだけでなく、とても素直で、それゆえ情熱的な面も持ち合わせているようだった。淡々と吐き出される言葉がすべてかなでの心に熱くふれてくる力を持っている。
 誠は光に属する人間だ、と言った昨晩の孝輔の言葉が思い出された。
 すごいわコウくん、とかなでは改めて知的な友に感嘆する。
 あたし、全然、気がつかなかった。きっとお互いが最悪な状態で出会ってしまったから、眼に黒い目隠しを巻いてしまっていたのね。
「そう、告白。デートしない?」
「いつ?」
「いつでも、どこでも。かなでの好きなところに」
 だいぶ落ち着いてきた体温がまた上昇して、頬が熱く火照るのが自分でわかった。目も潤んで、そこかしこで目覚めの気配が漂いはじめた世界が透明ににじんでいく。
 誠に呼ばれる自分の名前は特別だ。呼ばれてみて初めてそのことがわかった。まるで呪文のようだ。悪夢に飛び起きた子供を守るため、父親が唱える魔よけの呪文。
「……あたし、まだ、きっと落ち込むわ。時間がかかるの。それでもいいの?」
 言いながらも、自分がゆっくりと底辺を離陸していくのが、かなではわかった。不思議なことだった。ついさっきまでこの身を縛り上げていた、あの食いちぎられるような痛みが、眠れないほどの胸苦しさが、たしかに今すこし過去になっている。少なくない焦りとともに母の蒼い残像を思い出そうと試みると、その輪郭がぼやけてしまっていることを知った。
 まだほんの一ミリ程度移動しただけだ。きっとまだ、何かある。会社の問題もチェロの問題も、父親の問題も。なのに何故だ。こうして人は軽薄に痛みを忘れていく。
 かなでは混乱した。快復するということはすなわち、前へ進んでいく力を得るということだ。自分はそのことを何より望んでいたはずだが、いざやわらかな癒しを得たら途端に、過去への未練が鎌首をもたげた。
 忘れたくない。覚えていたい。
 だけど、だけど、ああ、そうか、そうなんだ。
 記憶とは停止なのだ。どんなに素晴らしくったって、もう絶対に動くことの無い時間。しかし生者は命あるかぎり、この世を進んで、立ち止まりながらも息をして、人生をまっとうしなければならない。
 そうか、だからあたしは。ずっと一人を選んできたんだ。
 もういないお母さんの記憶を抱いているのはあたしだけだから、彼女を忘れないために、覚えているために、ずっと一人で世の中に背中を向けてしゃがみこんでいたんだ。
 だけどもう立ち上がってしまった。亡き母とはちがう、目の前で生きている人々のなかに、本気で好きだと思える者を見出してしまった。
 澄み渡った冬空の下、どうしようもなく切なくて、かなでは泣いた。
「なんだ、どうしたんだ、泣くほどうれしいのかよ?」
 誠は当然ぎょっとしたようだった。かなでは両手で顔を覆って首を振った。
「ちがうわよバカ。切ないのよ、どうしよう、離れていく。」
「離れる?」
「死んだ人の時間はもう動かないのに、あたしは生きてるから動かなきゃいけない。色々なことを体験して、色んなひとと出会って、少しずつ癒されて、お母さんのことを忘れていっちゃう。水の底から離れてく」
「わかるよ。ぜったいに同調できないんだ」
「そうよ。こんなに悲しいのに、自分がやがて立ち直っちゃうのが何より嫌。きっと立ち直ったあとも寂しさに捕われたりして、また死んだ人を思うのに。強くなることと忘れることはちがうでしょう? はじめっから失いたくなかった。お母さんが生きていれば何も問題はなかったのに。あるいは、親父と彼女が離婚しなければ、彼女はいまも幸せだったのかもしれないのに。」
「人生は理不尽だよな」
「ほんとようー……」
 急に頭を抱き寄せられても大して驚かず、かなでは誠の胸で泣いた。今まで流したことのない類の、つめたく、もう源泉は止められた川から最後の水が滴り落ちてくるような、希望のない涙だった。
 朝を迎えてしまった。夜はまたすぐやってくるが、今自分たちを照らし出している太陽のひかりは誰にも止めることのできないもので、かなでには成す術がなかった。ただ誠の腕に隠れていままでの恨みつらみを吐き出すように思い切り泣いた。
 
 こうして、悲しくなるほど突然に、止まっていた心は動き始めた。
 何の因果か同日の昼に父が危篤だという一報が入っても、かなではもはや驚かなかった。










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