Andante sostenuto




13



 想像する。
 青い、蒼い空と海。眼も逸らせないほどの圧倒的なディープ・ブルーを。
 揺りかごのリズムがまぶたを閉じさせ、まぶしいほどに賑わう街からこの身を守る。やわらかな腕に抱きこまれたら、やっと少し、泣けるだろう。
 チェロが弾きたいと思った。
 いつもこんな風にぐるぐる悲しみが回り始めた時にそう遠くで思う。あの存在。かなでにとっては誰にも侵されることのない聖域であり、同時に野獣だ。
 残酷な牙と爪が心に深深と突き刺さり、ある一定の方向へ、いつも、どんなに泣き叫んで抵抗しても容赦なく引きずられていく。
 弾きたい、チェロが弾きたい、なにもかもかなぐり捨てて、もう一度音楽に狂いたい。
 獣は轟くような咆哮を上げてかなでを煽るが、かなでは首を縦にふれない。怖いからだ。こんな怯えきって、無音の日々に安堵し、眼を閉じている自分がもう一度何かに立ち向かうことなど絶対にできないと思うからだ。それに金もない。住む場所もない。仕事を失っては生きていけない。
 理由は見つけようとすれば百もあり、かなでを責めることは誰にもできない。だが、かなで自身がかなでを許してくれないのだ。
 それが、身を引きちぎられそうに痛いことだ。

「先輩、眼ぇまっか」
 誠はその日、朝から得意先に直行したので会社に行ったのは夕方のことだった。
 周囲からの嵐のような冷やかしと非難の声を鉄の意志で受け流し、所属する営業部まで歩いていく。
 こういう、会社での時間と、傷を受けてもがき苦しんでいる時間。その二つをどうしても両立させなければいけないということがひどく残酷なことだと思う。誠はバランスを保つのはうまいし、オンとオフはきっちり分けて考えるタイプだが、今回の件は重い。重すぎて、常に悪夢をひきずりながら歩いている気がしている。
 孝輔に泣かされた上、休んだせいで鬼のように溜まった仕事を抱え、げっそり疲れながら、誠は自らのデスクにたどり着いた。
 するとそこに堂々と立っている美人の後輩がいたのだ。
「……塚本? おはよう」
「おはようございます、笹井先輩。」
 豊満な体型に、相手が誰であれ挑むように向けられる丸い眼。営業二課の塚本安奈だ。かなでと同時期に中途入社で採用され、二人そろって美女だすげえぜと当時けっこう噂になった。
「珍しいお客さんだな。どうした?」
「少しお話したいんですが、大丈夫ですか? 疲れが眼に出てるみたいですけど」
「……ああ、これはちょっとな。」
 久しぶりに顔を見る後輩の前で笑顔のひとつも浮かべられず、誠は手で額を押さえた。目の前の安奈があまりにも生命力に満ち溢れていて、眩暈をおぼえたのだ。彼女は社内でかなり評判の高い営業ウーマンである。自信と誇り、今の誠からどんどん抜け落ちていっているそれが、安奈にはみなぎっていた。
「歳のせいか、最近力が足りなくてね。もう若くないな。塚本は調子いいらしいじゃん? 一課でも君の成績は評判だぜ」
「ありがとうございます。何しろ紅一点なのでね。自分の性を生かさなきゃなめられる一方でしょう? ところでお話があるんですが、今よろしいですか、笹井先輩。昨日もこうして待ってたんだけど、お休みだったから待ちぼうけでしたよ。今日お会いできてよかった」
「……待ってんのは昨日から?」
「はい。」
「じゃ、牧村について聞きたいんだな。」
 かなでの名前を発音した瞬間、周囲の全ての人間が自分を見たのが誠にはわかった。そして同時に恐ろしい変化がすでに起きてしまったことも知った。
 つまり、この場所が、この会社がもはや、かなでにとっては安息の地ではなくなったことを。
 俺のせいだ、ととっさに思った。かなでが恐らくこの世で最も必要としている平和を、誠は彼女からあまりにもあっさりと奪ってしまったのだ。あんなに切なくて、あんなに悲しくて、あんなに可哀想なひとが自分の身を守るために纏っている最後の鎧を、俺は壊した。
 ──ずっとずっと寂しいわ
 かなでの言葉を思い出した途端、とてつもなく大きな感情が自分の身の上に降って来た。それは、今までのちっぽけで興味本位の恋などとは比べ物にならない、本物の血肉を携えた愛情だった。
 誠はいきなり悟った。昨日から胸に渦巻いていたものにつけるべき名前はこれだったのだ。かなでを、孝輔を、あおいを見ると泣きそうになる理由。彼等に何かしてあげたくて、しかしできなくて、悔しさに本気で叫び出しそうになる、その衝動の根本。
 愛って……と誠は真顔で考えた。
 愛ってこういうもんなのか。
「わかってるなら話は早いわ。先輩、彼女のことどう思ってるの?」
 安奈の挑戦的な声が誠を現実の情景に引き戻した。東京の医薬品会社の営業部。何年も何年も、膨大な時間をここで過ごしてきて、今や誠にとっては親しみを感じるほどになっている場所だ。
「惚れてるが。だから何?」
 それが何故か今、急速に色を失いはじめている。安奈の質問にほとんど上の空で答えながら、誠は周囲を見渡した。呆気にとられている同僚、そろそろ座れと苛立った視線を向けてくる上司。彼らはこの、整然と机の並べられたオフィスに居るべくして存在して居た。だが今、誠はそう感じられなかった。
 ここは自分の居るべき場所ではない、と強く思った。
「本当に惚れてるんだったらかなでに迷惑かけるべきじゃないと思うんですけど。それってあたしの個人的な考えですか?」
 アンナはどうやら怒っているらしいが、彼女の怒りを真正面から受け止めるつもりは誠にはなかったし、できもしない。ただかなでのことを想った。彼女のために口を開いた。
 今までにない熱いものが、胸の奥底にちらりと顔をのぞかせて光っているのがわかった。
「迷惑? ……何があったって言うんだ?」
「女の戦争よ。実に陰険な。美人でスタイルよくて頭のいい女が、社内で一番人気のある先輩をあっさり寝取ったってね。昨日からその噂で社内は持ちきりですよ」
「寝取った! ちょっと待てよ!」
 驚きに声が大きくなったが、言った後、誠は自分がそれほど驚いていないことに気がついた。昨日のかなでは彼女らしくなくヒステリックだったが、いまこうしてアンナがわざわざ自分の元にやってきてまで異議申し立てをしていることを考えると、成る程、かなりことは大きいらしい。
 色々、片付けなければいけないなと漠然と思った。
 自分がどの程度強いのか、あるいは弱いのか今のところはぜんぜんわからないが、それでもここから抜け出さなければならない。
 かなでに謝らなければ。
「何だその、古臭―い言い回しは? 俺とあいつは今のところ何でもないぞ、惚れてるのは俺の一方的感情だし」
「事実がそうだとしたって周りはそう思ってないんですよ。」
「お前はどう思ってんの?」 
「あ、あたしは、事実を確認したいだけです。」
「わざわざそんなことを言いににここまで来たわけ? お前も忙しいのに? お互い仕事をしなきゃいけないわけだし、まだ言いたい事があるなら後で時間作ってよ」
 営業部内で個人的な話はしたくない誠がそっけなく言うと、アンナは顔を真っ赤にして怒った。
「そんなこと?」
「だってそうだろ? かなでの話は俺とあいつの間の話であって、お前には関係ない。仮にお前がかなでの友達だとして俺に釘を差しに来たんだとしても、それってお前のエゴだろ。」
「エゴ」
「だと俺は思うけど? だって別に、かなでに頼まれたわけじゃないんだろう。余計なお世話ってやつじゃないのか。どっちにつけても、ここは会社だし、あんまり個人的な話はしたくない。塚本、戻った方がいいよ。」
「あたしは先輩のそういう態度が許せないだけよ! かなでに本気になるか、あるいは構わないであげてほしいだけよ! 全部かなでが好きだから言ってるのよ!」
 恥をかかされたアンナは叫んだ。彼女の目に涙が浮かんでいるのを見て誠は心底わけがわからず、思わずまじまじ眺めてしまったが、哀れみは感じられず、むしろひどく恥かしかった。
 他人と他人の間で決してほんとうに心が通じ合うことがないというのは悲しいことだな、と他人行儀に考える。親切にされてもそれが自分からずれた優しさだったとしたら、こうやってただ煩わしく思ってしまうだけなのだ。
 アンナはかなでを好きなのではなく、自分を好きなように誠は思えた。彼女がかなでとどれだけ仲がいいのか知らないが、少なくとも今アンナの眼に映っているかなでは社内でのかなでだ。誠と一悶着を起こした美人の社員。
 こいつは別にかなでが生きてきた人生とか、あいつの抱える圧倒的な孤独とか、そんなものはどうでもいいんだろう。俺が彼女を本気で好きになり始めてすごく戸惑っている、そういう心境なんか何も考えずに、ただ茶々を入れに来たんだ。
 友達を守る自分に酔いたいがため。
 体の中を閃光が走りぬけるように怒りが走った。誠は信じられないほど腹立たしく、気がつけば命令口調で目の前の後輩に言ってしまっていた。
「戻れ、塚本。」
「逃げるの? ほんとにそれでかなでを好きだって言えるんですか、先輩は?」
「お前だってそうだろ? 誰が正しくて誰かが間違ってるなんて、わからないよ。その人の心はその人にしか見えないんだから。牧村が決めることだ。あるいは俺とあいつが決めることだよ。塚本のそういう親切な部分は長所だと思う、だけど今は正直、介入してほしくない。」
「なっ」
「仕事させてくれ」
 そこでやっと誠は机に荷物を置いた。ブリーフケースとコートを投げて、ふところから携帯を取り上げる。唇を震わせてわなないているアンナ、じろじろと自分を見ている同僚たちの横をすり抜けると、そのまま廊下に出て実家に電話をかけた。
 心は見えるものじゃない。
 当たり前のことが今更わかった気がする。かなではきっと、そのことをずっと昔に気がついたのだ。だからあんなに寂しい眼をしているのだ。人間はどんんなに面倒でも自分をやめることはできないから、だから生きていくには強くなるしかないのだ。
 強く。そう、何よりも強く。
「もしもし、おふくろ?」
「誠? まあ、お前、全然連絡もしてこないで! どうしてたのよ!」
久方ぶりに耳にする母の声にじんと来ながらも、誠は急いで言葉を続けた。
「ごめん、今すっごい急いでてさ、用件だけ言わせて。また夜にゆっくり電話するから。あのさ、俺の机の中のもの」
「おまえの机? おまえの部屋の机のこと?」
「そう。その中の日記をね」
 すぐに送って欲しいんだ。
 言ってから誠は慌てて付け加えた。
「あ、もちろん、中身は読むなよ!」







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