Andante sostenuto




12




 藤原家第二棟でまるまる二晩を過ごしたあと、誠はようやく体調を治した。よく眠れたあとの温かく快い気分で起き上がり、顔を洗って、いつのまにかきちんと洗濯されていたスーツを身につけたが、ダイニングの方へ行ってみたところ英字の新聞や本やレポート用紙の海に溺れている孝輔の姿を発見してぎょっとなってしまった。机に伏せて事切れたように見えたのだ。
「コウくんっ!」
「はい、はい。大丈夫です、起きてるし生きてますから。徹夜明けなんでちょっとひどい顔してると思いますけど気にしないで下さいね。グッモーニン、笹井さん。いま何時っすか?」
 言いながら顔を上げた孝輔は、たしかに言葉どおり少しむくんで疲れた顔をしていたが元々美形なのであまり悪くは見えない。むしろせわしなく繰り返されるまばたきや、何度も頭をかきむしるせいで乱れた茶色っぽい髪がふだんより彼に躍動感を加えていて違う魅力さえ感じられた。なにがあった、と思いながら、誠は、今日は俺がコーヒーをいれてあげようと心に誓った。
「七時半だよ。」
「ひゃー、もうそんな時間かあ、デンジャラス!」
「何があったんだ、何が。どうした、コウくん。テンション高いぞ」
「いやー、それが。教授から電話かかってきていきなり課題増やされちゃって、マジ参ってんですよー。帰りが早まったし、クリスマスまでいられるかどうか。岡田の誕生日があるってのに」
「え、今月なの?」
「そうそう。あいつ、クリスマスの一日あと生まれなんですよ。デイ・アフター・クリスマス。」
「お祝いしなきゃなあ」
「喜びますよ。ってか、単語忘れた。なんだっけ。根本的な、って、英語だと何て言いましたっけ?」
「俺が知るわけないだろう」
「それもそうすね。なんだっけなー、イネッセンス、アトバタム、ファンダメンタ?」
 完全にトランス状態にあるらしい孝輔は、何か欲しいものでもあるのか、立ち上がって台所めざしふらふら歩いていったが、椅子や壁やカウンターにぶつかったりして危なっかしいことおびただしい。終いには床に根っころがっていた愛猫へスターの尻尾を踏んづけて、彼女の噛み付きによってようやく意識を現実に戻すことが出来たようだった。
「痛ッ! へスター、やめろ、マジやめろッ。ちぎれる、足ちぎれるっ。」
「あー、コウくん、何が欲しいの? コーヒー?」
 文字通り飛び上がってへスターの逆襲に苦悶する孝輔に、誠は声をかける。彼は猫から逃げるためばたばたと走り出しながら答えた。
「紅茶っす……ギャー!」
銀色のタヌキサイズ・キャットは忠実に主人を後を追いかけた。
「淹れて上げるよ、世話になってるし。」
「かたじけない。ってか誠さん、仕事は?」
 ソファの上に避難し、ようやく安心したらしく、孝輔は誠をはじめてまともに見た。普段は透き通っている綺麗な目が充血していて、誠はなんとなく、人間の数だけ人生と言うものは存在するんだな、と肌で学んだ。
 ネクタイをさっと締め、腕時計で時間を確かめると、キッチンへ立った。紅茶の缶を選びながら言う。
「これから行ってきます。コウくん、種類ありすぎてわかんないんだけど、紅茶ってどれ?」
「それ、全部紅茶です。俺は赤いのがいい」
「イングリッシュ・ブレックファスト? そういえばコウくん、さっき課題がどうとか行ってたけど、今大学生だろ。中学からってことはイギリス何年行ってるの?」
 指差された赤い缶を取り上げて蓋を開ける。さわやかな香りの茶葉を付近においてあったティーポットに入れると、ポットのお湯をなみなみと注いだ。
「えーと、正確に言うと大学院生に近いんですが。今年で十二年になります。干支が一周してしまった」
 ごくごく自然に答えた孝輔を、誠は初めて会う人物のように見た。
 十二年。
 誠が高校で野球に明け暮れていた日々に、彼は誰も知り合いがいない異国にひとり飛び込んで、自分たちが生まれた時から知っている言葉ではない別の言葉をしゃべって頑張っていたのだ。どれだけ、苦労しただろうか。寂しかっただろうか。
 そしてそういうときに向き合う自分自身という存在の、あまりの心細さに、何度彼は絶望したのだろうか。
「長い……ね。」
「そうですね。」
「色々あったかい」
「ありましたね。今もあるし。でも、楽しいから。それでいいんだと思う。俺にはこういう生活が合ってる。他を切り捨てても自分が欲しいものを追う。一長一短ってやつですか。全てを手に入れられるはずはないし、別に欲しくも無いですからね。それに、」
「それに?」
「色んな人と会えたから。俺はいまがうれしいな」
 ふあ、と眠そうにまた髪をかきあげて、孝輔は腰掛けていたソファにぱたりと沈み込んでしまった。彼はいつでも自然だな、と誠は内心悔しくなりながら思う。孝輔は、自分を知っているから、彼にとって無理なことはしないし、逆にできることはいくらでもやる。逃げないでいるということができる人間なのだ。
 きっとイギリスでも、コウくんはこのまま、今俺の前で寝転がっている彼のままでいられるんだろう。
 誠は考えて、熱い紅茶を白いマグに注ぎいれると年下の友の元へ運んでいったが、孝輔は既にうとうとし始めていたので、マグをソファの前のテーブルに置いて毛布をかけてやった。きれいな肌に長いまつげの影が落ち、美しくもあどけないような、見つめるとなにか胸にやわらかいものが満ちていく寝顔だ。
 伸び伸びとしたやわらかな感性に、それを真っ直ぐ支える勤勉さ、親しい人に見せるこの無防備な顔。
 かわいい子だ、としみじみ思い、誠はそんな自分に驚かされた。昨日、かなでのことを考えた時に感じたあのもどかしいほど強い感情が、また喉元にせりあがってくるのがわかったからだ。誠が知らない、名前のつけられない、一端それにとらわれてしまうと物事をまともに考えられなくなってしまうほど強い衝動。腹よりは胸を占拠し、熱いよりは温かい。切迫感があるが不快に感じられる類のものではなく、かわいそうとか、かわいいとか、そういう言葉に近いが、決して同じではないもの。
 牧村にも、コウくんにも、俺が共通して抱いている感情? 
 誠は考えたが、いかんせん慌しい出勤前の時間帯だった。ぐずぐずしていると遅刻してしまう、とコートを手にして立ち上がった。
 今朝は晴れているようだ。天井のはるか頭上、天窓からやわらかい白い光がこの清潔な家に差し込んでいる。電気のスイッチを切ってもあたりはほわりと明るかった。誠はもう一度振り返ると、わずかな休息に眼を閉じている孝輔を見やって、なんとなく呟いていた。
「ありがとうな。」
 腕を怪我して、あるいはよかったかもしれないと今初めて思えた。そのことによってかなでと出会い、孝輔とあおいと出会って、そして今までずっと眼を背け続けていたものを見つめる機会ができたのだから。
 人生を気楽に生きられないのは何故だろうかとずっと考えていたが、それはもしかしたら、こうして掛け替えのない、ほんとうに大切な人たちと、人生の中に潜む数少ない真実と、めぐりあうための代償なのかもしれない。涙も血も失望も狂気も、きっと必要なものなのだ。
 愛しいものが背中を押す。見守ってもらえている。
 今はまだ未来を想像することすらできないが、勇気を出したいと思った。
「誠さん」
「へあっ?」
 決意も新たに数歩歩き出した誠の背中に今ひとたび孝輔の声が届いた。振り返ると彼は寝ころがったまま、なにか大切なものを見るように眼を細めてこちらを見ていた。その視線が自分に向けられているものだと誠は最初ぴんと来なくて、思わず胸が痛くなってしまった。
「俺、ずっと考えてました。」
「……なにを?」
 孝輔の声は少し低めで、心の内にそっと触れるような感触がある。甘いといえばそうなのだが、ひっそりと神秘的でなにか秘密を打ち明けるような声なので、彼が口を開いた時には誠はいつも一心に耳そばだてる自分を感じていた。  
 この時もそうだった。
「起きてたの?」
「今、すっげーテンション変なんです。猛烈に眠かったりいきなり起きたり。気にしないで下さい。あのね、日誌。あなたのコーチの日誌」
 ずきっと腕がうずくのを感じて誠は表情を強張らせた。生傷に手を触れられるのはいい気分ではない。戦えと自分で自分を律する。嫌だ、と即答するのは弱い俺だ。立ち向かえ、怖い、黙れ!
 逃げるな! ひらけ、その臆病な心臓を!
「……日誌がどうしたって?」
 内心の葛藤を顔に出さないよう誠は粉骨砕身つくしたが、うまくいったとは言いがたい。孝輔が額の上に手のひらをかざし、パズルのピースを選ぶように、言葉を選び、紡いでいく。
「うん。あれ、いちど、取り寄せてみたら。きっと、案ずるより、ってやつだと思うんです。恨んだり、してないよ。大事な生徒だったんだ。子供みたいなものなんだから。心配してるだけだと思うんだよ」
「大事な生徒?」
 顔が熱くなるのがわかった。目頭も。
「誰が、誰の大事な生徒だって」
「もちろん誠さんが。あなたのコーチの」
「ありえねえよっ」
 弾かれるように叫んだ誠を、孝輔はまっすぐ見返す。
「なぜ?」
「俺、あの人を殺した。失望させた。野球やめたし、今は何もしていないし、墓参りもしてないし、当時だって散々ガンコ親父だの石頭だの悪口言ってたし、嫌いだった。大っきらいだったんだ」
「だったらなんでそんな動揺するんですか。認めていいのに。大丈夫だよ。あなたは愛されてるから」
「っ」
「誰にも、どうしようもなかったんだよ。あなたのせいじゃないんだよ。人は誰でもいつか死ぬ。だけど誰かが誰かの命を操作できるようなことって、ありえないんだよ。歪んだ人々が罪深い事件をボロボロ起こしてるけど、あなたはそんなひとじゃない。まっすぐなだけだろ。だからそんなに辛そうな顔をしてるんだろう」
 孝輔は憑かれたようにすらすらと喋った。その若さが、育ちの良さが、柔らかな色の眼に常に陽炎のように揺れている不安が言わせているのだとしても、彼の言葉はいま誠にとって一番欲しいものの塊だった。許し。
祈ってさえいない俺が、光を与えられていいはずがないのに。
ぼろぼろこぼれる涙を感じ、誠は奥歯を音が出るほど噛み締めた。

「できてない」
 同僚アンナによる「笹井先輩とできてるのか」発言に対し、かなでが提示した答えはそのようにシンプルなものだった。
「だったらなんで欠席連絡なんて!」
 まくしたてるアンナは女性らしく丸みのある、グラマーで気持ちのいい女だが、如何せん化粧がきつい。化粧映えする美しい顔立ちをしているからまあ見苦しくはないのだが、目前十センチまで近づかれるとそのアイラインやマスカラの濃さに少々驚かされる。かなでは彼女を両手で押し戻しながら思い切りふかくため息を吐いた。
「笹井さん、風邪でバタンキューだったのよ、昨日。あたしたちって共通の友人がいるんだけどさ、その人の家に泊まって、朝起きたら、風邪ひいてたの。ほぼ死んでたのよ、あたしが連絡してあげるしかなかったの。」
「泊まったってことは、やっちゃったの?」
「アンナ、始めに言ったわ。できてないって。友達の家でそんなことするわけないでしょう? それに彼、弱ってる。すごく疲れてるし、あたしもよ。お互いに好意を抱いてたとしたって、今はたぶん、隣で眠ってもなにも起こらないと言い切れる状況にあるわ。」
「“好意を抱いてたとしたって“? 先輩が好きなの、かなで。」
「そうみたいね。しかも、ひどく切実に」
 うんざりした気分でかなでは認めた。着替えさせて、とアンナに断ってロッカーを開き、ロイヤルブルーのコートを脱ぐ。会社の女の子たちと元から反りの合わないかなでは、いつも人より少し早いこの時間に出社してひとり静かに着替えている。アンナはそのことを知っているからこそ待ち伏せしていたのだ。
辺りには誰もおらず、ロッカールームはしんと静まり返っている。
「これでロッカーの中に誰かひそんでました、とかいったらホラーね。」
 想像してくくっとかなでは笑ったが、パンツスーツの友はさっきの話題を続けたがっていた。
「すっごい疲れた顔してるわよ、かなで。本気なのね」
「事務員の疲れなんて、営業の人のそれに比べたら小鳥のエサみたいなもんよ。アンナこそまた痩せたんじゃない?」
「そうね。量ってないけど、たぶん痩せた。じゃなくて、あたしが言いたいのは、精神的な疲れのことよ。かなで、逃げないの」
 たぶん、毎日の営業回りで喉を酷使しているのだろう、ななめ後から聞こえてくるアンナの声はかすれている。入社してから五キロも痩せてしまったほどの激務をこなしているくせに、こうやって他人を思いやることのできる彼女は美しい。
 あたしは友達には恵まれているわ。
かなでは思いついた真実に、だいぶ救われた心地になった。
「そうね……ええ、あたしは疲れてるわ。でも、別に恋愛のためだけじゃないわよ。それはわかってね、アンナ。」
「わかるわ。あんたが恋愛だけにかまけてるタイプの女じゃないってことはよく知ってるし、そういう女を嫌ってることも知ってる。そして、それはあたしもそうなのよ、かなで。」
 かなではふいに、アンナが何故ここで自分を待ち伏せていたのか予想がついた。だから聞いてみた。スカートのジップを上げ、ベストを羽織る。
「社内の女の子たちの話、聞いたの?」
「聞いたもなにも、すごいわよ。笹井誠を王子様と呼んでいた人々すべてがあんたを恨んでると思う。黒いオーラがびしびし社内から伝わってくるもの。あんた、やばいよかなで。そんなクールな顔していられるのも今のうちよ」
「やっぱりそうよね? 面倒くさいことこの上ないわ。やめちゃおうかな、仕事。」
「いいと思うよ。あんたなら、できるんじゃないかな。あたしはこう見えて弱虫だからさ、仕事っていうわかりやすい安定を手放すことはできないけど、かなではきっと、他にできることがあるでしょ。その体に染み付いてることっていうか。才能……ちがう、センス。ねえ、前に一度だけ話してくれたじゃん、前に別の仕事してたって」
「あたしが一番欲しいものは平和よ、アンナ。」
 ばん、とロッカーの扉を閉めてかなでは言った。さほど乱暴にしたつもりはないのに、静かなロッカールームにその音は妙にきつく響いてしまい困惑した。ごめんと咄嗟にアンナを振り返ると、彼女の濃い化粧にふちどられた強い眼──いや、本当は男性に馬鹿にされないようにと鎧を纏っているだけのその愛らしい眼──は、傷ついたように蒼くちいさく光っていたので驚いてしまった。
「アンナ?」
「かなでは、こんな状況になっても自分のことを解放しないのね。」
「解放?」
 しゅう、と音を立ててアンナからなにかが発散されはじめたのを、かなでは肌で感じ取った。それは怒りだった。とても弱々しく、友情を含んではいるが、それでも触れると心を黒く焼くような、そんな剥き出しの嫉妬にまみれた女性的な怒りだった。
 アンナは唇を噛んで視線をしばらく落としていたが、やがて思い切ったようにきっとかなでを見た。その視線のあまりの強さにかなでは当惑してしまった。
「何も話してくれないし、自分を押し殺してる。かなで、こう言うことを言うのはすごく嫌だし、あたしはあんたを好きだけど、でも、正直社員の子たちの気持ちはわかる。めちゃくちゃよくわかる。かなでは勿体無いのよ。こんな小さい場所にいるような女じゃないのよ。ねえ、知ってた? あんた、事務員の中でも仕事はやいし、飲み込みいいから、他部署から引き抜きの話が出たこと、何度もあるのよ。だけど事務課長が許さなかったの。それに社内での話なんかじゃなくても、あんた美人じゃない。スタイルいいし、抜群にお洒落じゃない。モデルだって間違いなくやれるし、それに何か休み時間には英語の本を辞書なしで平然と読んでたりするし、一緒に美術館行った時は妙に芸術関係についても詳しいし、頭いい。とにかく、勿体無いのよ。あんた、同姓から嫉妬受けやすいのよ。だって何もかも持ってる。ねえ、かなではどこから来たの? 誰の子供なの?」
「あたしが何もかも持ってるなんて、どうして言えるの。」
 他にも言いたいことは山ほどあったが、それを言葉として順序だてて口にし、アンナを納得させるような芸当は、今のかなでにとっては不可能に近いことだった。目の前のアンナの姿が急にはっきり見えなくなる。見ようとしないからだ。かなでは今、世界から眼を背け始めていた。これまでよりずっと絶望的な深度で、急激に。
「もう行くわ……アンナ。」
「かなで、今の、悪口じゃないのよ。ただあたしは、あんたに自分を解放してほしいだけなの。」
 解放ですって? 
 かなでは内心せせら笑った。なんのために?
 よく伸びた長い手足で挑発的な衣装を着るため? 艶やかな髪を男の鼻先で香らせるため? 基礎英語をもっと生かせる仕事につくため? 服なんて、多少の仕事の腕なんて、そんな下らない、ちょっと死ぬ気になればいくらでもどうにでもできる装飾品のたぐいが、この人生に、歩んできた道に、血を吐きながら選んだものに、それらに直結すると彼女らは本気で思っているというのか。
 自分を解放するということは、ほんとうにどうなってもいいと決意することだ。アンナは知らない。かなでがかなでの全てを解放するとこの世界から消えていなくなると言うことを。全てから逃げ出すと言うことを。
 わたしにとっての解放は、世界を呪うことと同義よ!
「考えとくわ。ご忠告ありがとう、本当によ。アンナ」
 冷たく笑うとかなではかつかつと足音高く、ロッカールームを出て行った。

 仕事をしている間ずっと、オフィスの窓から外を見ていた。
 空が高い。晴れていて澄んでいる。豊かな雲がまぶしく青を覆い、とても早く一定の方向へ流れていた。
 かなでは空を飛びたいとは思わない。ただ、そのなかに包まれて、自分も青へ溶け込んで、に眠れたらいいなと願う。しかしそれは許されない。同じように、海に溶けることはできない。人にはできることよりできないことのほうが圧倒的に多いから、だからなにかに恋をするのだ。あるいは人に、あるいは花に、あるいは金に、食に、山に。慕う気持ちというのはあまりに大きくて切ないから、それが時折有り余るエネルギーにねじまがり、今回のアンナのように暴力に変化させてしまうこともある。かなでは一向に構わない。彼女を恨んだり、嫌ったり、友達をやめたり、そんなことはしない。
 だって、彼女はきっと正しい。わかる。アンナがかなでを羨んでいるのなら、かなでもまた彼女のことが羨ましいのだ。その健全な生き方、彼女がよく話題にする生身の両親、兄弟、親戚。恋の話。
 二度とは取り戻せないものがあるから、かなではもう振り返れないのだ。いや、振り返っても、それはただの影にしかすぎない思い出だから、どんなにまばゆく母が目の前で笑っても、彼女と父が仲むつまじく肩を並べていても、かつての家の庭で花が揺れていても、触れない。つかめない。過去は動かないが、かなでが今立っている現実という側の岸辺は常に動きつづけている。
 解放というアンナの言葉が頭の中をめぐる。舞姫の纏う綾衣のようにかなでの心を絡めとり、魅惑して、浮世から眼を背けさせる。
 解放、逃走、この日々からの逸脱。
 いいかもしれない、とかなでは胸に大輪の黒い花が花開くのを感じた。
 逃げてしまおうか。




BACK/NEXT 



2style.net