Andante sostenuto




11



 笹井誠さんはひどい風邪のためお休みするそうです。
 そう営業部の部長に告げた途端、社内でシンデレラも真っ青な扱いを受けるようになってしまったかなでだったが、自分のことより誠の容体を心配して今日一日を乗り切った。息せき切って藤原家(第二棟)に戻り、誠が今朝方真っ赤な顔をして寝ていた居間に飛び込む。
 するとそこには、床に転がって猫と戯れている誠の姿があった。壁にかけられた大きな液晶テレビでは映画『陽の当たる場所』が再生されており、孝輔がソファに腰掛けて熱心に見ていた。かなでを見て彼は「おかえり」と笑う。
「……なにやってんの?」
 孝輔にまずただいま、と答えてから、かなでは誠を見下ろした。全力疾走したせいで燃え滾っている体の熱が一気に冷めていくのを感じた。彼は明らかに上機嫌だったが、具合はまだ悪そうだった。寝転がったまま起き上がらない。腹の上に載せている銀色の大きな猫はたしか孝輔の愛猫で、ヘスターとか言った。
 誠はかなでを認めて、おお、と言った。
「おかえり。なにって、見ればわかるだろ。有閑倶楽部だよ、有閑。」
「あたしの記憶が正しければ、N薬品の王子様である笹井誠さんは今朝風邪をひいて寝込んでたんじゃなかったかしらね?」
「具合はまだ悪いよ……って、痛っ!」
 予告無く脇腹に蹴りを入れてやると、誠はもんどり打った。へスターが飛び退り、鋭い牙がびっしり生えた口を開いて凶暴な鳴き声を上げる。呼び寄せられるようにして、「何? 何!」とあおいが部屋に飛び込んできた。ヴァイオリンの練習をしていたらしく、片手に楽器と弓を携えている。
「この馬鹿! 阿呆! 何やってんのよ! あたしがどんだけ心配したと思ってんの!?」
「かなでちゃんストップ!! 死ぬ、笹井さん死んじゃう!」
「いい、いっそ殺す」
「酷ッ。かなでさん、マジ駄目だって! 笹井さんは風邪なんだよ、こう見えて一応。」
「風邪がなによ、だったらどーしてこんな風にぐうたらしちゃってんのよ。腹立たしい、人の気持ちも知らないでっ」
 あおい、孝輔と続けて止めに入ってきたが、かなでは誠を苛む手足を止めなかった。喉元に凶暴な感情がこみあげてきて堪えられないのだ。かなしくて辛かった。伝わっていないと思った。
 誠は、この馬鹿は、かなでがどんなに切実な、ぎりぎりのラインで彼への恋心を抱いているか、なんにもわかってはいないのだ! それのもたらすありとあらゆるリスクによって、かなでは今、いつ弾け飛んでしまっておもおかしくない状況に陥っているというのに、彼は自分のことしか考えていない。
 やさしくして、そのぶん自分もやさしくされたい。
 かなではそう願っている。女としてではなく、人間としてでもなく、ただの一個の、みじめに傷ついた自分として。
だから誠の、このあまりに身勝手な態度が許しがたかった。 
「まきむら。どうしたんだよ、そんなに怒って」
「わかんないなら聞かないでよ。この愚鈍。馬鹿じゃないの? 家に帰って寝なさいよ」
「うわー」
 すげえ、と孝輔が呟いた。その隣であおいがうなづいている姿も見えたが、かなでは意に返さなかった。ただ自分の目の前で誠が眼をぱちくりさせているのをにらみつけていた。彼は、さすがに歳のせいなのか、あるいは元々そういう性質なのか、簡単には怒らない。唇をぽかんと開き、しばらく何か言葉をさがしていたが、やがていきなり表情を引き締めてこう言った。
「ごめん。やっぱり会社の奴等になんか言われたな。」
 かなでは眉をひそめた。妙なところでだけ勘がいいというか、気がつく男だ。
「……言われなかったと言ったら嘘になるわね。ええ。言われた。だけどしょうがないでしょ、赤の他人であるあたしが、いきなり笹井さんは今日風邪だからお休みです、とか伝えたのよ。誰だって色々想像しちゃうじゃない」
「だから怒ってんのか? ごめん、俺のせいで迷惑かけた。あやまるよ」
「謝ってほしいわけじゃないのよ、このうすら馬鹿!」
 もういちど絶叫した、かなでは眼に涙が浮かぶのを感じた。ひとつの、あまりに切実な感情がいきなり心を占拠して、困惑していた。
 けっきょく、どこまでいってもあたしは独りなのよ!
それは以前からずっとかなでにとって近しいものではあったが、このように激しく丈高い姿をして自分を食べようとしたことはなかった。変化の理由はわかっている。他でもない、誠のせいだ。
こんな男、好きにならなければ良かった。
はあっと息を荒く乱しながら目元をぬぐい、顔を背けるようにしてあおいの方を振り返る。
「あおい」
「何?」
「あたし先に帰るから」
「え、えーっ? 待ってよかなでちゃん!」
 眼をむく友の、そのわきには動物のように一途でやさしい眼をした恋人がいる。この時にはすでにかなでは自分が落ち込んでいることに気がついていたので、ごめんも言わずに玄関へ出戻った。
孝輔はかなでと初めて出会った晩、あおいについてこう言っていた。
 うーん、恋人以前に、最高の友達で、最高の理解者って感じ、かな。世界でいちばん俺のことを応援してくれてる人。願わくば、俺も彼女にとってそうあれればいいんだけど。
 隣に誰かがいるというのが必ずしも孤独を癒す結果を生み出すわけではない。むしろ傷みを倍増させてお互いを腐らせるケースの方が多いだろう。しかしかなでの見てきた多くのペアのなかで、あおいと孝輔は本物だった。いたずらにベタベタくっつきあって怠惰な空気を味わうでもなく、冷たくし合ってスリルのある距離感を楽しむでもなく、互いがしたいことを施しあっている。もちろん彼らの中には彼らしか知らないリアルな問題が山ほどあるに違いないが、かなではそれでもあおいとコウが羨ましかった。
 ねたましかった。
「かなでさんっ」
「かなでちゃん!」
「送りはいらない、近いし。歩いて帰れる」
「そーゆー意味じゃなくて、どうしたの。すごく寂しそうだよ。放っておけないよ」
 藤原家第二棟は街のすこし高台に位置していて、その室内からでも室外でも、きらめく夜の風景を眼下に一望できる。ざっと冬の風が自分の長い髪を吹き散らすのを感じながら、かなではふかく、深く息を吸い込んだ。あまりによく冷えた澄んだ空気に肺が凍結しそうになる。薄着で飛び出してきたために寒そうなあおいを両腕の中に抱き込んで、かなでは「あーあ」と声を上げた。
「あんた達はいいわねえ。お互いにお互いがいちばん素敵な相手って感じ。いいわよ。実力がつりあってるから、退屈しないでずっと成長し合えると思う」
「……こうなるまで楽じゃなかったんだよ。」
 腕の中でもごもごしながらあおいが言う。彼女のきゃしゃな手が背中に回ってくるやさしい感覚に、かなではほっと息を吐いた。
「ええ。そうね。ごめんね、嫌な気持ちにさせたら。あたし今、すごく卑屈になってるの。笹井さんのことなんて好きにならなければよかったのに」
「どうして? いいじゃん笹井さん。真面目でしゃれててちょっと幼くて馬鹿でさ。実に人間くさい魅力があると思うけど」
 孝輔はパーカーのジップを襟元まで引き上げながら言った。ネルシャツに細身のジーンズ、スニーカーという極カジュアルな服装をしていても上品で、かなでは、彼が、そのたたずまい故に受け入れられなかった可能性のあるさまざまな世界を想像した。そしてやっぱり何となく自分たちは似ているのかなと思った。
 胸に蒼くつめたい湖が横たわっているような、このどうしようもない孤独感は消せなかったが、人間という生き物は常に独りなのだと、彼もあおいもちゃんと知っている種類の人間なのだ。
 だから、一緒にいると、こんなに泣きたい気分になる。
「魅力があるのを自覚してないところが笹井さんの腹立つところよ。女好き女好きって言ってるくせに、頭の軽い女のあしらい方しか知らないんだわ。あたしだってそこまで頭良いわけじゃないけど、だけど少なくとも、恋愛を全ての価値観の中心に置けるほどしあわせで可愛い女じゃないってことは自覚してるの。ああ、腹立つ。」
「笹井さんにあしらわれたかったのか、かなでさんは。」
「コウくん」
「うそ、ごめん。じゃなくて、笹井さん、一杯一杯なんだと思うよ。今は自分のことがとにかくショックで、どうしていいかわからないんだと思う。かなでさんのことは大事にしたがっていると、俺は思うけどな。」
「あいつが? どこをどう見たらそう思えるの?」
 孝輔の吐く息が白く夜空に昇っていくのを見ながら、かなでは思い切り驚いた。彼がくつくつと笑った拍子、綺麗な歯並びがちらりと見えた。
「わかるもんだよ。色眼鏡なしで見てればね。」
「うん、わかるものだね。私もそう思うもん」
 あおいが腕から逃れてそう言った。今日の彼女は髪を高い位置でひとつにまとめいるために、普段は隠れている首筋の白さが際立った。闇にひときわ映えるその光るような肌にかなでは一瞬見惚れ、こういう無意識の間のようなものがあおいの魅力だ、と考えた。
 帰ろうか。彼女が言うと、その言葉の先にはかならず温かく灯りのともった家が見える。
「すこし歩かない?」
「そうね。コウくんは?」
「お供させていただこう。誠さんは多分、放っておいて大丈夫だよ。すこし独りにさせてあげる時間も必要だと思う。」
「うん、ああいう人ってきっと、ふだんは忙しすぎて自分と向き合うってことをあんまりしないだろうからね。あるいはわざとやっていないのかもしれないけど」
「面倒だから?」
「ううん、向き合いたくないぐらい、嫌な自分を自分の中に持ってるということ。……かなでちゃんは、知らないの? 誠さんと、かつての誠さんのコーチのお話」 
そして三人で坂道を下り始めた。冬の大気はあたたかい、とかなでは思う。無論それそのものに温度があるわけではなく、対比によって浮き彫りになる人間や命の存在に生の手触りを感じるのだ。かなでは今まで生きてきた人生の中、夏よりも冬に出会った人間との方が親しくしている気がする。
 この冷たさの中で唐突に知り合い、満天の星空の元、この上なく鋭敏な心持になりながら、それぞれの心にさわるからだ。
「コーチ。名前だけ、前に聞いたわ。」
「彼の、高校時代の恩師だって。誠さんが野球をやめた後、脳溢血で亡くなったとか。」
「……初耳。」
 かなでは息を止めて言ったが、それとほぼ同時に、ああならばあの落ち込み方も説明がつくわと納得した。
「ほんとう? ああ、でも、言いたくなかったのかもね。男の子って見栄っ張りだし、あんまり自分のことは喋らないからね。」
 かなでの隣を歩きながら、あおいはすこし後方を守るように歩いている孝輔を振り向いた。彼は顔をしかめて答えた。
「耳が痛いぞ、岡田。」
「事実でしょう、藤原くん。でね、かなでちゃん。誠さんはそれで今、すごく落ち込んでるみたいよ」
「あいつも死を経験してるのか……。なんか、嫌だなあ。誰しもが経験することだとしても、自分に血をわけてくれた人たちがいなくなってしまうのは、絶対あたりまえのことじゃないと思うもの。だからあんなに自暴自棄なの?」
「そうみたい。コーチは俺のせいで死んだ、って。はっきり言ってたもん」
「馬鹿ね」
 ぽつりと呟いた自分の声があまりにもやさしいことにかなでは驚かされた。誠を想うといつもそうだ。彼はあまりにストレートで、加減や打算を知らない馬鹿な男なものだから、ついつい見守ってやりたくなってしまうのだ。そのことで自分が更にぐったりしてしまうとしても、恋とはそういうものなので、止めることができない。面倒くさい、とかなでは暗澹たる気持ちで考えた。
 もうやめたい。
「かなでさん、会社でなにかあった?」
孝輔の発言はいつだってタイミングよく的確だ。かなでは苦笑しざるをえなかった。
「あったのよ、それが。シンデレラもびっくりよ、完全無視。話し掛けられないし、話してくれないし。まああたしは元々無口だからその部分はあんまり問題ないんだけどね。他にもいろいろ。」
「社会人っていっても以外と子供なんだな。俺からすると信じられない気もするけど」
「社会人というより、一個の人間として幼すぎるよ! 何ソレ、無視? 中学生じゃないんだから。」
「しょうがないんじゃない? あの人たちにとっては会社が全ての世界なんだから」
 車が一台、カーブを曲がって通り過ぎていった。ネイビーのオデッセイ。車欲しいな、とかなでは唐突に思いついた。中古でいいから欲しい。思うままに飛ばして、海に行きたい。無数のひかりをまたたかせ、鼻の奥につんと温かいものが染みるようなきれいな海だけを視界に入れたい。規則的な波音はわたしから嫌な思考を流し去ってくれるだろう。わたしは再び、以前の静かな生活に戻れるだろう。
 最近、あまりに多くのことがありすぎた。
「じゃあね、コウくん。ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。誠さんに伝言ある? 伝えとくよ」
 やがてたどり着いた岡田家の門の前で、孝輔がそう笑った。かなではしばらく考えたが、心にたまったコールタールの如き黒い濁った感情が、思いも寄らぬ言葉を彼女に吐かせた。
「死んでやるって言っておいて。」
「マジで?」
 見開かれた薄茶の瞳はその言葉が本心だと悟っているように見えたので、自分自身の発言の暗さに気付き、遅ればせながらぞっとしてしまった。笑ってごまかす。
「もちろん、ジョークよ。」
「だよ、ね。びっくりした。悪い冗談だな、もう。気をつけてよ。」
「うん。ありがとう」
「岡田も気をつけてな」
「はいはい。またお邪魔するね」
「おう、いつでもこい。」
 そしてひらりと身を翻して孝輔は帰っていき、その夜は無事に終わったかと思われた。しかしそうではなかった!

 かなでは夜が更ければ更けるほど、自分の心が重い氷に閉ざされていくような心持がしていた。脈が速く頭が痛い。眠れない。母の死、親戚の死、あおいの父の死、誠のコーチの死。自分の周りは死、死、死ばかりだ。生きている限りは絶対に知ることができないはずの存在が、何故自分にはこんなにも近いのか。藍色の絹のようななめらかな触手が顎をすくい、絡み付いてくる。かなでは、怯えてはいなかったが、ただ面倒だと思っていた。
誠の過去を聞いたことは、上乗せだ。彼の人生は彼の人生であって、そこに関してはかなではあまり興味はない。無論彼がいま現在目の前で暗い顔をしていることは全身全霊をなげうってどうにかしてやりたいと愚かにも思ってしまうが、彼が以前に死を経験しているということ、それ自体よりも、かなでは本日会社で自分が受けた仕打ちが気になる。
 醜聞と嫌がらせ。
 人にわざと嫌なことをして自分のうっぷんを晴らそうという、かなでからすれば考え出すのも難しいようなそういうことを、社内の女の子たちは自分にしたのだ。その行動自体にも驚かされたが、もっと驚いたのは自分と誠の噂が社内に回りきるまでにかかった時間だった。かなでは朝出社してすぐに誠の欠席を上司に知らせたのだが、そのあと、どう遅く見積もっても昼までには全社員に噂が回りきっていたと思う。でなければ自分が廊下を歩くだけで指指されたり、ロッカーの鍵がこじ開けられて中にゴミが突っ込まれていたり、昼食を取るため下りていった食堂にて、誠のファンだという女の子たちに取り囲まれて泣かれてしまったりする筈がない。
 彼女たちはかなでのことをずるい人、と何度も言った。誠先輩の弱みにつけこんで奪うなんてやり方が卑怯すぎる、と。先輩を好きな人はたくさんいるんです、牧村さんだけが抜け駆けする権利はありません。
 べつにあたし、笹井先輩とそういう関係になったわけじゃあありませんけれど。
結果として彼女たちをエスカレートさせただけだったので、やめておけばよかったのだが、かなではその時あまりにムッときたのでそう言ってしまっていた。
 それに、例えそういう関係になっていたとしても、それは笹井先輩とあたしの間の問題であって、あなた方に牽制されるような問題では絶対にないと思いますが。
 彼女たちが、誠と自分の間に流れる感情を、あるいはそれぞれに抱くものを知りえるはずはない。
 彼女らにとっての日々はただの背景であって、主役はあくまで自分たちだ。彼女らは常になにかを与えられた、箱庭の中を歌いながら踊って、そこから出ようとなど考えもせず、やがてそれぞれにふさわしいと思える相手を見つけてちいさな家を設けるのだ。かなでのように全てを自らで勝ち取り、選び、進んでいく生き方など知らないし、知ったとしてもそれを望みはしないだろう。
 誠だって、あるいはかなでよりは彼女たちに近いかもしれないが、だけど彼は一生懸命なのだ。何かを死ぬほど好きになって、そのために苦しむことをいとわない奴なのだ。
 それなのに、それなのに。彼女たちは、ああ! 
 思い出すとかなでは叫び出しそうになって、思わず枕に頭を埋めて声を殺していた。ひどいセリフが、さも今言われたかのように頭の内側からうわんうわん鳴り響いていた。
 ちょっときれいだからって、クールぶるのはやめてください! それに、その言い方、もう認めてるじゃない。先輩を奪ったんだって。社長にも同じ手口でせまったんですか? おんなじように、寝取ったんですか?
「言い方が古いのよ、まったく。」
 これも本日目を見開いて驚いた事項のひとつだが、彼女たちはかなでが中途で入社できたのを社長につけこんだからだと本気で信じていた。
 暗い怒りが体の中を満たしていき、発作が静まると、やがてみじめな沈黙が降って来た。かなでは、暗い部屋の中でふとんにうつぶせながら息を吸っては吐き、吸っては吐いてこのどうしようもない時間が過ぎるのを待っていたが、やがて唐突に起き上がった。お茶を飲もう。熱い紅茶をいっぱい飲んだら、きっと眠れる。
 あおいが、前、言ってた。カモミールティがあるから飲んでねって。
 それを台所から拝借しよう、とスリッパを履いて部屋を出て行く。もうとっくに真夜中だし、他人の家だしで一歩足を踏み出すごとに緊張したが、岡田母子は完全に寝静まっているようだった。薄い闇のもやに満たされた廊下からは何の音もしない。少しほっとして階下への階段を降りていったかなでだったが、リビングからやわらかなあかりが漏れているのに気がついておや、と思った。
「初美さん?」
「あら。どうしたの、かなでちゃん」
 あたたかそうな寝巻きに身を包んだ初美がカーディガンを羽織り、テーブルでお茶を飲んでいるところだった。かなでの母も存命中はよく夜に起きてきては酒なりお茶なりを飲んでいたので、かなでは瞬間、凶暴なほどのなつかしさに呑み込まれた。
 妙な間が生まれてしまい、初美がもう一度かなでちゃん? と呼んでくる。かなでは慌てて答えた。
「眠れなくて……」
「あら、私もなのよ。お茶、のむ? カモミールだけど」
「あ、それを飲みたいと思ってたんです。よろしければ、頂いてもいいですか?」
「もちろんよ。」
 そうして初美が台所へ入っていった後、かなでは部屋にごく小さなボリュームで音楽が流れているのを聴き取った。アヴェ・ヴェルム・コルプス。
 賛美歌だ。
「きれいですね。」
 思わず、心から言うと、初美はカモミールティが入ったカップをかなでの目の前に置きながらうれしそうに眼を細めた。熱いあまい香りが鼻の奥まで染みてくる。
「モーツァルト、お好きなんですか?」
「あら、さすがね。そう、この曲、好きなのよねえ。今日みたいに怖くて眠れない夜に聞くと、落ち着くわ。やさしい曲で」
 起きてこなければ良かった、と今更かなでは後悔しはじめた。初美の発言のいちいちが、母に似ている。かなでの母、ではなく、恐らく世界中の母が持っているのであろう何気ない“母らしさ”、それによって形成されたイメージとしての母に、初美はとてもよく当てはまっているのだ。
 そしてかなではそれに耐えられない。胸が、痛い。眼が乾く。頭が締め付けられて意識が遠くなり、そこに二度と会えない人の残像が揺れる。
 かなで。何か弾いて。
 ……死にそう、ほんとうに死にそうだわ。
 自分の中の生命力が枯れ果てて、流れなくなってしまっている、と感じながらかなでは黙りこくった。あまりに潤いが足りないため、体がかちかちに乾いてしまい、後すこし負荷をかけられたら粉々に砕け散ってしまいそうだ。あの、かなで自身が打ち砕いた哀れな窓とウィスキーのように。
「眠れないといろいろ考えちゃって辛いわね。」
「ほんと、ですね。」
「かなでちゃん、明日から十二月だって、知ってた?」
「え、あ? ホントだ! 知りませんでした、気がつかなかった。ここのところ忙しかったから、暦なんて見る暇なかった。」
「あなたもあおいも、可愛そうな子ね。」
「え?」
「そんなに若くて、そんなに頼りない細い手足をしているのに。自分で生きていくしかないのね。まだ若いし、未来は果てしないから、きっと重く感じることもあるでしょう。あかるく感じることもあるでしょう。わたしは夫をなくしたけど、ある程度までは連れ添ったし、子供も生まれたから、さほど孤独ではないわ。だけどあなたたちはねえ……ごめんなさいね。親の義務は、子供を守ることなのにねえ」
 かなでは息を吸い込んでいた。思いもかけぬ言葉に涙が出そうだったが、反射的にこらえて元気を装う自分がいる。できるなら、優しくしないで下さいと言いたかった。優しくされるとこの世界に未練ができて、離れられなくなってしまう、自分をまともに保とうとして、壊れてしまえなくなるから。
そうするとまた、孤独と戦う人生に飛び込んでいかなければいかなくなるから。
「いい恋人を見つけて、結婚するのよ。かなでちゃん」
「あおいには……そのこと言いました?」
「言ったわよ、散々。そうしたら孝輔くんが出てきたからね、言葉は呪文だわ。だからあなたにも呪文をかけてあげる。素敵な彼氏を見つけて、幸せな家路を持ちなさい」
「初美さんが言うと、ほんとうになりそうですね。」
「勿論よ。これは確率百パーセント。何しろ生き証人がいるんだから」
「儲けられますよ。女の子に受けるんじゃないかな」
 声を立てて笑ってみせると、初美はその笑顔を信用したようだった。後ろめたくなる。こんなに優しくしてもらっているのに、こんな風に腹の中はどろどろなどと、ほぼ裏切りだ。反逆罪と言えるだろう。
 私には何故こんなにも何も届かないのだろう。なぜこの人の無条件の愛情に、今まであった嫌なこと全てを忘れて、心から笑うこと、あるいは泣くことができないのだろう。人間として嫌らしい、と自分のことを嫌悪した。
いつのまにこんな風に成長したの?
「おやすみなさい、初美さん。お茶、おいしかったです。」
「どういたしまして。おやすみ、かなでちゃん。」
「おやすみなさい」
 カモミールティの効能もむなしく、結局その晩は一睡もできなかった。
目の下にクマを作りながら出社した翌朝、かなではロッカーにて待ち伏せしていた同僚につかまった。社内で唯一無二の友人、営業二課に属する彼女は言った。
「かなで! ちょっと、笹井先輩とできてるって本当なのッ?」
 もう嫌だ、と本気で考え出したのはこの瞬間からだった。
 










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