Andante sostenuto




10 



 しとしとと、痛みを匂い立たせるように雨が降る。
 薄暗い他人の家で迎える朝、誠はわかりはじめていた。自分はコーチにずっと謝りたかったのだ。あの夏の日のこともこの冬のことも、全て話して、彼の眼を見て言いたかった。ごめんなさいと。ありがとうございましたと。
 しかし彼はもういない。
「熱がありますね」
 額につめたい感触があった。誠は熱でまっかに染められたまぶたを押し上げ、うっとりと息を吐き出す。体中が溶けそうに熱かった。まるで全ての細胞が燃えているようだ。
 やめろ、と心の内で叫ぶ。俺の命よ、燃えてくれるな。減ってくれるな。ほんとうに生命力が必要な土壇場は、これから始まる予定なのだから。
「おはようございます、笹井さん。」
「牧村?」
 熱のせいで視界が利かず、誠は眼前で揺れる長い髪をかなでのものだと思い違えた。だが実際はもちろん違う。
 かなでの声はアルトで甘いが、今目の前にいるこの娘の声は輝くようなソプラノだ。歌のような響きの奥にやさしい笑顔と思いやりが流れている。人の心を瞬時に解き放つような声だった。
「違います。あおいです。ごめんなさい、かなでちゃんはもう出かけてしまったの。ここは寒いから、毛布を探してきますね。何か食べたいものとかありますか?」
「きみは誰? 牧村はどこ?」
「一度お家に帰りました。出社前に支度しなきゃいけないからって。わたしはかなでちゃんと藤原君の友達です。岡田あおい。覚えてくださいね」
「あおいちゃん」
「そう。じっとしていてくださいね。今のあなたには休息が必要なんです」
 そしてあおいの手のひらが視界を覆い、誠は再び眠りの中へと落とされた。ゆっくりと、けだるい灰色のぬるま湯の中に背中からつかっていくような気分だ。
 そうしてしばらくうとうとしていたが、やがて遠い意識の地平線で物音がしたので、ふたたび眠りが途切れることになった。物音は段々ちかづいてきて、次第にはっきりとした輪郭を帯びた。それは孝輔の声だったが、別にもうひとつ、あおいの声でもあった。
 彼らは近くで、誠のとても近くで喋っていた。
「じゃあ、行ってらっしゃい。寒いから、気をつけてね。」
「うん、サンキュ。すぐに戻る予定だけど、親父の具合によってはすこし遅くなるかもしれない。どっちにしろ連絡する。ごめんな、他人のお前に留守番まかせちゃってさ。」
「ううん、全然かまわないよ。わたしはここにいるから、大丈夫。雨だけど、安心して帰ってきて。」
「……ありがとう。」
「ヘスターちゃんが笹井さんを噛まないように気をつけるよ」
「頼む」
 おだやかな会話は幸福そうなくすくすという笑い声でデクレッシェンドし、少々の間のあとに孝輔によって締めくくられた。
「じゃあ、ほんとに行ってくる。気をつけて」
 生まれて始めて自分が愛をささやいた時のような声だった。祈るごとくの誠実さで満ちている。耳にすると泣きそうになってしまうほど優しいやりとりだったので、誠は実際泣いてしまった。あたたかい涙が耳へすうと落ちた瞬間、あおいの手が額に触れた。誠は眼をひらいた。
「笹井さん? どうしたんですか、熱のせいかな。くるしいですか?」
「いや……。孝輔君が幸せそうな訳がわかったから、うれしいんだ。君が彼の側にいてくれたんだね」
「……そうだとしても、添えるようになったのはつい最近で、あたしは彼に何も出来ていません。彼が幸せそうな顔を笹井さんに見せたことがあるんだとしたら、それは他でもない彼自身が勝ち取った表情。もちろん、幸せにできたらいいなとは、思いますけど」
「孝輔君がすきかい?」
「はい。とても。すごく。大切だから、できる限りのことをしたい。届いても届かなくても、わたしと彼が他人でない間、その限りは」
「俺も牧村に何かできるかな。今はこんな弱くて、情けないだけの男だけど。俺は彼女が好きなんだ。そうなってしまったんだ。あの眼……きれいで、かわいそうで」
「笹井さん。話したいのはわたしもですが、まずさしあたっては、お薬を飲んで、何か食べてください。お話はそのあと。」
 あおいはどうやら孝輔だけでなくかなでからも誠の世話を頼まれていたようで、ややあったあと彼女が持ってきた水や食べ物の乗った盆にはかなで自身の書いたメモが貼り付けてあった。
『どうも風邪をひいてるみたいね。昨夜のひどい酔い方はそういうわけ! 会社にはあたしから連絡しておくからゆっくり休んでくださいな。帰りにまた寄ります。どうせ近所だし。あおいに手ぇ出さないでね。 かなで』
「誰が出すかっ」
「ふふ。かなでちゃんはどんなOLさんですか?」
「えー? 別に、真面目で無口で、でも妙に存在感があって……10人が見たら10人とも、なんで彼女がOLなんかやってるん?? って、そう言わずにはいられないような女だよ。」
「たしかに。モデルさんにいそうなぐらいきれいですもんねえ」
「きれいなのは君もだけど。うん、でも、ホントそう思うよ。見かけだけじゃなくて雰囲気がな……なんか、異質なんだ。いつも定時で帰るし、休み時間には会社にいないし。どこぞのお嬢だとかいう噂が流れて質問されても、何も答えないで黙ってる。他人に興味がなさそうでいて、その実やさしいんだな。あいつが興味がないのは、本当は自分自身じゃないかって時々思うよ」
 あおいから差し出された錠剤を水で流し込み、誠は言った。胃に流れ込む冷たさに軽く身が震える。冬の朝の大気を凝縮したような冷たさだったのだ。口元をぬぐってコップを返すと、続けて供されたのは湯気のたつ卵粥。器と匙が木製で、あきらかに作り立てなのに持っても肌が焼けなかった。
 なんだかすごいな、と思いながら誠は両手を合わせる。ソファの上にあぐらをかいて座りなおすと、食べ始めた。
 おいしい。舌の上でとろりと溶けるその熱い食べ物は、誠の全身をすっかり覚醒させた。
「うまい。これは、きみが作ったの?」
「はい。よかった、おいしいですか?」
「うん、すげえうまい。料理できてかわいくてヴァイオリンうまいのかー。いいなあ孝輔くん。似合いだな」
「藤原くんとは知り合いなんですね。驚いちゃった」
「うん、っていうか、厳密には彼のお父さんが、俺の会社の取引先なんだ。俺、医薬品会社の営業やっててね。」
「あ、だから。すごい偶然。」
「ほんとだよ。驚きすぎて死にそうだ。」
「そんな言い方しないで、これはとっても素敵なことですよ。世の中いい友人や恋人がもてない人はゴマンといるんですからね。感謝しなくちゃ。この出会いに。会えて嬉しい」
 彼らは自由だ、とその時ふいに誠は思った。彼ら、すなわち孝輔とあおいと、かなで。
 彼らは世の中の何者にも支配されず、どんな法則を前にしたとしても己というものを決して失わない類の人間だ。だからこそ、その唇が紡ぐ言葉は時として違和感をおぼえるほどに素直で、そのまなざしは全てを見透かすほどに強く、また、その手から作り出される音は足元から震えてしまうほどに切実なのだ。かなでと会話するたびに、誠の胸の奥がざわついたのはそういうわけだ。
 誠のなかの真実が自由に惹かれて、叫び声を上げ続けていたのだ。
「……ところでコウくんはどこにいったの? ここって彼の家だろ、親御さんは?」
 卵粥をきれいに平らげると、誠は皿を丁重に戻した。あおいはそれを片付けながら答える。きれいな声をしていた。
「ええとですね、彼はふたつお家を持っているんです。病院兼の家と、家族用のお家。最近彼のお父様が具合を悪くしていらっしゃるので、お父様と、そのお体を心配したお母様は、ずっと病院兼の方の家で生活してるんです。藤原くんはご両親の様子を見に、今そっちにいってるというわけ。つまりこのお家は現在無人。だから、笹井さんも今そうやって寝ていられているというわけです」
「……それは……よかった。仮にも取引先だからな、こんな体たらく見られたら、俺クビになりかねない。馬鹿やったなー、いまさらだけど」
「まあ、そうだとしても、やってしまったことは仕様がありませんよ。今はそれより、はやく快復することが一番。自分を馬鹿だと思うならいい子で寝てくださいね、笹井さん。」
 見た目は色白で線の細い、おとなしそうな女の子だが、あおいは存外はっきり喋る。彼女の指し示した内容にはっと目を醒まさせられる思いで、誠はあわてて姿勢を正した。
食べ物を食べたせいもあると思うが、思考が次第にはっきりしてくる。思いがけず休んでしまった会社のことを考えて、自分の欠席をかなでが誰かに伝えている様子を想像した。
 今更ながら、背筋がぞっと鳥肌だった。
「ヤバイだろ」
「はい?」
 あおいがきょとんと瞬きしたが、誠はうまく説明できなかった。
 何て言えばいいのだろう、この、胸にいまぐちゃぐちゃに渦巻いている奇妙な感覚は。焦っていて、不安だ。怖いし、心配だ。社内で自分とかなでが付き合っているなどと噂が立てば、それはかなり厄介な問題となるはずだ。
 かわいそうだ、と漠然と誠は思いながら、それが誰のことなのかわからなかった。自分なのか、かなでなのか。
 熱のためか、汗がぽとりと額から垂れて膝に落ちた。あおいが慌ててタオルとともに傍に寄ってくる。誠は泣きたかった。
「笹井さん、どうしたんですか。無理はしないで寝ていて。」
「やさしくしないでくれよ。俺みたいに情けない男に。コウくんも、きみも、牧村も、無防備に親切すぎるよ。甘えてしまう。それで迷惑をかけてしまうじゃないか」
 汗を拭こうと手を伸ばしてきたあおいを誠は押しのける。あおいはびっくりした顔をしたものの、その澄んだ眼に湛えられた優しさには一点のにごりも加わらない。
 誠は自分でそうとわからないぐらいに、静かに混乱していた。たかだか腕一本ぐらいで傷ついて自己憐憫の虜になっている脆弱な自分から見て、あおい達はあまりにも強く、きれいすぎた。
 誠はふいに自分が俗っぽく浅はかな人間だと思った。かなでに恋をし、孝輔と話し、あおいのヴァイオリンを聴いた後だけに、その考えは疑いようも無い残酷な事実のように心に圧し掛かった。
「笹井さん?」
「俺、どうせ愚かなんだよ。きみたちみたいにきちんと自分自身と戦って、真面目に生きてきたわけじゃない。惰性でずるずる、なんとなくここまで来た。やさしくされる権利なんてない」
 ああ、これだ。こういう自分が戦うべき自分なんだ。誠は思った。まくしたてながら眩暈を覚えて、ソファに背中から沈み、息を乱す。まるで子供のかんしゃくのように、どこかからいきなり激しいが安っぽい怒りがやってきて去っていった。
 あおいは何か言おうとして口を開いたが、すぐに閉じてきっと唇を結んだ。タイミングよくどこかでドアが開く音がしたと思ったら、続けて孝輔の声が耳に届いた。誠はあおいが孝輔の元に即座に向かおうとはせず、自分のことだけをじっと見つめていることに、ますます情けなくなった。
「……いま、何に対して怒ったの?」
 問われて頬が熱くなるのを感じた。孝輔がただいま、と顔を出したが、場の様子を見て戸惑いの表情を浮かべる。おかえり、と彼にちいさく微笑みかけてから、あおいはもう一度誠に聞いた。
「ねえ笹井さん。今、誰に対して怒ったの?」
「……ごめん。」
「謝らないで。話して。あなたを今くるしめてるものは何?」
 誠は逃げ出したくなったが、あおいは一歩も引かなかった。孝輔が控えめに部屋の隅に座り込む。たっぷり十秒は見つめあったかと思われるころ、誠はようやく白状した。
「……大好きだったひとがいたんだ。」
「はい」
「俺は元甲子園球児で、その頃のコーチさ。いかめしくて情熱的で、でもやさしい人で、俺のために魂けずって色々よくしてくれたんだ。」
「うん」
 あおいは頷く。孝輔は決して声を出さなかったが、あぐらを掻いて、ちゃんと聞いていた。
「でも、俺は、裏切ってしまった。その人の期待にこたえて上げられなくて、むしろ、失望させてしまったんだ。かわいそうだった。……自分が誰かをあんなに落ち込ませることができるなんて、俺は知らないでいたかった。」
「わかります、わかるよ、笹井さん。」
「コーチは死んだ。もうどこにもいない。彼の葬式の時、俺は彼の日誌をもらったけど、そこには最後まで俺のことが書いてあった。きっと恨んでる。俺、彼を殺したも同然だよ。笑わせてあげられなかった、仲直りできなくて。謝りたいけど、もう謝れないんだ」
 血を吐くように誠は言って、頭を抱えた。
あの、達筆な字がびっしりと書き込まれたノートを、コーチの夫人から手渡された際の暗い衝撃。死ぬまで忘れられないだろうと断言できる。全ての頁を読むことなど無論できるはずもなかった。胃がねじきれそうになるのを感じながら数ページを手繰って、結局はほとんど眼を通せないまま、誠はそれを実家の机の奥につっこんで遠ざけた。高校を卒業して以来何度か実家に帰ったが、日誌のことを思い出すと、自分の部屋が瘴気を発するおどろおどろしい空間のように思えてとてもくつろいだ気分になれず、いつも足早に東京へ帰ってしまうのが常だった。
「……トラウマなんだな。最大の」
 誰も何も言えない沈黙を破ったのは孝輔だった。誠は頷いたが、自分で自分がなにをしているかさっぱりわかっていないように見えた。ふらふらと立ち上がって「帰る。」と断言したが、顔色は赤く、足どりはおぼつかなく、傍目に見ても体調は最悪だった。
彼を引き止めるように立ちふさがって、孝輔は苦笑する。
「具合がよくなるまでは家にいてくださいよ」
「きみたちといると、俺、なんか情けなくなるんだ。なにもできなくて」
「それは風邪だからです。これはかなでさんからの命令でもあるんで、笹井さん、家に泊まって行ってください」
「無理」
「笹井さんっ。」
 孝輔が、どうしたわけか、いきなり声を荒げたので誠は驚いてしまった。いつも物静かでおだやかな言動をする彼にそういう態度はあまりにもそぐわなかった。
「……孝輔くん?」
「あのねぇ、あなたが帰ったら俺はひとりでこのデカイ家にいなきゃいけないわけですよ。それははっきり言って愉快じゃない。せっかくホリデーで帰ってきてんのに、話し相手もいないなんてまっぴらだ。」
「ホ?? はあ? なに言ってんの?」
「それはこっちのセリフっすよ! もう一度言います、うちに残ってください。ここまで俺に言わせたんだから!」
 耳まで赤くし、ぶっきらぼうにそう言うと、孝輔はぱっと逃げるように部屋から消えた。あおいがため息を吐き、いまだにわけがわかっていない誠にむかっておそろしく冷めた一瞥をくれる。その表情は誠の知らないものだったので、彼は責められている気分になったが、そうではなかった。
「お馬鹿さん。」
「え」
「子供みたいね。笹井さんって。彼はようするに、自分も寂しいだけなのよ。だから笹井さんに帰って欲しくなかったのよ」
 そう言ってあおいは自らも立ち上がると、長い間座り込んでいたために汚れてしまったジーンズの膝を払い、孝輔の後を追っていった。誠は、熱でまだぼんやりとする頭の中、これはきっと雨のせいだと決め付けた。
 どこからともなくやってきて、自分達の胸をふさぐ、この、寂しさ。せつなさ。全て雨のせいなのだ。冬の雨はつめたく、悲しいから、そんな雨の日には人と人との距離がとても近くなってしまう。心が共鳴してしまう。
 ……人間って、皆さみしいもんなのかな。
 誠は胸が割れそうに痛むのを感じていた。











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