Andante sostenuto




1 (Beginning of 1st movement)




 華やかな音を立てて窓ガラスは砕け散った。そこに投げつけられた哀れなウィスキーの角瓶もまた。安電球の明りを受け、銀色と琥珀色、それから闇夜の蒼がさんぜんと輝いたと思ったら、次の瞬間にはもう跡形もなくなっていた。残されたのはぎざぎざに割れた窓と、そこからしたたる美酒の残滓のみだ。
 ……あーあ、うまい酒だったのに。
 かなでは呟きながら長い髪をかきあげた。季節は晩秋で、彼女は自分のアパートにいた。豊かなまつげがだるそうにかぶさる頬は青白く、薄めの唇には血の気がない。酒を含んでいるのにちっとも体が暖まっていないことが明らかだ。かなではこのところ最悪に体調が悪いのだった。
「勿体無い。うまかったのに」
 もう一度呟いて立ち上がると、かなでは部屋のそうじを始めた。ガラスの欠片を拾い集めて新聞紙にくるみ、その後ふきんで床を拭く。割れた窓から11月の寒風が情け容赦なく吹き込んできて寒いことこの上ない。すっかり床をきれいにし終え、さてこのすきま風をどうしようかと考えていると、深夜二十五時であるにもかかわらず、やかましい呼び鈴が鳴り響いた。ドアを開けて顔を出すと、アパートの管理人が赤い顔をして立っていた。
「……なにか?」
「あんた、窓、割ったんだって?この真夜中に騒々しい音を立てて他の人たちが文句たらたらだよ。困るなあ、うちに住んでる以上は節度を保ってもらわないと。」
 彼も酒を含んでいるらしく、まくしたてる言葉の合間に安っぽい焼酎の香りが漂った。かなではたちまち厳粛な気分になって、明日から禁酒しよう、と密かな胸の内に誓った。
「申し訳ありません。……近ごろ眠れなくてイライラしていたものですから。どういたしましょうか」
「どうって?」
 管理人はドスの利いた声を発した。彼自身もこのアパートの一階にやもめの身を落ち着けているため、窓ガラスとウィスキーのたてた騒音を耳にしたに違いない。かなでは内心おののいたが、やってしまったことは仕方がない。辛抱強く管理人を見つめると、できるだけ大人しく言葉を続けた。
「ですから、あたしはこの部屋を出るべきなのか、それともそうではないのか。窓の修理代はいずれにしても払うので」
「強制退去。あと、迷惑料としてむこう三ヶ月分の維持費!」
 こうして、冬がその出番に向けて爪を磨いている間の季節に、かなでは部屋を追い出される羽目になったのであった。
 彼女の物語はここからはじまる。 
 
 なくしてしまった日々がある。二度とは帰ってこない人、胸を焦がして走った道、誰にも見えるものではないのに明日に心奪われていた。
 新しい部屋を探すために有休を取り、不動産屋のショーウィンドウを眺めているかなでは、ふと雑踏の合間を縫って聴こえてきた旋律に顔を上げた。ピアフ。死んだ母が好きだった歌だ。
 病でやせ細っても美しく、最後の日まで病棟の窓から空を見上げていた母の姿を思い出し、かなでは彼女に会いたくなった。もちろん時の流れは不可逆で、季節はめぐるからこそ美しいものだから、そんなことはありえないとわかっている。かなでは現実的でクールな女だから普段はこんな考え方はしない。だから、いま余計に自分が疲れているのだという事実がよく感じられた。
 母が死んで二年。それはそっくりそのままかなでが一人で暮らし出した年数にあてはまる。通っていた大学をやめて、今の会社に就職した。母と住んでいた家を引き払い、都内のボロアパートを借り、現在に至る。
 事実を述べればただそれだけだが、これら一連のできごとはかなでにとって非常に、非常に労力を使う、生命力をしぼりとられていくできごとで、だからかなでは疲れてしまった。死んだ人は戻ってこないし、ずっと前に母と離婚した父親は愛人と幸せな第二の人生を歩んでいるし、世界は前へ進みつづけている。ずっと。その流れに置いていかれたいとかなでは情けなくも路肩にしゃがみこんでいるというのに、雲の影が、風が、この体を前へ押して容赦なく転がしていくのだ。
 私の心は止まっている、とかなでは思う。
 奪われたものと手放したものがあり、今の自分はひどく空虚な空間を抱えて歩くただの肉体だ。自分では何も生み出さない、何も追いかけない、あのころのようにわけもなく前へ駆けていくということが、いつのまにかこんなにも面倒になってしまった。
 気がついたらピアフはもう終わっていた。聴こえない。なにも聴こえない。
 泣き出しそうになりながら見上げた空は、淡い蒼に夢のような白い雲をのせ、悠然と羽ばたいていく鳥たちのシルエットをふちどっている。どんな悲しみと切なさに縛り上げられていたって、その無限の存在は、自分たちにまだ何かやれるはずだという確証のない可能性を感じさせる。自由という希望を与えてこの世に残酷につなぎとめる。
 憎らしいほど、こんなにもきれいだ。

 二日休んでもいい部屋が見つからず、探し方が悪いのかと自分にやや苛々しながら、その日かなでは昼から会社へ出社していった。アパートの親父には来週までに引き払うよう言われているが、この分だと無理そうである。そもそものはじめは明後日までに、とか三日後までに! とか言われていたのを色目を使って伸ばし伸ばしにしてもらっているので、あるいはもう一度媚びてみれば後一週間くらいならば大目に見てくれるかもしれない。
 考えながら歩いていたかなでは、その時自分が横切っている会社のエントランスホールに自分以外の誰かがいて、しかもその者がひどく具合が悪く、階段の踊り場で今にも崩れ落ちそうにふらふらしていることに気がつけなかった。
 結果として、前起きなく彼は転がり落ちた。
 はじめに聞こえたのは、柔らかく大きいものが固い床にぶつかって立てる、どさっという嫌な音だった。かなでは考え込むと心の焦点を現実に合わせるまで少し時間がかかる。この時も例外ではなく、彼女は、気がついたら目の前で苦しそうに胸を上下させるスーツ姿の男を発見し、たいそう驚いた。しかし慌てれば慌てるほど冷静になろうと務める性格のかなでは、とりあえず事態を理解することに務めた。しゃがみ込んで男の頬に手を触れて見る。彼は眼を閉じていたが、それは意識がないためではなく、痛みのためであって、かなでの存在にはすぐに気がついた。黒くどんよりした眼と眼があった瞬間、かなでは胸を弾かれたような心持になった。営業一課の笹井誠。
 うちの会社の王子様じゃないの。
 成績、人柄、モテる男という三部門で入社以来エースの座を譲ったことがない、社誇りの営業マンだ。かなではあまりよく知らないが、それでも時折すれ違うだけの時に彼が自分に向けてくる掛け値なしの笑顔と愛想の良さにいつも度肝を抜かれている。
「笹井……笹井誠さん? 大丈夫?」
 誠は何か言おうと口を開きかけたが、大きく息を吸って、いきなり体から力を抜いてしまった。かなでは本気で死んでしまったかと焦ったが、灰色のスーツがかすかな呼吸に上下しているのを見てほっと息を吐き出す。とりあえず会社に連絡しよう、と携帯を取り出すと電話をかけた。何の気はなしに見上げた階段の一番上にバーバリーのブリーフケースが落ちていた。無駄にお洒落、と思いながら上って行って、取りあげる。
 誠に目立った外傷はなかったが、彼は意識を失いながらもずっと自らの右腕を守るように押えていた。それが気になった。もう一度側に膝をついて、会社のものがやってくるまで観察することにする。
 短い黒い髪に、日焼けしているのに手入れされていない肌、ちょっと目に付くほどがっちり筋肉のついた肩と腕。体育会系なのかしら、と思いながら、襟元のネクタイがきつく締まっているのに気がついてゆるめてやった。これはポールスミスだ。
 なんだかいつでも気を張って生きてそうな人ねえ。
 少し哀れむような心持になって、かなでは続けて腕時計も外してやったが、それはただのカシオだったので妙に安心した。倒れるほどの何かを抱えて生きているならおしゃれなんてしなければいいのだ。毎日身綺麗にしているというのはそれだけで大変なエネルギーを使う。ましてや彼は女ではなくて男なのだから、ちょっとばかり無造作な身なりをしていたって許されるではないか。
「馬鹿なのかな……」
 呟いたかなでは、自分の胸の内にふいににじみ出る感情があることに気がついて驚いた。
 それは慈しみとか同情に近く、目の前の誠を自分に急に引き寄せた。
 かわいそうにね、と想う。疲れているのに、動くしかなくて。息が苦しくても呼吸するしかなくて。
 自分が今抜け出せなくて困り果てているゆるやかな悲しさを、あるいはこの男も持っているのかもしれない。そう考えると、かなでは誠にやさしくしてやりたくなった。人間誰しも生きている以上は他人と関わって、お互いに何かしてやらなければならないが、さっき見た誠の濁った黒い眼は特にかなでの琴線に触れるものだったのだ。
 寂しい眼。
 バッグからハンカチを取り出すと、かなでは、玉のような汗が浮かんでいる誠の顔を拭いてやった。




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