ジャン・バティスト・リュリ
1632〜1687
Jean-Baptiste Lully




 私が古楽を聴き始めた頃は、ジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)と言えば、名前の割には音楽が知られていない作曲家の代表のようなところがありました。実際、1980年代の前半に私が入手出来たリュリの作品は、宗教曲である《テ・デウム》と《怒りの日》だけで、彼の最も重要な作品であるオペラやコメディ・バレエは、まったく聴く事が出来ませんでした。

 それが、リュリの没後300年にあたる1987年に、当時の楽器や演奏様式、舞踏法などを用いて、オペラ《アティス》の蘇演が行われて以来、現在では、リュリの様々な作品を演奏会や録音で聴くことが出来ます。2001年に日本でも公開されたフランス映画『王は踊る』で、リュリが主人公になっているのを見たり、彼のバレエやオペラの音楽が全編にわたって流れているのを聴くにつけ、時代が変わったものだと感じずにはいられません。


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 ジャン・バティスト・リュリは、フィレンツェの貧しい粉屋の子として生まれたと言われますが、彼の幼少期のことについてはほとんどわかっていません。リュリの名前が公的な記録の登場するのは、1646年にルイ14世のいとこに当たる、モンパシエ公女のイタリア語の会話相手としてフランスに移住した頃からです。彼は1652年まで公女に仕えており、この6年間の間に貴族の館や宮廷で催される祝宴や舞踏会を見聞し、作曲や鍵盤楽器の演奏を学んだと考えられていますす。

 リュリの転機は、モンパシエ公女のもとを去った翌年の1653年に訪れます。リュリは、自らも作曲にかかわった《夜のバレエ Ballet de la nuit》と呼ばれたバレエ・ド・クールで、バレエの踊り手として宮廷にデビューしました。この舞台では「太陽」に扮した当時14歳のルイ14世と、「羊飼い」に扮したリュリが共演しています。そして、《夜のバレエ》から1か月後に、リュリは国王の「器楽作曲家」に任命されています。

 その後、リュリはバレエの踊り手として宮廷で人気を集めると同時に、バレエ・ド・クールの器楽部分、特に舞曲の作曲を担当するようになり、1657年からは全体の作曲をまかされるようになります。そして、1661年の3月に、それまで実質的にフランスの政治を左右していた摂政マザランが世を去り、ルイ14世による親政が始まるとすぐに、リュリはシャンブルの音楽監督と作曲家に任命され、ヴェルサイユの音楽家として最高の地位に上り詰めます。

 同じ年の12月にはリュリのフランスへの帰化が認められ、翌1662年にエールド・クールの作曲家として有名だったミシェル・ランベールの娘と結婚をします。この結婚式には、国王夫妻をはじめとして宮廷の主だった人々が列席しており、当時、ルイ14世がどれほど高くリュリを評価していたかをうかがい知る事が出来ます。

 そして、1664年から喜劇作家モリエール(1622-1673)とリュリは、古典喜劇とバレエ・ド・クール要素を組み合わせたコメディ・バレエの創作をはじめます。《強制結婚》(1664)から《町人貴族》(1670)までの11作が作られますが、特に《町人貴族》は、モリエールの喜劇にリュリの音楽とバレエが巧みに挿入され、現在でもコメディ・バレエの傑作として名高い作品です。

 けれど、リュリとモリエールのコメディ・バレエは、ルイ14世がバレエ好きだったことから、劇よりもバレエの比重が大きくなって行き、《町人貴族》の頃には雑誌記事には「劇を伴った6幕からなるバレエ」として紹介されるほど、劇が添え物として扱われるようになっていました。モリエールは台本の重要性が失われる事を憂慮し、結局、二人の共同作業は《町人貴族》を最後に決裂してしまいます。

 モリエールとのコメディ・バレエが瓦解すると、リュリの眼はオペラに向けられることになります。1669年に詩人ピエール・ペラン(1620?-75)と音楽家ロベール・カンベール(1628?-77)は、オペラの上演を目的として創設した『オペラ・アカデミー』で、最初のフランス・オペラとも言える牧歌劇《ボモーヌ》を発表しますが、彼らは興行的に成功しませんでした。しかしながら、リュリはそのオペラの上演権を破産に瀕していたペランから1672年に買い取り、同時に、国王ルイ14世からオペラの上演を独占する許可を受けて、1673年からはほぼ1年に1作ずつ、自作のオペラを発表していきます。

 リュリがオペラに重要視した裏には、国王の栄光を称える新しい芸術を求めていた、財務総監ジャン=バティスト・コルベール(1619-83)の助言があったとも言われていますが、とにかく、リュリが設立した『王立音楽アカデミー』でオペラ《カドミュスとエルミオーヌ》(1673)が上演されて以後、ヴェルサイユの王侯貴族とパリの市民は、イタリア・オペラとは一線を画した「フランスのオペラ」を手に入れることになったのでした。

 その後もリュリは、1681年に国王の秘書官に任命されるなど、宮廷での揺るぎない地位を確保していきます。けれど、1683年に王妃マリ−・テレーズとコルベールが相次いで亡くなると、その栄光にもしだいに陰りが差すようになりました。ルイ14世は、王妃の死後に密かに結婚した敬虔なマントノン夫人の影響もあって、オペラから次第に遠ざかって行きました。
 そして、1687年に、リュリはルイ14世の病気快癒を祝うための《テ・デウム》の演奏中に、誤って指揮杖(当時は棒で床を叩きながら指揮をしました)で自分の足を強打し、その傷がもとで壊疽にかかって急死してしまったのでした。


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 音楽史において、リュリは何よりもまず、フランス・バロック・オペラの創始者として重要な地位を占めているます。リュリはすでに古典悲劇の分野で定評を得ていたフィリップ・キーノ(1635-1688)の協力を全面的に得て、オペラを発表して行きました。リュリ死後もフランス革命の頃まで、フランス・バロック・オペラの規範として尊重され、何度も再演が行われています。1770年のマリー・アントワネットとルイ16世(当時は皇太子)との結婚式の際に上演された祝祭オペラも、リュリ作曲の《ペルセウス》(1682)でした。

 これらのオペラは、原則的にプロローグ付きの5幕構成の形をとっています。キーノの台本では、プロローグは国王の偉大さや偉業を直接賞賛するもので、ギリシア神話の神々や古代の英雄が主人公となって物語を展開する次の5幕の物語とは、直接的には関係がありません。しかしながら、5幕の中にはルイ14世やフランス国家への間接的な賛美、ロマンスや冒険談を伴った道徳談義、宮廷風恋愛、「余興(ディヴェルティスマン divertissement)」と呼ばれるバレエや合唱などの幕間の出し物などが巧みに織り込まれ、ヴェルサイユ宮殿とそこに集う王侯貴族の趣味にかなうように構成されていました。

 リュリは、キーノの台本にふさわしい、適度に華やかで優雅な音楽を作曲しています。彼は、自分の作品をトラジェディ・リリック(「音楽悲劇」もしくは「叙情的悲劇」)と呼び、同時代の大作家の悲劇に匹敵する分野であることを強調しましたが、「悲劇」の名にふさわしいようにフランス古典悲劇の舞台で用いられる朗唱法を学び、フランス語の自然な抑揚を生かすために、言葉のアクセントの位置に合わせて拍子記号を頻繁に変更するなど、フランス語の特徴にかなった、独自のフランス風のレシタティフ(レチタティーヴォ)を生み出したいう逸話が伝えられています。

 リュリのオペラは当時のフランス宮廷の趣味を反映した、明確さと叙情性に特徴があります。フランス語の抑揚にそったレシタティフと、イタリア・オペラに付き物の、名人芸を披露するようなコロラトゥーラのような装飾を持たない小さなエール(アリア)からなるリュリのオペラは、レシタティフとエールを区別することが難しいほどなのですが、瞑想的な気分をたたえた陰影の美しさが際だっており、優雅で官能的な美しさに満ちています。

 けれど、彼の天才的な点は、音楽書法の独創性よりもむしろ、音楽と演劇の諸要素を総合して、古典的な均整と荘厳さを持つ様式を作り出したところにあるのかもしれません。リュリのオペラには、フランス独自のバレー・ド・クールやエール・ド・クール、コメディ・バレー、ラシーヌやコルネイユなどの大作家の古典悲劇に由来する台本、華麗な機械仕掛けによる舞台装置など、当時人気のあった劇的な要素が巧みに盛り込まれています。  
リュリのオペラを見た人々は、幕間の豪華な合唱や生き生きとしたバレエに魅せられ、オペラ中のバレエ曲は独立した器楽組曲に編曲されて好評を博したのでした。


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 またリュリは、フランス風序曲(Ouverture)と呼ばれる序曲形式を確立した存在としても有名です。リュリのオペラではプロローグの前に序曲が演奏されますが、これはアレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)によるイタリア風序曲(Sinfonia)と並んで、後の時代の器楽形式に大きな影響を与えました。

 リュリのフランス風序曲は5声部の弦楽器のために書かれ、付点付きのリズムによる2拍子の荘重でゆったりとした導入部からはじまり、次に軽やかなフーガ風(輪唱のように旋律が追いかけっこをするような音楽形式)の部分が続く、二部構成を基本としています。2つの部分は原則としてそれぞれくり返されますが、さらにそれに続いて冒頭の部分とよく似たゆったりとしたコーダ(曲の終わりに終結部として付け加えられるもので、それまでの音楽を回想したり、終結感を強める部分)が付け加えられることが多く、これによって序曲全体が緩−急−緩の3部からなる印象を与えます。

 この序曲の様式は、その後ヨーロッパ各地に広がりました。そして、バッハの《管弦楽組曲》の冒頭の序曲やヘンデルの《王宮の花火の音楽》や《水上の音楽》などの序曲など、バロック後期に作曲された管弦楽組曲に受け入れられたばかりでなく、モーツァルトやベートーヴェンらの古典派の交響曲の成立にも少なからぬ影響を与えたのでした。


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 劇音楽以外の作品としては、ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂が完成した時1684年に出版された大モテット(グラン・モテ)の曲集など、宗教音楽にもリュリは多くの佳作を残しています。大モテットは、1663年からシャペルの副楽長となったアンリ・デュ・モン(1610-1684)とピエール・ロベール(1618?-1699)がその成立には大きな役割を果たしましたが、リュリはその形式をいち早く踏襲したのでした。

 彼は1664年から1687年の死に至るまで、足かけ24年にわたって少なくとも25曲のモテットを作曲しており、そのうち12曲が大モテットなのですが、1684年に出版された「王室礼拝堂用2重合唱によるモテット集」には、《ミゼレーレ》や《テ・デウム》《怒りの日》といった、リュリの宗教曲の中でも代表的な作品を含む6曲が収められています。

 宗教曲はリュリの作品の中では余技とも言えそうなものですが、彼の作曲による華やかなグラン・モテ、特に1677年にフランスのオランダに対する戦勝記念に作曲された《テ・デウム》の壮麗な美しさは、太陽王ルイ14世やヴェルサイユにこそふさわしいと思える、絢爛豪華さを感じさせてくれるように思われます。


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 ところで、リュリは優れた音楽家でしたが、同時に、きわだった策略家でもありました。オペラ上演権の独占にしても、宮廷内の権力の伸張にしても、彼は自分の音楽的能力と政治力とを充分に発揮して、その地位を確実なものにしていきました。その方法は当時の人々、特に敵対者にとってはかなり強引なものだったようです。

 例えば、リュリと袂を分かったモリエールは、その後、コメディ・バレーの音楽をマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643?-1704)に依頼して、喜劇《病いは気から(気で病む男)》(1673)を完成させますが、その上演に際しては、執拗な妨害工作がリュリによって行われました。そのため、この作品の上演4日目に、主役を演じていたモリエールが舞台で発作をおこして数時間後に死亡すると、リュリが暗殺したのだという噂が、パリ中に流れたと言われています。

 この件については、リュリだけを一方的に悪者にするのは片手落ちかとも思いますが、彼のやり方には、そう噂されても仕方がないような面があったのも、また確かな事のようです。フランス革命以降、リュリの音楽は音楽史の中での評価が高いにも関わらず、ほとんど演奏される機会を持たなかった理由としては、機械仕掛けの舞台装置の復元が難しかったというのが一般的な所ですが、リュリに対する人物評価の低さが影響したのではないかと考えるのは、穿ちすぎた見方でしょうか。

 いずれにせよ、1987年のオペラ《アティス》の蘇演以降、リュリの音楽については人物像と切り離して、純粋に音楽だけを再評価しようとする傾向が出てきたように思います。リュリを悪者とする評論も、最近はあまり見かけなくなりました。それに、リュリの音楽を実際に聴いてしまえば、その人間性がどのようであったとしても、感嘆せざるを得ないというのが正直なところではないでしょうか。

 リュリのオペラは、フランス・バロック・オペラの規範だったわけですが、現在の私達は、ドビュッシーのオペラ《ペレアスとメリザンド》の、歌唱と朗読の融合を求めた朗唱法にも、リュリの音楽の遠いこだまを聴くことが出来ます。なぜなら、フランス語の自然な言葉の抑揚とリズムを再現ようとするドビュッシーの試みは、まさしく、リュリの試みでもあったのですから。


 正直な話、リュリの音楽を聴くようになったのは比較的最近の事で、それほど沢山の録音を聴いているわけではありません。一応、代表的な録音と言われるものは一通り聴いているつもりですが、もっと良い録音が出ている可能性もありますし、これからも、色々と面白い録音が出てくる作曲家ではないかと思います。

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 まず、リュリのオペラの録音としては、ウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサン演奏による、リュリ及びフランス・バロック・オペラへの再評価のきっかけとなった、蘇演メンバーによる「アティス Atys」が、まず真っ先に取り上げられるべき録音でしょう。演奏史上重要なだけでなく、音楽的にも演奏的にも素晴らしいものです。

 その他のオペラでは、《アルセスト Alceste》(1674)がJean-Claude Malgoire 指揮、Grande Ecurie et La Chambre du Roy 演奏で、《Phaeton ファエトン》(1683)と《アシスとガラテ Acis et Galatee》(1686)が Marc Minkowski 指揮、Musiciens du Louvre の演奏で、《アルミード Armide》(1686)が Philippe Herreweghe 指揮、Collegium Vocale、Chapelle Royale 演奏で、《ペルセウス Persse》(1682)がCristophe Russet 指揮、Les talent lyriques の演奏でそれぞれ録音されていますが、どれも個性的で素晴らしい演奏です。
 その中でも、《アティス》以外のリュリのオペラも聴いてみたいと思った方には、《アルセスト》と《アルミード》は必聴ものだと思います。

 《コメディ・バレエ》の音楽としては、マルク・ミンコフスキとルーブル宮廷音楽隊のデビュー・アルバムだった「コメディ・バレエ名場面集 Lully-Moliere : Comedies-Ballets」や、NAXOS から出ている Kevin Mallon 指揮 Aradia Baroque Ensemble 演奏の「太陽王のためのバレエ音楽 Ballet Music for the Sun King」やその他バレエ・ド・クールやコメディ・バレエ、オペラの組曲集でも聴くことが出来ます。

 リュリのフランス風序曲も、組曲集で聴くのが一般的なのではないでしょうか。上記の2枚の他にも、Jordi Savall 指揮 Le concert des Nations 演奏の「L'orchestre du Roi Soleil」や、Marie-Ange Petit 指揮 London Oboe Band 演奏の「Le Bourgeois Gentilhomme」など、面白い演奏のものが多いです。

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 オペラに比べると、最近は宗教曲の録音はあまり多くありません。リュリの大モテット《テ・デウム》と《怒りの日》の録音となると、1975年に録音された、ジャン・フランソワ・パイヤール指揮のパイヤール室内管弦楽団による「Te Deum; Dies Irae」や、Naxos から出ている Herve Niquet 指揮の Le Concert Spirituel 演奏による「グラン・モテ集 1巻 Grands Motets Vol.1」(「怒りの日」は2集に収録)くらいしか思い浮かびません。
 《ミゼレーレ》の方も、現在入手が可能なのは Philippe Herreweghe 指揮 Paris Chapelle Royale 演奏の「Grands Motets」と、 Herve Niquet 指揮の Le Concert Spirituel 演奏による「グラン・モテ集 1巻 Grands Motets Vol.1」くらいです。

 けれど、録音こそ少ないですが、Niquet 盤の音の優しさと透明感にあふれた演奏も、Herreweghe盤の研ぎ澄まされたような硬質な演奏も、とても面白い録音です。特に Niquet 盤は3集からなっていて、リュリの大モテット12曲中の9曲を聴くことが出来て、資料としても有益です。




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