バロック期フランスのオペラと宗教音楽
ballet de cour, tragedie lyrique, grand motet




 音楽史において、バロック音楽の発祥の地はとして各国に大きな影響を与えたのはイタリアであり、この時代のヨーロッパの国々のほとんどは、自国の音楽よりもイタリアの音楽を受け入れ、その様式を模倣しながら音楽を発達させていきました。その中で、フランスは独自の道を歩んだ、数少ない国の一つだったと言うことが出来るでしょう。

 西洋史の通念として、17世紀はブルボン王朝下のフランスがヨーロッパでも随一の勢力を誇った時代でした。そのようなフランスの人々にとって、音楽といえどもイタリアの後陣を拝するというのは、もしかすると、そのプライドが許さなかったのかもしれません。ごく最近まで、フランス国内ではこの時代の音楽に対して、“いびつ”という意味を持つ『バロック』という用語を避け、『古典主義の音楽』と呼び慣わすことが多かったのも、その音楽様式の特異性だけからではなかったようにも思われるのです。


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 とにもかくにもフランスのバロック期の音楽は、16世紀末のアンリ4世(在位1594-1610)に始まるブルボン王朝の中央集権化に伴って、その発達の歩みを進めてゆくことになります。

 ブルボン家以前にフランスを統治していたヴァロア家は、サン・バルテルミーの虐殺(1572年8月)などをはじめとした徹底したプロテスタントの弾圧をはかります。このため、フランスでのプロテスタントとカトリックの間の対立は、1562年から1598年に至る長い宗教戦争(いわゆるユグノー戦争)という名の内乱状態に発展していきました。

 その後、ヴァロア家の最後の王とであったアンリ3世(在位1574-1583)に子が無かったため、ヴァロア家と親戚関係にあったブルボン家の当主アンリ・ド・ナヴァル(1553-1610)が王位継承者として定められ、ブルボン王朝が誕生することになります。アンリ4世は1598年に「ナントの勅令」を発してフランスのプロテスタントに対して一定の信仰の自由を認め、ここにようやく内乱に終止符が打たれました。

 このアンリ4世とナントの勅令によって、フランスは統一された国家として安定した歩みをはじめます。そして、続くルイ13世(在位1610-43)の時代なると、宰相として実権を握った枢機卿リシュリューによって国家の中央集権化が進み、様々な分野において文化の隆盛の兆しが現れ始めました。その中で音楽もまた、王侯貴族の楽しみのひとつとして発達していったのです。


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 バロック時代のフランスの音楽を語るときに、まず忘れてはならないのは、その“舞踏”への傾倒ぶりということになるでしょうか。ブルボン王朝の歴代の王達はこの上もなく音楽を愛好しますが、最初にその中心になったのはイタリア生まれの“オペラ”ではなく、フランス独自の“バレエ”だったからです。

 ルイ13世の治世において王侯貴族が諸芸術の中で最も関心を示したのは、「バレエ・ド・クール」(王宮のバレエ)と呼ばれる劇的な舞踏でした。これは、アンリ3世治下の1981年に、王妃ルイーズ・ド・ロレーヌが企画した《王妃のバレエ・コミック》を最初として、16世紀後半から17世紀後半まで、ほぼ100年にわたってフランス宮廷で愛好されることになります。

 バレエ・ド・クールは歌や器楽曲や踊り、あるいはパントマイムといった様々な要素からなる舞台芸術であって、音楽は二次的な地位に置かれることもありましたが、王宮では王をはじめとする王侯貴族たちが舞台に登場して実際に踊るだけでなく、自ら作曲を手がけることすらあったと言われます。

 17世紀半ば、ルイ14世(在位1643-1715)時代の始めには、イタリア出身であった摂政マザランによってイタリアのオペラを導入する試みも行われ、ルイジ・ロッシ(1597?-1653)やフランチェスコ・カヴァッリ(1601-76)らの作品が上演されました。しかしながら、熱狂的な喝采と同時に「粗野な芸術」との批判も起こり、無条件には受け入れられなかったようです。
 例えば、1662年にルイ14世の結婚祝いとして上演されたフランチェスコ・カヴァッリのオペラ《恋するエルコレ Ercole amante》は、ジャン・バティスト・リュリ(1632-87)によって付け加えられたバレエの方が人々の好評を博したと伝えられています。


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 「バレエ・ド・クール」とコルネイユ(1606-84)やラシーヌ(1639-99)の作品に代表されるフランスの「古典悲劇」を融合させたフランス独自の本格的な“オペラ”は、リュリによる「音楽悲劇」(トラジェディ・リリック)の登場によって始まったと言われています。

 ヴェルサイユ楽派の代表格であるジャン・バティスト・リュリは、フィレンツェ生まれのイタリア人でしたがフランスに帰化し、小姓から舞踏手、ヴァイオリン奏者としてルイ14世の寵愛を受け、後に宮廷作曲家に任命されました。1661年に摂政マザランが亡くなり、ルイ14世が親政を宣言したのちに国王の室内音楽隊の総監督に就任し、以後は宮廷音楽家としての地位を上り詰めることになります。

 音楽家としてのリュリは、劇作家のモリエールと共同して、バレエ・ド・クールと喜劇を結合した「コメディ・バレエ」の分野を開拓します。その後、1672年にフランスでのオペラ上演権を独占してからは、原則としてプロローグを持った5幕構成によるフランス独自のオペラ、「音楽悲劇」を完成させ、フランス様式の音楽をイタリア音楽と競えるほどの音楽に高めたのでした。


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 リュリの死後、フランスのオペラはより軽快な、より洗練されたものへと変化していきます。リュリの持っていた古典的とも言える荘重さは次第に薄れ、その後継者たちは、より装飾的で繊細な表現を求めていきました。また一方では、イタリア風のダ・カーポ形式のアリア(フランスではアリエットと呼ばれました)を巧みに同化し、新しいフランス・オペラを創造しようという試みもなされていきます。マラン・マレ(1656-1728)、マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645/50-1704)、アンドレ・カンプラ(1660-1744)など、様々な作曲家がリュリの作品とは異なった雰囲気のオペラを作曲しています。

 中でも、アンドレ・カンプラは、1697年に初演された《優雅なヨーロッパ L'Europe galante》によって、物語性をほとんど持たない、バレエとスペクタクル効果を重視した「オペラ・バレエ」と呼ぶべきジャンルを確立します。オペラ・バレエはバレエのための器楽舞曲に加えてアリアなども織り込まれていましたが、構成自体はバレエ・ド・クールかなり近いものでした。

 ただ、オペラ・バレエは公開の劇場で上演される一般大衆のための作品である点が、王侯貴族のためだけに作られたバレエ・ド・クールとの決定的な相違点であったと言えるかもしれません。当時、パリのノートル・ダム大寺院の音楽長の要職にあったカンプラは《優雅なヨーロッパ》を弟の名で発表しましたが、その後真相が判明して楽長の地位を追われる事になりました。これは、当時のフランスにおける民衆のための“オペラ”の地位が、決して高いものではなかった事をよく表しているように思われます。


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 ルイ15世(在位1715-1774)の時代になると、最大にして最後のフランス・バロック・オペラ作曲家として、ジャン・フィリップ・ラモー(1683-1764)の名があげられます。ラモーは音楽家としての初期の段階ではチェンバロやオルガンなどの鍵盤楽器奏者・作曲家として活躍しますが、1730年以降、50歳を過ぎてからは集中してオペラの作曲を行っています。

 ラモーは1733年に《イポリートとアリシ Hippolyte et Aricie》を初演したのを皮切りに、《優雅なインドの国々 Les Indes galantes》(1735)、《カストルとポリュックスCastor et Pollux》(1737)など、数々のオペラを作曲しました。けれど、ラモーのアリエット(アリア)を多用した作風は保守派の反発を買い、新しい行き方を指示する「ラモー派」と、リュリ以来のフランス・オペラの伝統を破壊するものだとして避難する「リュリ派」との間で、熾烈な論争を巻き起こすことになりました。

 ところが、「リュリ派」と「ラモー派」の対立から約20年後の1752年、イタリアのオペラ・ブッファがパリで大成功を収めます。この事に端を発するフランス音楽とイタリア音楽の優劣論争、いわゆるブフォン論争において、かつてイタリア的だと批判の対象になったラモーのオペラが、リュリと並んでフランス的な音楽の代表として担ぎ出される事になるのです。

 これは、ある意味で皮肉なことではありますが、ラモーがリュリに始まるフランス様式を受け継いだオペラ作曲家であったことの、この上ない証明であったとも言えるのでしょう。しかしながら、このブフォン論争をさかいにフランス・オペラは次第に民衆の支持を失い、衰退していくことになったのでした。


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 フランスの宗教音楽の分野では、16世紀の半ばからフランスのプロテスタント、カルヴァン派に組みする作曲家達が、フランス語に訳された聖書の「詩篇」に作曲を施した《詩篇曲》を次々と発表していきました。けれど、バロック時代に入ると、17世紀初頭のアンリ4世の治世下でクロード・ル・ジュヌ(1530?-1600)の詩篇曲集が数度出版されたのを最後に、見るべきほどのプロテスタント音楽は現れなくなります。

 ルイ13世の時代、宰相リシュリュー(1585-1624)によって行われた新教徒の解体政策などと通じて、17世紀の前半に精力的に行われたフランスにおけるカトリックの復興は、ルイ14世が1685年にナントの勅令を廃止するに至って完璧なものとなります。そして、フランスは完全にカトリックの国となり、独特の教会音楽を作り出して行くことになりました。

 バロック期フランスの宗教音楽の作曲家としては、イタリアでカリッシミ(1605-74)に学んだマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645/50〜1704)が真っ先にあげられるでしょう。シャルパンティエはかなり早い時期からその実力を認められながらも、リュリの生前はオペラの作曲がかなわず、教会音楽を主たる分野として活躍しました。

 シャルパンティエはカンタータオラトリオを数多く作曲しましたが、それらはカリッシミ譲りの劇的なコーラス(多くは2重合唱)の対象が際だつと同時に、フランス語の抑揚にそった細やかなレシタティーフをも特徴としていて、フランス教会音楽の伝統に貴重な貢献を果たしています。


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 ルイ14世の時代、王室礼拝堂でシャペルによって演奏されていた宗教音楽の典型は、合唱、独奏と管弦楽を用いた聖書の詞によるラテン語のモテットでした。王室礼拝堂の作曲家達は、当時流行の世俗的なカンタータの様式によるモテットを作曲して、国王を御前にした毎日のミサで演奏しました。特に独唱とコーラスと充実したオーケストラによる「グラン・モテ」(大モテット)と呼ばれ、王宮にふさわしい豪華で華麗な響きを特徴としています。

 アンリ・デュ・モン(1610-1684)、ジャン・バティスト・リュリ(1632-87)、マルカントワーヌ・シャルパンティエ(1645/50〜1704)などが傑出したグラン・モテを作曲していますが、中でも、18世紀初頭、リュリの死後に王家の音楽総監督となったミシェル・リシャール・ドラランド(1657-1726)は《ミゼレレ》や《深き淵より》など、格調の高さと旋律の美しさが際だった素晴らしい作品を残しています。

 同じ時期のフランスのモテットでも、いくつかの独唱と通奏低音による小規模な編成のモテットはプチ・モテ(小モテット)と呼ばれました。特にルイ14世の晩年の宮廷では、愛人であったマントノン夫人(1635-1719)の影響から過度な享楽が慎まれたのか、プチ・モテが数多く作曲されています。

 グラン・モテ同様に多くの作曲家がプチ・モテを残していますが、マントノン夫人が良家の子女の教育のためにヴェルサイユ近郊のサン・シール建てた寄宿学校の音楽教育に携わったルイ・ニコラ・クレランボー(1676-1749)が作曲したモテットや、フランソワ・クープラン(1668-1733)による一声または二声のための《ルソン・ド・テネブレ》は、この分野における重要な成果と言えるでしょう。 


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 バロック期のイタリアでは《レクイエム(使者のためのミサ曲)》はほとんど作曲されませんでしたが、フランスではマルカントワーヌ・シャルパンディエやアンドレ・カンプラ(1660-1744)、ジャン・ジル(1668-1705)らによって素晴らしい《レクイエム》が数多く作曲されています。

 特にジャン・ジルによる4人の独唱者と合唱および管弦楽のために書かれた《レクイエム》は、優美なメロディとリズムに満ちた、劇性と神秘性がバランスよく融合した名曲として知られています。この曲は作曲家の生前には演奏されず、その遺言に従ってジル自身の葬式の時にされたと言われていますが、ルイ15世やラモーの葬儀の際にも演奏されたと言うことです。

 また、オペラ・バレエの分野で重要な業績を残したアンドレ・カンプラ(1660-1744)が、ヴェルサイユの礼拝堂副楽長になる以前の、ノートル・ダム大聖堂学長時代に作曲したとされる《レクイエム》も、フランス的な叙情に満ちた宗教音楽として忘れがたい作品です。


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 フランスのバロック音楽は、特にルイ14世の時代は「王による芸術の統制」が基本に存在しています。全ての文化生活をパリとヴェルサイユに集中させ、王が学問や芸術を保護する代償として、その全ての分野に王を中心とする秩序を作り上げようと試みられました。従って、ヴェルサイユ楽派による優雅で洗練されたオペラも宗教曲も、王の栄光を賛美する祝祭的な側面を強く持っていました。

 ところが、ルイ15世の時代になると王による統制は次第に崩れ、有力貴族やブルジョワジ階級(裕福な平民資産家達)が邸宅の客間(サロン)で社交的な集まりを開き、独自に夜会や音楽会を開くようになります。このような聴衆や後援者の変化は、絵画や建築と同様に、音楽を単純ながら優美で繊細なロココ趣味へと変えていった大きな要因となりまそた。オペラや宗教音楽のみならず、器楽音楽の分野でも同様な傾向を見ることが出来ます。

 そして、絶対王政の崩壊に伴って、18世紀中ごろには『コンセール・スピリチュアル』というイタリアとフランスの宗教音楽や器楽曲の演奏を中心とする、世界で最初の公開演奏会(入場料を支払えば誰でも聴くことができる演奏会)も開かれるようになりました。そうしてイタリア音楽が浸透していくと同時に、フランス音楽の独自性は徐々に失われていったのです。


 リュリ、シャルパンティエ、フランソワ・クープラン、ラモーについては別項で詳しく書くつもりなので、ここではそれ以外の音楽や作曲家についていくつか好きな録音をあげておきます。

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 バレエ・ド・クールの録音は残念ながら聴いたことはありませんが、1588年にトワノ・アルボー(1520-95)が舞踏の種類紹介しならがそれぞれの踊り方を紹介した『オルケゾグラフィ Orchesographie』に載せられた譜例をもとに演奏された、ジェレミー・バーロウ指揮のザ・ブロードサイド・バンドによる「Danses Populaires Francaises」は、実際の踊りを想定して演奏されたもので、聴いているとバレエ・ド・クールの踊りについてある程度わかるような気がしてきます。

 ジョルデ・サヴァール指揮のエスペリオンXXによる「Mvsicqve de Joye」も、少し時代は下りますが1550年に出版された『喜びの曲集』と題された曲集からの録音で、この中の舞曲は実際の踊りを想定した素晴らしい演奏です。

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 オペラ・バレエの草分けであるアンドレ・カンプラの《優雅なヨーロッパ》は、グスタフ・レオンハルト指揮のラ・プティット・バンド演奏による抜粋盤がありますが、残念ながら全曲盤というのは聴いたことがありません。

 カンプラのオペラの録音としては、ジャン・クラウディ・マルゴワール指揮の「タンクレード」もありましたが、現在入手可能なのはウィリアム・クリスティ指揮レザール・フロリサンの「イドメネ」くらいかもしれません。
 マラン・マレのオペラとしてはマルク・ミンコフスキ指揮ルーブル宮廷音楽隊による「アルシオーヌ」全曲盤があります。

 バロック期のフランスのカンタータは、イタリアと同様にアリアとレチタティーフが交互にあわられる、ミニ・オペラともいうべき内容の音楽で、カンプラやクレランボーなど様様な録音が出ていますので、3枚組みや4枚組のオペラを聴くのは重すぎると思われる方は、カンタータ集などを聴いてみるのもよいかと思います。

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 アンリ・デュ・モンのグラン・モテの録音としては、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮のシャペル・ロワイヤルによる「Motets pour le chapelle du roy」が一番まとまった演奏のような気がします。ドラランドのグラン・モテにもヘレヴェッヘ指揮シャペル・ロワイヤルによる華麗な演奏がありますが、現在は入手が難しいかもしれません。

 ルイ・ニコラ・クレランボーのプチ・モテ集では、男声によるものですが、ジャラーヌ・レーヌ指揮のイル・セミナリオ・ムジカーレの「Motets pour Saint-Sulpice」が、非常に趣味のよい演奏を聴かせています。

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 ジャン・ジルの「レクイエム」には、ジョエル・コーエン指揮のボストン・カメラータによるゆったりとした中にメリハリのある、要所要所に聴かれる太鼓が印象的な録音と、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮のシャペル・ロワイヤルによる洗練された演奏とがありますが、どちらもすばらしい演奏です。

 カンプラの「レクイエム」も、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮のシャペル・ロワイヤルによるドラマティックな演奏があります。




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