ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ
Giovannni Battista Pergolesi
(1710-1736)




 ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)は、18世紀中葉以後のオペラの歴史に、ひとつの大きな転換を与えるきっかけとなった傑作《奥様になった小間使い(奥様女中) La Serva Padrona》の作曲家として名高いですが、その評判が、逆に、ペルゴレージの音楽の真の評価をさまたげる原因ともなってきた、とも言われています。

 20世紀の前半に出版された『ペルゴレージ全集』には全部で148曲の作品が収められていますが、最近の研究では、そのうちの約5分の4が偽作か、偽作の疑いのある作品であることがわかって来ています。ペルゴレージ作として伝えられてきた作品がこれほどに多い理由としては、その死後に急に高まった名声にあやかって、意図的に、あるいは誤って、ペルゴレージの作とされる作品が続々と出版されたからだと思われます。

 逆に言えば、このような現象が起こるほど、ペルゴレージはすぐれた作品を残した作曲家だったと言うこともできるでしょう。 オペラやインテルメッゾ(幕間劇)などが約10曲、宗教劇やオラトリオが3曲、ミサ曲をはじめとする宗教曲が10曲程度、他に室内カンタータや二重唱曲、器楽曲などが数曲というのが、その短い作曲活動の中で実際にペルゴレージ自身が残したものだと現在では考えられています。


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 ペルゴレージは、1710年にアドリア海に近い中部イタリアの町イエジに生まれています。イエジの大聖堂楽長フランチェスコ・サンティのもとで初歩の音楽教育を受け、その後、イエジの貴族ピアネッティ公の庇護のもとで1726年にはナポリのディ・ポヴェリ音楽院 Conservatorio die Poveri に入学すると、当時のナポリ音楽界の重要な作曲家であったレオナルド・ヴィンチやフランチェスコ・ドゥランテに教えを受けました。ペルゴレージがこの音楽院を去ったのは、おそらく1730年頃であったと言われています。

 1731年の夏にはナポリのサンタニエロ・マジョーレ修道院で宗教劇《聖グリエルモ・ダクイタニアの回心》が初演され、作曲家としての歩みを始めます。翌1732年1月には、最初のオペラ《サルスティア》がナポリのサン・バルトロメオ劇場で上演されましたが、この時、幕間には自作のインテルメッゾも上演されていました。

 こうしてオペラ作曲家としての活動が始まり、続く1733年にはオペラ《誇り高き囚人》と、そのインテルメッゾとして《奥様になった小間使い》が初演されました。しかしながら、ペルゴレージの健康は1735年にはすでに悪化していたようで、その年の暮れのオペラ活動が終ると、翌1736年の初めには医者のすすめに従って、ナポリの西にあるポッツォーリのフランシスコ修道院に療養のために移っています。

 しかしながら、ナポリを去る前に自分のわずかな所持品などを処分していることから、内心ではもはや回復しないと思っていたのではないかとも思われます。事実、その後も病気は治る事なく、《サルヴェ・レジナ》と《スターバト・マーテル》の2曲の宗教曲を完成させた直後の1736年3月16日、ペルゴレージはポッツォーリにおいて息を引き取りました。
 そして、わずか26歳の若さでこの世を去ったペルゴレージは、その翌日に貧民共同墓地に埋葬されています。


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 《奥様になった小間使い》は、先に述べたように1733年にナポリで発表されたオペラ《誇り高き囚人》に付随するインテルメッゾとして作曲、上演された幕間劇でしたが、オペラを引き立てるどころか、人気においてこれを圧倒してしまいました。

 そのため、《奥様になった小間使い》は次第にオペラ・セリアから独立して単独で上演されるようになり、イタリアだけに止まらずヨーロッパ各地へと広がってゆきました。そして、ナポリやヴェネツィア、ドイツのハンブルグなどで盛んになりつつあった純粋に喜劇的なオペラ、すなわちオペラ・ブッファの発展に勢いを与えたのでした。

 美貌と才知に恵まれた小間使いが、道楽者でまぬけな主人に取り入ってまんまと奥様の座をせしめてしまう、というストーリーは、弱いものが強いものを知力で出し抜き、結局自分のいいなりにしてしまうという、18世紀の喜劇的オペラに広く見られる主題によるものです。そして、王侯貴族に代わって力を伸ばしつつあった市民階級は、紋切り型で道徳的なセリアよりも、愉快で風刺の効いたブッファの方をはるかに好んだのでした。

 ペルゴレージはこうした台本をきびきびとした筆致で、鋭い内的な動きを盛り込みながら見事に音楽化しました。そしてそれは、モーツァルトの《フィガロの結婚》へと至る、貴重な第一歩でもあったのです。逆に言うならば、ペルゴレージの《奥様になった小間使い》がなければ、モーツァルトの《フィガロの結婚》もこの世に存在しなかったかもしれません。


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 ペルゴレージのもうひとつの傑作である宗教曲《スターバト・マーテル》は、彼の死の直前に書かれた、おそらく最後の作品です。

 《スターバト・マーテル》は、ナポリの貴族たちの集まりである「悲しみの聖母騎士団」と呼ばれている宗教団体によって委属された作品でした。この宗教団体では、毎年春の聖金曜日に、アレッサンドロ・スカルラッティが書いた《スターバト・マーテル》を演奏していましたが、それに代わるものとしてペルゴレージの新しい曲の製作を依頼したと考えられています。

 少なくとも、ペルゴレージのこの曲はスカルラッティの《スターバト・マーテル》と同じ編成をとっているので、ペルゴレージ自身がスカルラッティの作品を意識して作曲したということは、間違いないところだと思われます。

 もとの詩は、3行を1節として全20節から構成されていますが、ペルゴレージはそれを12の部分に分けて作曲しました。そして、ソプラノ独唱の部分、アルト独唱の部分、ソプラノとアルトの二重唱の部分をそれぞれ巧みに配置し、変化に富んだ構成を取っています。ペルゴレージの《スターバト・マーテル》は全体的に小編成をとりながら、緊張感がひしひしと伝わってくるような見事な作品に仕上がっています。

 ところで、ペルゴレージの死後、にわかに人気を集めたこの曲について、当時の音楽界の権威者であったマルティーニ神父がまるでオペラ・ブッファのようだ、と批判したという話が伝っています。

 確かにペルゴレージの《スターバト・マーテル》は、そう言われてもしかたがない要素を多分に持った作品です。けれど、当時のイタリアの宗教音楽のほとんどが、四旬節などにオペラの代用品として演奏されたことを考えれば、当時の宗教音楽が等しく共有していた特色であるとも言うことができるのではないでしょうか。



 ペルゴレージの曲の中でも、《スターバト・マーテル》はモダン楽器でも多くの名演があります。オペラ的でロマン的ではありますが、アバド指揮のロンドン交響楽団による演奏は特筆すべきものでしょう。ソプラノのマーガレット・マーシャルとアルトのルチア・V=テッラーニの歌もバランスが取れています。

 モダン楽器の演奏では、クリストファー・ホグウッド指揮のエンシェント室内管弦楽団の録音を最もよく聴きます。声とオーケストラが本当によく解け合った美しい演奏で、特にソプラノのエマ・カークビーの清冽な素直な声にいつもひかれてしまいす。ペルゴレージの最晩年の宗教曲である《サルヴェ・レジナ》も一緒に聴くことができるので、なおさらこの録音に手が伸びてしまうようです。

 他にも、ジャン=クラウデ・マルゴワール指揮のラ・シャンブル・デュ・ロワによる劇的な演奏や声楽パートをボーイ・ソプラノとカウンター・テナーという男声のみで演奏したルネ・ヤーコプス指揮のコンチェルト・ヴォカーレによる小編成による演奏もとても美しいと思います。

最近の録音だと、クリストフ・ルセ指揮のレ・タラン・リリクによる演奏が、弦の音の伸びやかさとカウンター・テナーのアンドレアス・ショルの巧さによって印象的なものになっています。この録音にはヘ短調とイ短調のふたつの《サルヴェ・レジナ》も一緒に入っていますが、ショルのヘ短調の《サルヴェ・レジナ》は本当に素晴らしいと思いました。

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 《奥様になった小間使い(奥様女中)》は、有名な曲の割にはあまり録音は多くありません。やはりバロック時代の歌劇はオペレッタといえども再現が難しいということでしょうか。

1969年という録音的にはかなり古いものになりましたが、コレギウム・アウレウミ合奏団による録音がまず第一にあげられるでしょうか。この作品の持つ歯切れの良さや渇いたユーモアを生かした演奏だと思います。

 シギスバルト・クイケン指揮のラ・プティット・バンドによる演奏も、暖かい親密感のなかにも程よい緊張感がある名演です。隅々にまで気を配った生き生きと音楽作りがされています。

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 作者不明で出版された《コンチェルト・アルモコル(小協奏曲)》は、長くペルゴレージの作ではないかと言われて来ましたが、最近の研究ではヴァッセナール伯ウーニゴ・ヴィルヘルムの作品だということが証明されたようです。けれど、ペルゴレージの作品でこそありませんが、その曲の美しさと完成度はすばらしいものです。トン・コープマン指揮のアムステルダム・バロック・オーケストラの名演は聴くべき価値があるのではないでしょうか。




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