オペラの誕生と発展
opera




 芸術の中に感情を解放しようという傾向は、ルネサンスの人文主義(人間中心主義の文化)の内に芽生えると、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの精神世界における大きな流れへと成長します。

 音楽も、同じ方向へと流れて行ったわけですが、そのためには音楽の書き方自体を変える必要にせまられました。なぜなら、詞の内容がどんなに情熱的だったとしても、いくつもの声部が独立しつつ滑らかに絡み合って進行していくポリフォニー音楽では、言葉を強調して訴えることは非常に難しい事だったからです。

 そこでバロック時代の歌曲は、言葉を生かしながら感情を的確に伝達できるような音楽の書き方を工夫する、様々な試みから発展していくことになりました。

 ルネサンス後期の16世紀半頃になると、それまで全ヨーロッパ音楽を支配していたフランドル楽派のポリフォニー音楽は次第に下火になり、ジョバンニ・ガブリエリ(1557-1612)やパレストリーナ(1525?-94)など、イタリア出身の音楽家が台頭するようになります。

 特にヴェネツィア楽派と呼ばれるジョバンニ・カブリエリを中心とした作曲家たちは、祝典的な性格を持った器楽合奏曲や教会音楽を作曲し、その二重合唱方式は、合唱やオルガン、器楽合奏などを動員して劇的な緊張感を生み出す事に成功しました。

 そして、ジョバンニ・カブリエリの器楽合奏のための《ソナタ・ピアン・エ・フォルテ Sonata pian'e forte 》(1597年出版)は、弱奏(ピアノ)と強奏(フォルテ)、および使用楽器が作曲者によって楽譜上に明記されたもっとも古い合奏曲のひとつであり、ふたつのきわだった音量の対比などによって、すでにバロック音楽のひとつの方向性を示しています。


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 このようなイタリアでの音楽活動に交応しつつ、16世紀の末頃のフィレンツェでひとつの音楽運動がはじまります。その運動を指導し、今日のオペラに近い形を試みた人文主義の詩人や音楽家たちによるグループは「カメラータ Camerrata(仲間ないしは同人)」と呼ばれています。

 カメラータの活動は『古代ギリシアの音楽劇の再興』を意図したものでした。その際、ギリシア悲劇の台詞はすべて朗唱調で歌われていたと想定した彼らは、すべてのセリフを音楽として歌う劇を作り上げたのです。

 「歌いながら、しかも話をしているように聞こえる音楽」を理想としたカメラータが考案したセリフの歌い方は、一般にモノディ(monoody)と呼ばれています。そしてモノディは、出来るだけ単純な伴奏による独唱の形をとるのが望ましいとされていました。

 この考えに従って最初に上演されたのが1598年にヤコポ・ペーリが作曲した《ダフネ》ですが、残念ながらその楽譜は散逸しています。現存する最古のオペラは同じヤコポ・ペーリが作曲し、1600年にフランスのアンリ4世とマリア・デ・メディチの結婚を祝して上演された、ギリシア神話のオルフェオ伝説を題材とした《エウリディチェ》です。この劇の中では、感情をこめて語り歌うモノディ様式が一貫して用いられました。


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 しかしながら、カメラータの理論にそって作られたペーリやジュリオ・カッチーニ(1540?-1618)らのモノディによる劇音楽は、ことばを強調しようとするあまり劇としての動きが乏しく、音楽としても単調なものになってしまいました。ことばの表現を十全に行いながら、音楽も充分に楽しめる劇音楽の可能性は、1607年にマントヴァ公の宮廷で初演された、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)の作曲した《オルフェオ》によって初めて立証されることになります。

 モンテヴェルディは、マドリガーレの作曲においてポリフォニー形式を用いながらも、苦しみや悲しみをあらわすような感情的な言葉には、大胆な不協和音を交えるという作曲方法をとることで、従来の書き方では表現することの出来なかった、激しく強い感情を表現することを可能にしました。

 そこで、モンテヴェルディは《オルフェオ》においてモノディ方式を取り込みつつ、不協和音を交えたポリフォニー書法を駆使して劇と音楽との完全な一致を試みたのです。その結果、《オルフェオ》はカメラータの理論に基づきながらもそこから抜け出して、音楽だけでも充分楽しむことのできる劇的な音楽となっています。

 その後、1637年に最初の公開オペラ劇場であるサン・カッシアーニ劇場がヴェネツィアで開館され、オペラはそれまでの王侯貴族のための芸術から、大衆の娯楽としての性格を持つようになります。それに伴って、オペラ創作の中心もフィレンツェからヴェネツィアへと移動することになりました。

 1613年からサン・マルコ大聖堂の楽長として赴任していたモンテヴェルディも、ヴェネツィアの劇場に多数のオペラを提供したと言われています。

 今日、楽譜が残っているのは、わずかに《ユリシーズの帰還》と《ポッペアの戴冠》の2曲のみですが、特に《ポッペアの戴冠》は、古代ローマの歴史に基づいて皇帝ネロとその皇妃となったポッペアとの邪恋を扱い、それまでの牧歌劇としてのオペラから、人間のドラマとしての近代的なオペラへと一歩を踏み出しています。


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 バロックも中期にあたる1643年にモンテヴェルディが亡くなると、ヴェネツィアのオペラは彼の弟子に当たるフランチェスコ・カヴァルリ(1602-67)や、それに続くマルカントニオ・チェスティ(1623-69)の手によって継承され、ますます大衆化の度合いを深めていくことになります。

 もともとオペラ王侯貴族の祝典の際に演じられた悲劇や喜劇の幕間に挿入された、合唱や独唱、大規模な合奏などを駆使した音楽的な催し物である幕間劇(インテルメッゾ intermezzo)を母体として発達しましたから、もともと機械仕掛けの演出などによる華々しさを持っていたわけですが、大衆化に当たってそのスペクタルの度合いが上がり、その場限りの見せ場や聞かせ場が重視される事になります。

 オペラの旋律は叙情的な美しさが重視されるようになっていきますが、同時に劇の進行を明確に説明していく必要も生じたため、旋律美を強調したアリア(詠唱)と簡単な伴奏による早口の語りを中心としたレチタティーヴォ(叙唱)に分離して行く事になりました。

 そして、意表をついた演出や豪華な舞台装置、きらびやかな衣装などが重要な役割を果たし、流麗で耳に心地よい旋律を歌う少数のスター歌手が喝采をはくす、大衆受けする大スペクタクルへとオペラは変貌していきます。


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 オペラの繁栄と平行して、バロック期のイタリアでは世俗歌曲の分野でカンタータ cantataという形式が繁栄しました。カンタータはイタリア語の「カンターレ=歌う」に由来する言葉で、17世紀中頃までは一定の形式をあらわすものではありませんでした。それが、17世紀半ば頃になると世俗的な内容による独唱ないしは重唱のための、通奏低音(ハープシコードなどの鍵盤楽器やリュート撥弦楽器による伴奏者が、与えられた低音の上に即興的に和音を補いながら完成させる伴奏声部)つきの小声楽曲をカンタータと呼ぶようになりました。

 カンタータは、オペラと同様にアリアとレチタティーヴォの両方を含むいくつかの部分で構成され、アリアとレチタティーヴォの交代を原則とする形に次第に固定化していきます。モンテヴェルディ晩年の通奏低音付きの独唱ないし重唱のためのマドリガーレも、一種のカンタータと見なせなくもありません。

 初期のカンタータの作曲家としては、ルイージ・ロッシ(1597?-1653)やジャコモ・カリッシミ(1605-74)、マルカントニオ・チェスティなどが上げられます。


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 バロック後期、17世紀の終わりから18世紀にかけてのイタリアのオペラは、その中心地をヴェネツィアからナポリへと移します。そして、ナポリ派のオペラはヨーロッパ各国で一世を風靡することになります。

 ナポリ派の創始者とも言われるアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)はシシリーのパレルモの出身で、最初はローマで活躍していました。1683年にナポリに移り、それまでに開発されたオペラの様々な要素を整理統合して、オペラ・セリエ(opera seria 正歌劇)と呼ばれるバロック・オペラの定型化に力をつくしました。

 スカルラッテのオペラは急−緩−急の3部構成の短い序曲(この構成の序曲をイタリア式序曲といいます)ではじまり、古代の物語や神話に題材をとった劇が、原則として3幕の物語として展開していきます。オペラ全体は物語を進めるレチタティーヴォと登場人物の感情をあらわすアリアが規則的に交代す形で構成されていました。そこで歌われるA−B−Aという反復形式を定型化した、3部形式によるダ・カーポ・アリア(da capo aria)は、1720年代には一般的なアリア形式となったものです。

 ところでこの時代、聴衆の興味はもっぱらアリアに集中したため、ナポリ派のオペラはアリアを偏重する傾向がありました。従って、劇の重点と音楽の重点が食い違うなど、他の要素をないがしろして劇作品としての密度を薄めることにもなったと言われています。

 しかしながら、旋律の軽やかさや自然な歌いやすさがあるのも事実であり、劇的な表現性よりも美しい響きと華麗な技巧を誇る、ベル・カント(bel canto 美しい歌)様式の唱法や書法が確立された時期でもあります。そして、現代に通じるオペラの原型を作ったのもまた、ナポリ派の作曲家達であったと言えます。

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 オペラの大衆化は、バロック後期のオペラ・ブッファ(opera buffa)の登場によって、さらに促進されていきます。オペラ・ブッファはそのまま訳すと「道化たオペラ」という意味ですが、これはオペラ・セリエの幕間で気分転換のために上演されたインテルメッゾ(幕間劇)と呼ばれる音楽付きの笑劇が、独立して上演されるようになったことからはじまったと言われています。

 オペラ・ブッファのスタイルを確立し、広い影響力を持った重要な作品としては1733年に上演された、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)の《奥様になった女中 La sarve padrona》があげられます。この曲は、同じペルゴレージ作の《誇り高い囚人》のインテルメッゾとして上演された物ですが、この部分だけが圧倒的な人気を呼んで繰り返し上演されることになりました。

 気むずかしい金持ちに使える美貌と才知にあふれた小間使いが、策を弄してついには奥様の座をせしめるという内容の2幕もの喜劇は、ナポリで初演されてからわずかな期間で外国にも紹介され、ナポリやヴェネツィア、北ドイツのハンブルグなどで盛んになりつつあったオペラ・ブッファの発展に勢いを与えました。

 ペルゴレージの《奥様になった女中》がなければ、モーツァルトの《コジ・ファン・トッテ》や《フィガロの結婚》もなかったかも知れません。庶民を主人公にした風刺の効いたブッファは、皮相的な笑いだけでなく平凡な人々の生活感情をリアルの描くことで、大衆の共感を得ていったのでした。


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 以上のように、オペラはイタリアで生まれ、イタリアで発達した音楽だと言えるでしょう。そして、ジョヴァンニ・ボノンチーニ(1670-1747)やニコル・ポルポラ(1686-1768)、ジャヴァンニ・パイジェルロ(1740-1816)、ドメニコ・チマローザ(1749-1801) などを経て、古典派のオペラへと継承されて各国に広がって行きます。

 そしてヨーロッパ各国のオペラは、イタリアのオペラをそのまま受け入れるか、あるいは反発することから始まることになりました。つまり、それぐらいイタリア・オペラの影響は絶対的で、国によっては国民オペラの台頭を見ながらも、その萌芽をイタリア・オペラによってついばまれてしまうことさえあったのでした。



 モンテヴェルディとスカルラッティ、ペルゴレージに関しては別に項目を立てますので、ここではそれ以外の作曲家の録音について触れておきます。

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 カメラータのモノディ形式のオペラは、今の所これといった録音が見あたらないようですが、モノディ形式の歌曲としてはカッチーニの『麗しのアマリリ』が代表的な作品でしょう。この曲を含むモンセラート・フィゲーラス(S)が歌う「新しい音楽」は、サヴァールらの伴奏共々、非常に表情豊かな演奏を聴くことができます。

 コンラート・ユングヘーネルの伴奏でルネ・ヤーコプス(C-T)が歌う「RECITAL RENE JACOBS」の中の『麗しのアマリリ』は非常に説得力のある演奏です。

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 ヴェネツィア・オペラの作品としては、カヴァルリの「カリスト」がルネ・ヤーコプス指揮、コンチェルト・ヴォカーレの演奏で聴くことが出来ます。劇としての密度はあまりありませんが、バロック・アリアの愉悦を味わうことが出来ます。

 以前はチェスティの「オロンテア」もヤーコプスの指揮で録音があったのですが、今はカタログに見あたらないようです。パリゾッティが編纂した「イタリア古典歌曲集」の中に、テェスティの『私の憧れの人のもとへ』や『ついにお前まで私を苦しめようとてか』がとられているので、この歌曲集の録音などを聴いてみるのも良いのではないでしょうか。

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 初期カンタータの曲集としては、トラジコメディアがルイジ・ロッシのカンタータ集「ローマの歌姫たち(カンタータと舞曲集)」を録音しています。女声による2重唱や3重唱にキターロなどの器楽を交えた、とても艶やかで美しい演奏です。

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 ナポリ派のオペラは古典派に近いところに録音が固まっていて、バロック期はアレッサンドロ・スカルラッティでさえ「イタリア古典歌曲集」におさめられている何曲かと、歌劇「ピロとデメトリオ」のアリア『スミレ』ぐらいしか聴くことが出来ません。これからの録音の充実を望みたいところです。

 カウンター・テナーのNicholas Claptonが歌うポルポラのカンタータ集「SIX CANTATAS」や、Ens. Auroraの演奏するボノンチーノのカンタータ集「Cant Italian」などから、そのオペラがどんなものであったのか、一端を想像することが出来るのではないかと思います。




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