アルス・スブティリオール
ARS SUBTILIOR




 14世紀後半、教皇庁がフランスの王権に屈服し、南仏のアビニョンに写されたアビニョン幽囚(1309-76/7)のあと、教皇グレゴリウス11世がアビニョンからローマに復帰した後もアビニョンでは対立教皇が立ち、1378年から教会は大分裂(シマス)の時代を向かえます。1417年のコンスタンツ公会議においてマルティヌス5世を選出して一応の終息をみるまでの14世紀後半から15世紀初めまでの、シマスの40年間と重なるようにして、南仏やイタリアなどでマショーの弟子達を中心に発達した音楽を「アルス・スブティリオール(Als subtilior)」と呼んでいます。

 「アルス・スブティリオール」という名称は、ラテン語の「繊細優美な subtilis」に由来し、「より繊細な技法」または「より敏感な様式」といった意味を持っています。

 実は、この名称が使われるようになったのは比較的最近のことで、マショーの死後のこの時代の音楽は、以前はアルス・ノヴァ後期の音楽として捉えられていました。しかし、その音楽の複雑さはアルス・ノヴァの様式をはるかに越えているという考え方が主流となり、今日ではこの新しい用語で呼ぶことが一般化しています。


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 その音楽は、イタリアのトレチェント音楽の要素を取り入れた美しい旋律と、過剰とも言えるほどに込み入った、複雑なリズムを特徴としています。フランスとイタリアの交流から生まれたこの音楽は、音楽史上稀に見る極端に知的で複雑な音楽様式で、これほど複雑なリズムの音楽は、以後20世紀になるまで書かれることはありませんでした。

 記譜方もそのリズムに対応して、分割記号(拍子記号)をひんぱんに変化させたり、赤色や青色の符を用いたり、さらには楽譜の形をハート型にしてみたり、円形やハープの形にするといったある意味で奇想天外な視覚的な工夫をこらした楽譜がつくられるようにもなっていきました。

 しかしながら、これら音楽はあまりに高度な理論に基づく音楽であったため、当時の人々に一般的に受け入れられた音楽ではないだろう、と考えられています。むしろ、「芸術としての芸術」であって、専門の演奏家と、特別な教養をそなえた一部の特権的知的階級(宮廷内の退廃的なサークル)といった人々の所有物であったと考えるのが妥当と思われます。

 このアルス・スブティリオールによって、中世の音楽理論によって支えられたポリフォニー音楽は頂点を極め、次第に沈滞していきます。そして、14世紀の終わりには、より新しく、より平明で実践的な音楽への欲求が強くなり、次世代の音楽への手探りがはじまって行きました。


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 今日の北フランスからベルギーにかけてのいわゆるフランドル地域、特にその東北端にあたるリエージュは、中世を通じて音楽教育のメッカでした。

 14世紀の終わりから15世紀前半にかけて、フランドル地方出身の音楽家たちがヨーロッパの各地方で国際的に活躍するようになります。彼らは、彼らが学んだ伝統的な音楽を各地に伝えるとともに、行く先々の音楽の特徴を吸収し、さらに新しい音楽様式を生み出す道を開いていきました。

 そのような初期のフランドルの音楽家たちのひとりが、ヨハネス・チコーニア Johanns Ciconia(1370?-1412)です。彼はリエージュに生まれ、15世紀後半にイタリアに渡り、フィレンツェ、ピサ、アッジシ、ナポリなどを巡り渡った後、北イタリアのパドヴァに定住し、その生涯を終えました。

 チコーニアは、異様なまでに込み入った複雑なリズムを刻むアルス・スブティリオールの音楽と、ランディーニに代表される優美な旋律を持つイタリア・トレチェント音楽の二つを織り交ぜながら、微妙なリズムと伸びやかな旋律とをもった宗教曲や世俗曲を作曲しました。彼の音楽はアルス・スブティリオールの特徴である倒錯的で迷路のようなリズムよりも、甘美な旋律線に重点が置かれた曲が多く、新しい時代を予感させるものになっています。


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 フランドルの新しい世代の音楽家たちは、中世のポリフォニーの伝統から学ぶべき所を学び、受け継ぐところは受け継ぎながら、より現実に即した新しい様式を開拓していきました。

 このフランドルの音楽家達が、ノートル・ダム楽派やアルス・アンティカ初期の音楽は伝えられたものの、それ以降は独自の道を歩まざるを得なかったイギリスの音楽に出会ったとき。それがアルス・スブティリオール、ひいては中世音楽の終焉の時であり、同時に、新しいルネサンス期の音楽へ進む出発点ともなったのでした。



 アルス・スブティリオールの音楽をはじめて聴いたのは、ロンドン中世アンサンブルによる「悪魔の歌/14世紀後半の世俗音楽集」でした。83年の録音で、今聴くと、「堅い」という印象を否めませんが、最初に聴いたときの衝撃と酩酊感はいまだにしっかり記憶に残っています。

アンサンブルPAN(Ensemble PAN)による「ARS MAGIS SUBTILITER」は、アルス・スブティリオールのシャンソンを集めた録音です。1曲目の冒頭が、いきなりサックスかと思うような音ではじまっていて度肝を抜かれますが、緊張感と乾いた叙情性をもった、ガラス細工のように美しい演奏を繰り広げています。

 この時代の音楽の録音として日本で一番手に入りやすいのは、パウル・ファン・ネーヴェル指揮、ウエルガス・アンサンブルの「フェビュスよ進め/ガストン・フェビュス伯の宮廷音楽」ではないかと思います。女声によるユニゾンで歌われていますが、ウエルガス・アンサンブルらしい暖かさに満ちた演奏です。

 マルセル・ペレス指揮のアンサンブル・オルガヌムによる「Codex Chantilly」は、男声による重唱で歌われています。美しさよりも、アルス・スブティリオールの技巧により重点を置いた演奏をしています。他の録音に比べるとごつごつした感じがありますが、技術面では文句の付けようがありません。

 フィリップ・ピケット指揮のニュー・ロンドン・コンソート/キャサリン・ボット(s)の「ARS SUBTILIOR」は、ボットの歌唱のすばらしさが際だつ録音です。演奏との息もぴったりと合っていて、あまりに軽々と演奏されているので、どこが超絶技巧なのか悩んでしまうほどです。

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 チコーニアの録音は、今のところ2種類しか聴いていませんが、どちらも美しい演奏です。
 アンサンブルPANの「Homage of Johannes Ciconia」は、このアンサンブルらしい、緊張感と透明感のある美しい演奏です。超絶技巧の曲ながら、頽廃感をみじんも感じさせない、清涼感に満ちた演奏です。

 マーラ・プニカの「Sidus Preclarum」はチコーニアのモテット全集です。アンサンブルPANとは対照的に、ソプラノやカウンター・テナーによる重唱は、揺れ動く音が甘美なまでの流麗感と酩酊感を醸し出す、不思議な音楽を作り出しています。




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