トマス・ルイス・デ・ビクトリア
TONAS LUIS DE VICTORIA
(1548?-1611)




 トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548?-1611)は、ルネサンス時代のスペイン最大の作曲家であると同時に、16世紀後半のヨーロッパにおける、もっとも優れた宗教音楽作曲家のひとりです。


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 1548年頃にスペインのアビラで生まれたビクトリアは、1565年頃にスペイン王フェリペ2世の奨学金を下賜されて、ローマのコレジウム・ジェルマニクム(ドイツ学院)に留学し、ここで音楽家としての教育を受けました。

 当時、同じ系列のコレジウム・ロマーヌム(ローマ学院)では、パレストリーナが楽長を務めており、ビクトリアがこの大家のもとで教えを受けたことは、間違いないと考えられています。

 1571年には、パレストリーナの後任としてコレジウム・ロマーヌムの楽長に就任し、1573年には母校コレジウム・ジェルマニクムの楽長に就任し、少なくとも1576年の12月まではこの地位にありました。

 彼が聖職者となったのは、1575年のことです。そして、1578年からは世俗のあらゆる地位を捨て去り、ローマのサン・ジロラモ。デッラ・カタリ教会の平の司祭となり、少なくとも1583年までをここで過ごしています。
 1583年ローマで出版され、フェリペ2世に献呈されたミサ曲集の中で、スペインに戻って、聖職者として生活がしたいという希望を述べたビクトリアは、その願いがかなって、1580年代のなかば(遅くとも1587年まで)には帰国しています。

 以後、フェリペ2世の妹であるマリア太后とその娘マルガリータ付きの司祭として任命され、彼女たちの住まいであったマドリッドのデスカルサス・レアレス修道院の司祭、楽長、オルガン奏者として活躍し、1611年8月27日にこの世を没するまでその地位にとどまりました。


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 ビクトリアの作品としては、ミサ20曲、モテトゥス46曲、イムヌス34曲、マニフィカト18曲、レクイエム2曲その他、ほぼ180曲の作品が残されていますが、そのすべては宗教曲であって、少なくとも現存する彼の作品の中には、一篇の世俗曲も存在しません。

 ビクトリアの音楽は、伝統的なフランドル楽派の通模倣様式(先行する声部の旋律が、一定の間隔をおいて他の声部に同等にあらわれる音楽書法)を基本としています。
 しかしながら、マドリガーレにも似た音と歌詞との密接な結びつきや、大胆に用いられた不協和音やホモホニックな手法は、ルネサンスが理想とした明るく澄んだ調和の世界とはまったく異なる、情熱的な音のドラマを展開しています。

 神に捧げられた敬虔な祈りの音楽の内に、抑えきれない情熱の叫びや神秘主義的な精神の高揚を記したそれは、ビクトリアと同時代に生きた画家エル・グレコ(1541-1614)の数々の宗教画のように、暗い色調の中にくっきりと表現される光にも似た、厳粛で静謐でありながらも劇的で力強さに満ちた、スペイン的な宗教的情熱をダイレクトに感じさせくれるのです。

 そして、数多いビクトリアの宗教曲の中でも、『死』を扱った「6声のレクイエム」と『受難』を扱った「聖週間のレスポンソリウム集」の二つは、狂気にも近い感情の高揚を感じさせずにはおきません。


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 ビクトリアは4声と6声の二つのレクイエムを作曲していますが、6声のレクイエムは1602年に亡くなったマリア太后の死を悼んで作曲された物で、6声のレクイエムRequiem(死者のためのミサ曲 Missa prp defunctis)に6声のモテトゥス、6声のレスポンソリウム、4声のレクチィオ(朗唱)各1曲が付され、全体で《死者のための聖務曲集》としてまとめられています。

 長く引き延ばされたグレゴリオ聖歌の定旋律(素材)の上に、各声部が分厚く絡み合い、もつれ合ってゆく挽歌は、地を這うようなバスの響きと、天上の高みへと昇って行こうとするようなソプラノが、息の長い大きなうねりを作っていきます。

 どこまでも美しいこの曲は、この世を去った貴婦人を悼むにふさわしい、音楽史上に輝くレクイエムの名作のひとつです。


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 「聖週間のレスポンソリウム集 (Tenebrao Responsories)」(別名「暗闇のレスポンソリウム集」)と呼ばれる18曲のレスポンソリウムは、1585年にローマで出版された「聖週間聖務曲集(Officium Hebdomadae Sanctae)」の中に含まれるものです。

 《聖週間》とは、教会歴で、復活祭(3月20日以降、はじめての満月の日曜日と決められています)に先立つ1週間のことを言います。
 これはいうまでもなく、信徒たちがキリストの受難をいたみ、悔悟のくれるための週間です。

 ビクトリアは、聖週間のうちでも特別な祭礼が行われる《枝の主日》(復活祭より1週間前の日曜日)、《聖木曜日》《聖金曜日》《聖土曜日》のために18曲のレスポンソリウム、9曲のレクツィオ(エレミアの哀歌)、ヨハネ伝とマタイ伝による二つの受難曲など、全部で37曲を作曲しています。

 4声で書かれたレスポンソリウムは、いずれも聖書の断片、あるいはその要約が使われており、ユダの裏切りによって十字架上の死に向かうキリストの信条を、ビクトリアは信者の悔悟を込めてせつせつと綴って行きます。
 イエスの受難を悼む心情が痛いまでに伝わってくる、短い中にも思いの丈を叩き込んだような、ほの暗く劇的な音楽は、魂の深みから沸き上がる人間の哀歓を表現して余すところが無いように思えます。


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 二つの傑作の前に隠れがちではありますが、ビクトリアの「アヴェ・マリア」や「大いなる神秘よ」などのモテトゥスもまた、熟練したポリフォニー書法とその強い表現意欲によって、不思議な感動を与えてくれます。

 内証的な、強い緊張感をはらんだ曲の数々は、その力感と厚みでもって聴く者に圧倒的な感動を呼び起こす、いびつで情感に満ちた、マニエリスムの芸術のひとつの典型と言えるのかもしれません。



 ビクトリアの「レクイエム」では、ピーター・フィリップ指揮、タリス・スコラーズ演奏の録音が最上だと思います。各声部を二人ずつで歌っていますが、磨き上げた声と完璧なハーモニーで端正に歌い上げられた素晴らしいレクイエムです。
 《死者のための聖務曲集》が完全に再現されていると言う点でも、出色の録音です。

 デイヴィッド・ヒル指揮、ウェストミンスター大聖堂合唱団による「レクイエム」は、ソプラノにボーイ・ソプラノを使った、残響のたっぷりした録音です。人数が多い分、厚みのあるハーモニーときつめの子音を特徴としますが、これも素晴らしい録音です。

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 「聖週間のレスポンソリウム集」では、タリス・スコラーズの洗練された歌唱も素晴らしいですが、私はプロ・カンティオーネ・アンティカの録音の方をよく聴きます。

 ブルーノ・ターナー指揮、プロ・カンティオーネ・アンティカ演奏の録音である「聖週間の応歌集」は、私が初めて自分で購入した古楽のディスクでした。
 ソプラノにカウンター・テナーを使って、各声部を1〜2名で歌っています。やや、ロマン的に流れる傾向があるかもしれませんが、私にとっては、この曲の持つ緊張感や迫真性をより強く感じさせてくれる、Bestの録音と言えます。

 《スペイン古楽集成》の中には、デ・ラ・クエスタ神父指揮、シロス・サント・ドミンゴ派修道士合唱団、他の演奏による「聖週間聖務曲集」全曲の録音があります。決して、上手いという演奏ではありませんが、当時の典礼を再現した記録的な価値の高い録音です。

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 ビクトリアのモテトゥス集としては、ジョルディ・サヴァール指揮、ラ・カペーリャ・レイアル・デ・カタルーニャ、エスペリオンXX演奏の「聖母マリアのモテトゥス集」が良いと思います。
 ビクトリアも含めて、スペインの作曲家の作品をラテン系の演奏家が録音したのもは少ないのですが、このディスクではサヴァールによる純ラテン的な演奏を聴くことが出来ます。




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