ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ
GIOVANNI PIERLUIGI DA PALESTRINA
(1525?-1594)




 15世紀から16世紀の中頃にかけてのイタリアの宗教音楽は、フランドル楽派の作曲家による、ポリフォニー様式の重厚な作品によってしめられていました。しかしながら、マルチン・ルターに代表される宗教改革に対抗するために開かれたトレント公会議(1546〜1563)において、多くの点で内部改革を迫られたカトリック教会は、宗教音楽についても見直しをせざるを得ませんでした。

 なぜなら、フランドル楽派のポリフォニーによる宗教音楽は、あまりにも技巧的で複雑になりすぎたため、歌われている歌詞は聞き取りにくくなっていた上、「恋人よさようなら」とか「口づけしてよ」などといった世俗的なシャンソンが、定旋律となってミサ曲の中で鳴り響くことも、典礼という観点からすれば歓迎されることではありませんでした。  

また、典礼の中にしめる音楽の比重が大きくなり、礼拝か音楽会かわからなくなっていったことも、教会当局としてはかなり具合の悪いことだったようです。

 公会議の席上、音楽は単旋律のグレゴリオ聖歌に限られるべきだ、という強硬な意見も提出されたようですが、最終的には穏健な線に落ち着き、ポリフォニー教会音楽も容認されることになりましたが、世俗シャンソンを定旋律にすることなどは禁じられました。また、中世以来愛唱されていたトロープスは全面的に、セクエンツィアも『怒りの日(ディエス・イラ)』など計4曲(後にもう1曲追加され、計5曲となった)を除いて使用を禁止されることになったのです。

 つまり、カトリック教会音楽全般に単純化と清浄化が求められ、残されたポリフォニーによる教会音楽についても、余りに技巧的で長大なものは忌まれ、言葉が明瞭に聞き取れなければならないという立場から、ラテン語の正しいアクセントやシラブル(音節)の長短を強調することなどが決定されたのでした。

 ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナがイタリア教会音楽の代表的な作曲家として台頭したのは、まさに、このような時期だったのです。


* * * * *


 パレストリーナは、1525年にローマ郊外のサビーネ山地にあるパレストリーナの町で生まれたと考えられています。
  1537年にローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会のリベリアーナ礼拝堂の少年聖歌隊員となり、この町の司教ジョバンニ・マリア・デル・モンテと親交を持ちます。ところが、この司教が1550年にユリウス3世として教皇に即位したのに伴って、1551年9月、パレストリーナはローマ教皇庁のジュリア礼拝堂楽長に任命され、1555年1月には無審査でランクが1つ上のシスティナ礼拝堂聖歌隊歌手に任命されました。

 ところが、同年3月にユリウス3世が崩御したことによって、パレストリーナの教皇庁での地位は不安定なものになります。そして、次の教皇マルチェルス2世は、わずか3週間と短命でしたが、次の教皇パウルス4世はシスティナ礼拝堂から既婚者を閉め出す規約を作ったため、パレストリーナは同年9月にシスティナ礼拝堂聖歌隊歌手を解任されてしまいました。

 しかし、パレストリーナは翌10月にはラッススの後任としてローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会の楽長となり、1560年7月までこの地位にありました。1561年から1566年まではサンタ・マリア・マジョーレ教会楽長を務め、1566年から1571年までローマのセミナリオ(神学校)の音楽教師として活躍し、同時期に枢機卿イッポリート・デステの聖歌隊でも活躍しています。
 そして、1575年4月には再び教皇庁ジュリア礼拝堂楽長となり、それ以後1594年に没するまでその地位にあり続けました。

 その名声は生前からすでに全ヨーロッパに響きわたっており、彼の葬儀に際してはローマのすべての聖歌隊が参加したといわれています。


* * * * *


 パレストリーナが残した作品の数は厖大なもので、その多くが生前に出版されました。それらの中にはマドリガーレなどのイタリア語による世俗作品もありますが、ほとんどはラテン語による宗教作品であり、現存するだけでも104曲にのぼるミサ曲をはじめとして、350曲以上のモテトゥス、その他オッフェルトリウムイムヌスマニフィカトなど多彩な作品を残しています。

 パレストリーナの作品は、フランドル楽派のポリフォニー様式を基礎に置きながら、イタリア風の三和音(ド−ミ−ソなど)を基礎とした澄んだ和声進行の上で、常に流麗で滑らかな旋律が鳴り響き、歌詞の抑揚や言葉の意味を明確にしていくというものでした。従って、ポリフォニーでありながら、常に魅力のある旋律が鳴り響き、縦と横のバランスが非常によくとれた音楽になっているのです。

 彼の作曲した「教皇マルチェルスのミサ」は、トレント公会議の強硬派をおさえ、典礼にふさわしいポリフォニー・ミサの存在が可能であることを証明するために作曲されたと伝えられています。歴史的に見て、この逸話は根拠のない伝説であることが証明されつつありますが、この逸話の中にパレストリーナの教会音楽が象徴的に語られているとも言えるでしょう。

 つまり、パレストリーナの音楽はその時代の要請にかなうべく、意識して人工的に作り上げられたものであって、その意味では、ルネサンスを代表する作曲家というよりも、むしろ、マニエリスムの作曲家と評されるべきかもしれません。

 パレストリーナの様式は教会音楽の模範として扱われ、彼は「教会音楽の父」として偶像的な存在にまで持ち上げられることになるわけですが、彼のミサの大部分がパレストリーナ自身ないしは先輩たちが作ったモテトゥスやシャンソン、マドリガーレなどの多声楽曲を改めて再構成したパロディ・ミサ(もじりミサ、改編ミサ)と呼ばれるものであることも、マニエリスムのひとつの傾向と言って良いのではないでしょうか。


 「教皇マルチェルスのミサ」の録音は、さすがに有名なだけあって何種類もありますが、曲自体が音楽的密度にはいささか欠ける、という傾向を持っているようで、“聴かせる”演奏にするのはなかなか難しいようです。私にとっては、プロ・カンティオーネ・アンティクァによる新旧2盤と、タリス・スコラーズの演奏によるものが聴きやすい録音の代表になっています。
 特に、ブルーノ・ターナー指揮のプロ・カンティオーネ・アンティクァの旧盤は、残響がたっぷりとした録音のせいか、適度な緊張感と伸びやかさが感じられ、一番気持ちよく聴ける演奏です。

 ピーター・フィリップ指揮のタリス・スコラーズはパレストリーナのミサ曲をよく演奏していています。中でも「ミサ・ブレヴィス」や「ニグラ・スム」など、どちらか言うと小規模なミサ曲は、すばらしい録音に仕上がっています。「ニグラ・スム」は原曲のレリティエル作曲のモテトゥスも合わせて収録してあり、自然に『パロディ・ミサ』というものがどんなものなのかが明確になるように構成された録音です。

* * *

 パレストリーナのモテトゥスを収めたものとしては、ブルーノ・ターナー指揮のプロ・カンティオーネ・アンティクァの「パレストリーナ・ミサ・モテトゥス集」がかなり良い出来だと思います。『バビロン川のほとりに』や『谷川慕いて』などを実にデリケートに、しかも安定性を持って歌っています。

 また、旧約聖書の“雅歌”を題材とした、ポール・ヒリヤー指揮のヒリヤード・アンサンブルの演奏による連作モテトゥス「ソロモンの雅歌」も、マドリガーレ的な性格の強いこの曲を小編成でしっとりと歌い上げ、名演と言って良いと思います。




[前の項目へ] [目次に戻る] [ホームに戻る] [次の項目へ]


2style.net