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中世のイギリス音楽は、3度(ド−ミ)と6度(ド−ラ)の和声の響きを多用して、当時の大陸にはない独自の響きを作り出しましたが、反面、「イギリス人はすべて同一のスタイルで作曲する」と皮肉られるほどに、没個性的な響きの音楽でもありました。 しかし、15世紀に入り、百年戦争の末期にフランス北部が一時イギリスの占領下におかれると同時に、イギリスと大陸との音楽交流が果たされ、大陸の音楽書法を学んだイギリスの作曲家達によって、ルネサンス音楽の方向付がなされていくことになります。 百年戦争末期のイギリスによる北フランスの占領は、イギリスの音楽家に新しいフランス音楽を知らしめるとともに、それまで不協和音を大胆にぶつけ合わせたような、いびつな響きを伝統としていたフランスの音楽家に、3度や6度の柔らかな和音をもたらしました。 このイギリスからもたらされた新たな和音の響きは、イギリスのダンスタブルの楽譜が、イギリスよりも大陸で多く残されている事からわかるように、フランス系の音楽家にとって、きわめて新鮮なものであったと思われます。 そして、14世紀にフランス、イタリア、イギリスのそれぞれの国で独自に発達した音楽形式は、15世紀中頃から融合しあい、ひとつの国際様式として完成されてゆくことなるのですが、その中心となったのは東フランスに栄えたブルゴーニュ公国でした。 ブルゴーニュは、現在はフランスの一地方にすぎませんが、14世紀から15世紀かけては、フランスの東部で栄えた大公国でした。特に1369年にフランドル地方を合併して以降、フランドル出身の多くの芸術家達が、直接間接にブルゴーニュ宮廷と関連をもって活躍します。 今日、ギョーム・デュファイ(1400頃〜74)やジル・バンショワ(1400頃〜60)、アントワーヌ・ビュノワ(1440頃〜92)ら、ブルゴーニュ宮廷と関係を持っていた15世紀のフランドル出身の音楽家達を、ブルゴーニュ楽派と総称しています。 彼らは、故郷であるフランドルで、中世以来、フランスを中心に発達していった多声書法を身につけ、さらに若い頃からイタリアで活躍して特有の旋律を学ぶとともに、百年戦争末期にはフランスやブルゴーニュに滞在していた、ダンスタブルなどのイギリスの作曲家から、イギリス特有の3度や6度の和声法を学んだと思われます。 ブルゴーニュ楽派の音楽の特徴は、イギリスで開発された3声を主体とする、柔らかな響きの多声書法にありました。世俗歌曲では、詩の内容と形式において、中世のバラードやヴェルレー、ロンドーなどを継承していますが、演奏形態としては、最上声部を声で歌い、下部2声を楽器で演奏する、ブルゴーニュ独自の3声のシャンソンになりました。 それらは、明るいメランコリーの色をたたえながら、ノスタルジックな黄昏のような憂愁をも合わせ持ったいます。素朴さと高雅さが矛盾することなく息づいた、宮廷風の愛を歌った多声音楽は、歴史学者のヨハン・ホイジンガー(1872-1945)「中世の秋」を思わせ、中世騎士歌曲の終結点を思わせます。 一方で、陽気な酒の歌や春の歌、新年の歌なども作曲され、ルネサンス盛期のシャンソンと比較すると、やや抑制された響きながらも、「ルンサンスの春」にふさわしい、洗練された歌曲も存在しています。 15世紀のブルゴーニュ・シャンソンには、古いシャンソンの伝統を継承する側面と、16世紀におこる新しいシャンソンへ発展する側面が共存しています。それは、ブルゴーニュ楽派が置かれていた位置を、象徴的にあらわしているのかもしれません。 宗教曲の分野では、ミサ通常文をまとめて作曲した通作ミサやモテトゥスが盛んに作曲されるようになります。 一般的に、ブルゴーニュ楽派による宗教曲は世俗音楽の影響が強く、歌謡的な旋律を最上声部に配して、それを下声部が支えるという、ブルゴーニュ・シャンソン風な様式のミサ曲やモテトゥスが多く見受けられます。 ところで、通作ミサを作曲する場合、ブルゴーニュ楽派の音楽家達は各楽章に音楽的な関連を求め、音楽作品としての統一をはかろうとするようになります。統一の方法としては、
このようにして、それぞれの国々で独自に展開していた諸々の音楽技法は、ブルゴーニュ及びその属国のフランドルで総合化されていきましたが、その仕事をもっとも精力的に果たしたのがギョーム・デュファイでした。 ギョーム・デュファイは、中世末期の諸々の作曲技法の総合者であると同時に、その作品のすべてに彼自身の個性を刻み込んで、その後のルネサンス音楽の方向性を決定づけた開拓者でもありました。ブルゴーニュ楽派のレパートリーは、そのままデュファイのレパートリーでもあったのです。 そして、若い時には積極的に国外に活躍の場を求め、年をとると故郷に帰って後進を育てたデュファイの生活スタイルは、その後のフランドル及び北イタリアの音楽家の基本的なライフ・サイクルとなりました。この循環があったからこそ、フランドルはルネサンス音楽をにない続けて行くことが可能だったと言えます。 また、デュファイが晩年に作曲したミサ曲は、その定旋律にグレゴリオ聖歌ではなく、当時流行していた《ス・ラ・ファス・エ・パル Se la face ay pale(もしも顔が青いなら)》や《ロム・アルメ L'homme arme(武装する人)》などの世俗歌曲を用いられています。 デュファイが宗教曲の定旋律に世俗曲を用いた理由はわかりませんが、多分に宗教的な要求というよりは、音楽的な統一性や作品の美しさに重きをおいたと選択だったと思われます。そして、この方法はルネサンスのミサ曲に長く使用されることになりました。 宗教曲への世俗曲の使用は、神よりは人間に重きを置いた、ルネサンス精神の表れともいえるのでしょう。音楽を使って神へ祈りを捧げた中世は、デュファイの登場を持って、確かな終わりを迎えたように思われるのです。 デュファイについては次に別途に取り上げるので、ここではそれ以外のブルゴーニュ楽派の録音を上げておきます。 同時代のバンショワのモテットとビュノワの「ミサ・ロム・アルメ」を収めたターナー指揮、プロ・カンティオーネ・アンティクァの録音は、瞑想的な雰囲気とともに、無限に飛翔していくような素晴らしい名唱を聴かせてくれています。 ジル・バンショワのシャンソンだけを19曲収めた、ドミニク・ヴェラール指揮のアンサンブル・ジル・バンショワによる「Mon souverain desir」は、ぜひ聴いて頂きたい1枚です。バンショワのみというのも珍しいのですが、それ以上に、この作曲家の醸し出す『中世の秋』の雰囲気をよくあらわしたディスクだと思います。 シャンソン集として、アントニー・ルーリー指揮のコンソート・オブ・ミュージックによる「シャンソニエ・コルデフォルム」は、ハート型をした美しい写本に含まれる、当時の世俗歌曲を録音しています。ルーリーらしい、端正で節度ある演奏で当時のヒット・ソングが再演されています。 また、1454年にリールで開かれた《雉の祭典》(フィリップ善良公と金羊毛騎士団が十字軍の結成を誓い合った会合)で演奏された音楽を再現したドミニク・ヴェラール指揮のアンサンブル・ジル・バンショワによる録音も、軟らかな声と繊細なそれをささえる伴奏楽器が甘美な演奏を聴かせてくれます。 |