石川啄木

岩波文庫「啄木詩集」より(1991年11月18日初版)
 心の姿の研究
   夏の街の恐怖
   起きるな
   事ありげな春の夕暮れ
   柳の葉
   
 騎馬の巡査
 詩六章
   路傍の草花に
   口 笛
   手 紙
   花かんざし
   あゝほんとに
   昨日も今日も
 呼子と口笛
   はてしなき議論の後
   ココアのひと匙
   激論
   書斎の午後
   墓碑銘
   古びた鞄をあけて
   
   飛行機
 「呼び子と口笛」補遺
   
   
   

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ひとりごと
 石川啄木と言えば、詩人としてより歌人としての方が有名ですよね。教科書などにも載っているし、受験などにもかかわって来るし、誰でも、「歌」の方ならひとつや二つは知っていると思います。ただ、ここではあえて「詩」の方を載せてみました。
 石川啄木の詩をはじめて読んだのは比較的遅くて、社会人になってからです。読んでみて思ったことは、啄木の詩は、歌よりもずっと演劇的だ、と言うことでした。啄木の歌は絵画的というか、読んでいると情景が絵か写真のよう感じで浮かんで来るものが多いのですが、詩の方は、一幕ものの演劇のような、または短編映画のような感じがします。
 ある種の緊張感が感じられるのも、啄木の詩の特長だと思います。歌から想像されるのとは違った彼の一面を伺い知ることが出来るのではないでしょうか。詩を読んでから歌の方をもう一度読み直すと、よく知っていると思った歌も、なんとなく別の表情を見せてくれるような気がする時があります。


石川啄木について
  • 明治末期の浪漫派の歌人、詩人。口語体の三行書きの生活派の歌をよみ、評論「時代閉塞の現状」などで社会主義への関心を示す。
  • 1886(明治19)年 2月20日 岩手県南岩手郡日戸村(現玉山村日戸)の常光寺に生まれる。本名一(はじめ)。
  • 1899(明治31)年 盛岡尋常中学校に入学。
  • 1903(明治35)年 文学で立身することを決意し、盛岡尋常中学校を退学。上京して与謝野鉄幹・晶子夫妻らと知り合う。
  • 1906(明治38)年 処女詩集『あこがれ』を小田島書房より刊行。堀合節子と結婚。
  • 1907(明治39)年 渋民尋常高等小学校の代用教員となる。小説『雲は天才である』を執筆(生前未発表)。
  • 1908(明治40)年 函館市弥生尋常小学校の代用教員・函館日日新聞社の遊軍記者となる。函館の大火により職を失い函館を去り、北門新報社(札幌)・小樽日報社を転々とする。
  • 1909(明治41)年 釧路新聞社に勤務。春、東京本郷に転住。
  • 1910(明治42)年 東京朝日新聞社に校正係として採用。雑誌「スバル」を創刊(発行名義人)。
  • 1911(明治43)年 処女歌集『一握の砂』を東雲堂書店より刊行。
  • 1913(明治45)年 4月13日、肺結核にて世を去る。享年27歳。死後、第二歌集『悲しき玩具』が東雲堂書店より刊行。


 ここに取り上げた詩は、明治42年12月〜明治44年2月までに書かれた啄木の晩年の作品です。歌と同様、啄木の真価は、処女詩集「あこがれ」の定型体詩ではなく、晩年の口語体詩にあったと言われているようです。
 『心の姿の研究』5篇と『騎馬の巡査』は東京毎日新聞(明治42〜43年)に、『詩六章』は雑誌「精神修養」(明治44年2月号)に掲載されたもの。
 『呼子と口笛』は明治44年に若山牧水の同人誌「創作」に発表した6篇の詩に2篇を加えて、詩稿ノートとして残されたものです。没後、土岐哀果編で刊行された「啄木遺稿」によって世に出されました。
 『「呼び子と口笛」補遺』の3篇は、上記の『呼び子と口笛』の原型となった、「創作」に発表された6篇の詩のもとになった、9篇からなる長詩「はてしなき議論の後」の中で、削除されて「創作」に掲載されなかったものです。

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