14 「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」 トラジコメディア
    ("Das Notenbuchlein fur Anna Magdalena Bach" Tragicomedia)


 多少落ち込んでいる時に気分を上昇させる曲というと、皆さんはどんな曲をお聴きになることが多いのでしょうか。私の場合は、どちらかというと少し明るめの、小曲がたくさん入った録音に手が伸びることが多いようです。

 それは、例えばトン・コープマンが演奏するオルガン曲集だったり、フランス・ブリュッヘンのリコーダー曲集だったり、ア・セイ・ヴォーチのシャンソン集だったり、ピケット指揮ニュー・ロンドン・コンソートによるスザート作曲の舞曲集だったり。つまり、その時々の気分によって様々に変わっていくわけですが、秋から冬にかけての一時に最もよく聴く1枚は何かと言われれば、トラジコメディアの演奏する『アンナ・マグダレーナの音楽帳』という事になるような気がします。


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 『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』とは、J.S.バッハが2度目の妻のアンナ・マグダレーナ送った音楽帳の事です。二人が結婚した翌年の1722年に、バッハから16歳年下の新妻に贈られた『音楽帳』第1巻はそのほとんどが散逸して失われてしまいましたが、1725年に贈られた『音楽帳』第2巻は現存しており、現在『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』というと、この第2巻を指しています。

 『音楽帳』第2巻は、まずバッハ自身が2曲を記入した後、妻であるアンナ・マグダレーナと子供達の手によって、バッハの作品だけでなく他の作曲家の作品も含めて、器楽曲や声楽曲など様々な楽曲が15年以上の長きにわたって、少しずつ書き込まれていったものです。

 大小合わせて40曲余りが収められたこの曲集は、現在ではともすればピアノなどの鍵盤楽器の教材、またはバッハ研究のための資料としてとらえられ、実際に演奏されることはあまり多くはありません。また、演奏されたとしてもピアノやチェンバロの独奏、またはそれらの楽器による伴奏がついた歌曲という形式のものが大部分のようです。

 実際にバッハ家においても、この音楽帳に収められた曲は子供達のチェンバロなどの練習用として使用されただろうとされています。けれど、簡単で平明に書き直されたそれらの曲は、バッハ家の子供達の音楽教材となったのみならず、バッハ家の日々の楽しみとしての、気楽な家庭音楽会用の楽曲を綴った、バッハ家の愛奏曲集であったと考えることも可能なのです。

 トラジコメディアの録音はその「家庭音楽」を再現するというコンセプトに基づいて、リュート、ハープ、ヴィオラ・ダ・ガンバという通奏低音楽器のアンサンブルと美しい歌声によって、「朝の目覚めから就寝にいたるまでの、バッハ家の1日を想定しながら演奏(アンドルー・ローレンス=キング)」された、優しい安らぎに満ちた録音になっています。


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 トラジコメディアは1988年にリュートのスティーヴン・スタッブス、ガンバのエリン・ヘドリー、ハープのアンドルー・ローレンス=キングという3人組によって結成された、通奏低音楽器ばかりで独奏楽器が全く無いという、かなり変わった編成の古楽合奏団です。結成メンバーのうち、アンドリュー・ローレンス=キングは後に脱退して、現在はハープ・コンソートを結成していますが、『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』は、ローレンス=キングがいた時期の録音です。

 バロック時代の合奏は、ヴァイオリンなどの独奏楽器と通奏低音楽器との組み合わせが一般的だったはずですから、バロック時代にトラジコメディアのような“通奏低音の楽器のみ”での合奏がひんぱんに行われたとは思えません。けれど、撥弦楽器だけで演奏される『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』は、どんな名手によるチェンバロ演奏の録音よりも明るく、新鮮な響きがあります。


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 『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』には、イーゴリ・キプニスがチェンバロとクラヴィコードで演奏した録音もあるのですが、むしろ、歴史的正当性には一切こだわりらないような、自由なトラジコメディアの演奏の方が、より大きな安らぎを与えてくれるように思えます。

 全体を通して聴いたときに、一番に印象に残るのはハープの音かもしれません。1曲目の「目覚めよと呼ぶ声あり」(この曲だけは本来の『音楽帳』には入っていない曲です)の伴奏のハープの音色が、とても新鮮に聴こえて来ます。そして、ハープの独奏による12曲目の「プレリュードとフーガハ長調」【音楽帳:第29曲】も、とても美しく安らぎに満ちています。

 また、午前中は5曲目【音楽帳:第6曲】のフランソワ・クープラン作曲「ロンドー〈牧歌〉」で、撥弦楽器による爽やかなアンサンブルを楽しみ、午後の休憩には11曲目【音楽帳:第20曲】「タバコのアリア」で一服し、夜寝る前に、最後を「眠れよ、汝疲れし眼よ」【音楽帳:第34、38曲】で締めくくるという、ウェットに富んだ楽曲構成も心憎いばかりです。

 ハープやリュート、そしてガンバの淡く優しい音色と、テノール、ソプラノ、バリトン、バスが各1名ずつの小編成のヴォーカル・アンサンブルが、家庭的な安らぎの世界を創り出していくこの録音は、難しい考証を抜きにして、聴いて楽しむべきものでしょう。

 お茶を片手に、バッハ家のホーム・コンサートに招かれてみませんか?

(2000/11/26)


「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」
"Das Notenbuchlein fur Anna Magdalena Bach"
 トラジコメディア Tragicomedia
  1991年録音 TELDEC(ワーナーミュージック) [WPCS-21072]

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