5 J.S.バッハ「ゴルトベルク変奏曲」(BWV988)
   (J.S.Bach:The Goldberg Variations(BWV988))


 バッハの鍵盤音楽の中で一番好きな曲をあげろ、と言われたとしたら、私の場合はチェンバロでは「ゴルトベルク変奏曲」、オルガン曲では「シュープラー・コラール集」になると思います。そして、「お気に入り」といえるほどしょっちゅう聴いているのはと言われれば、「ゴルトベルク変奏曲」の方になるでしょう。

 バッハの後援者であったカイザーリング伯爵が、眠れぬ夜を慰める音楽としてバッハに依頼し、伯のお抱えチェンバリストだったゴルトベルクが夜毎に演奏した、という有名な逸話を持つ《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏》は、私にとっても眠れない夜の大切な1曲になっています。


◇ ◇ ◇


 私がはじめて聴いたバッハのチェンバロ曲が「ゴルトベルク変奏曲」です。まだ古楽にはまる前、ノーマル(?)なクラシックファンだった頃に母が買ってきた、グレン・グールドのモノラル盤のピアノ演奏でした。
 その後カール・リヒターやグスタフ・レオンハルトのチェンバロ盤を聴いて、チェンバロの音の響きに感動すると同時に、グールドの演奏方法との違いに驚いたものでした。

 その後、何種類かの録音を聴きましたが、現在よく引っぱり出して聴いているのは、ピアノ盤ではグレン・グールド、チェンバロ盤ではトレバー・ピノックとユゲット・ドレフュスの録音です。


◇ ◇ ◇


 グールドの録音は、私などが言うまでもないほど有名なものです。グールドには、スタジオ録音の「ゴルトベルク変奏曲」が2種類あります。

 楽譜に記されている繰り返しを完全に省略した、38分間のはつらつとした、カミソリのような鋭さで一気に描き出される、色彩的でシャープな初期のモノラル盤(グールドのデビュー盤)も、彼の最後の録音となった、一部ですが繰り返しも行っている、51分間の、旧盤と比べればゆったりしたテンポのデジタル録音も、どちらも優劣を付けることが難しいほどの名演です。

 私はどちらも好きなのですが、最近はデジタル盤の方を聴く機会が増えました。ゆったりしたところはあくまでもゆったりと、そして、早い部分ではいっそう速いテンポで演奏されるリズムの対比の鮮やかさは、どこか墨絵やモノクロ写真のような、強い明暗の対比を感じさせます。

 停滞感とはおよそ無縁な、動感に溢れた活気のある演奏でありながら、彫りの深い厳しさと潔さ、そして静けさを感じさせるその音は、徹頭徹尾人工的でありながら、自然の大きさや水の流れを感じさせる、枯山水の庭園にも似た趣があるように思えます。


◇ ◇ ◇


 ピノックの録音は、チェンバリストとして4作目のバッハだったと思います。繰り返しをほとんど省略した、チェンバロを使ったグールド的な演奏の録音と言えるかもしれません。繰り返しも省略も、ピノックの判断によって行われています。

 みずみずしい躍動感に支えられた演奏は、一つ一つの変奏を生き生きと歌い上げています。当時のピノックの若々しく小気味よいリズム感と自発性に富んだ表現力で、60分という時間を飽きさせません。美しい響きで聞き手を引きつける、爽快な「ゴルトベルク変奏曲」を聞くことができます。


◇ ◇ ◇


 ドレフュスの録音は、同じチェンバロでも、ピノックとはまた対照的です。繰り返しを行う演奏は、全部で79分以上の長丁場です。

 それでも、彼女の使っているチェンバロの特性もあるのでしょうか、低音から高音まで実にまろやかな響きの、しっとりと落ち着いた演奏を聴かせて、ピノックとは違った意味で飽きさせません。明確に一つ一つの音や装飾が入念に弾き込まれ、なおかつそれらがバランス良く耳に響いてくる、とても上品なバッハだと思います。


◇ ◇ ◇


 4種類の録音は、その日の気分によって選んで聴きます。それぞれに個性的なので、どれか1枚に限定するのはことはなかなか難しい問題です。

 ところで、どの演奏も“子守歌”には向きません。カイザーリング伯爵とは逆に眼が冴えてきますが、聴いた後で、または聴きながら、良い音楽を聴いた充実感と幸福感が溢れてくる、本当に素晴らしい演奏であり、バッハの音楽の奥深さを感じさせてくれます。

 それにしても、最初に聴いたバッハのチェンバロ曲がグールドだったというのは、幸福だったのか不幸だったのか……、多分、幸福だったと思うべきなのでしょうが、あまりにグールドが個性的なので、彼以外のピアノによるバッハの演奏を聴くときに、ちょっと考えさせられてしまいます。

(1998/7/05)


J.S.Bach ゴールドベルク変奏曲(GOLDBERG VARIATIONS),BWV988  
 グレン・グールド(ピアノ)/Glenn Gould,Piano
  1955年録音 SONY CLASSICAL(ソニー) [SRCR-8923]
  1981年録音 SONY CLASSICAL(ソニー) [SRCR-2059]
 トレバー・ピノック(チェンバロ)/Trrevor Pionnock,Cembal
  1980年録音 ARCHIV(ポリグラム) [POCA-2112]
 ユゲット・ドレフュス(チェンバロ)/Huguette Dreyfus,Cembal
  1988年録音 DENON(日本コロンビア) [COCO-75631]

backindexhomenext