出生前診断を否定すべきではない理由

earth

分科会H コーディネーター mady

私は障害について否定的である。

私はダウン症児たちと遊ぶボランティア活動に 何度か参加したことがある。彼らと遊ぶ時間は、1回だいたい2〜3時間程度で 世話をするというより本当に遊ぶだけなので、 負担に感じることはあまりない。しかし親たちは少し疲れている様子で バレーボールなどのレクレーションに参加するという事は少ない。 私はこのボランティアは誰のためにやっているのだろうと考えたが、 障害児に対して行っているのではなく、 障害児をもつ親を、子育て(障害者養護)から一時的に解放するためのボランティアであるように感じた。

人間の子供の場合、いわゆる子育ての期間と言うのは大体15年くらいだろうか。 それ以降は(個人差は有るものの)大して手はかからず、将来的には親の老後の面倒をみることが多い。 一方、ダウン症児は障害の度合いとしては大した事はないが、 『一生子供』と言う表現が適当であると言える。ダウン症児の平均寿命は大体50歳と言われている。 つまり子育てが50年続く訳だ。「ずっと子供なのでかわいいと」言う肯定的な見方もできるが、 一生子育てをしなければならないと言う負担は、育てる側にとってかなりの負担になる。 その負担を承知で産み育てたいと言う人に対して『産むな』と言う必要性は全く感じないが、 そのような負担をしたくないと思う人に対して負担を強要させるようなことがあってはならないと思う。

優生思想

出生前診断に否定的な意見をもっている人達は、優生思想につながる、 現在存在している障害者の存在の否定になる、と言うことが主な根拠であろう。 しかし『健康な子がほしい、障害のない子がほしい』と思うこと自体が優生思想であるので、 優生思想につながるとかつながらないとかの問題ではなく、そのものである。 では優生思想は悪なのだろうか。優生思想というと普通、ナチズムを連想させたり、 過去スウェーデンを初めとする多くのヨーロッパ諸国や、 日本などで福祉政策として行われていた障害者への強制避妊手術などの差別的暴力行為を思い起こさせるだろう。 そのために【優生思想】=【ナチズム・強制避妊手術】=【悪】、 ゆえに優生思想は悪、というイメージがあるのだろう。 しかし現在では、過去に行われていた差別的暴力行為を行っている国を私は知らない。 少なくとも過去、積極的に強制避妊手術を行っていたスウェーデン、ドイツ、 日本を始めとするある程度民主主義の根付いた多くの国では、 障害児の選別を行っていても、現在は強制不妊手術を行っていない。

これは優生思想を否定した結果ではなく、差別的暴力行為を否定した結果である。 『健康な子供がほしい』『障害のない子供がほしい』と思い、 それを実現する技術を利用することを許したとしても、強制避妊手術等の差別的暴力を許さない社会であれば、 過去のあのような事件は起こらなかったのではないだろうか。 個人の自由よりも国家全体を優先する全体主義的な社会風土ではなく、 民主主義が進み個人を尊重する社会風土があれば、あのような事件は起こらなかったのではないだろうか。 歴史は繰り返す、過去に起こったことだから現代でも起こる、という考え方はあまりにも短絡的な思考である。 民主主義の根付いた現代社会では過去の差別的暴力等の悲劇は起こらない。 仮に部分的に起こるようなことがあったとしても、差別的暴力行為が問題だと思っている社会であれば自然に解決する。 過去に事件が起きたときには社会が差別的暴力行為を問題だとは認識していなかった、そこに問題があったのだ。

病気・障害に対する嫌悪感

この問題だと障害をもっていない者にとっては考えにくいので、 だれにでも可能性のあるガンに置き換えて考えてよう。 ガンは、何らかの原因による複数の遺伝子の異常と、 環境因子による働きかけの両方があって初めて発現する病気だが、 先天的に遺伝子の異常をもっていた場合には将来ガンになる可能性が比較的高くなる。 自分がガンになりたくないと思うのは悪いことなのだろうか。 家族や友人がガンになって欲しくないと思うことは悪いことなのだろうか。 子供を産むときにガンになりにくい子供が欲しいと望むことは悪いことなのだろうか。 『ガンになりにくい子供の方が良い』、『障害のない子供の方が良い』と言う考え方は どちらも明らかに優生思想だが、それは許容されるべき範囲の優生思想だと思う。 病気や障害を嫌悪をするのは決して悪いことではない。

ガンという病気を嫌悪し、ガンにならないような生活に心掛けることは、 ガン患者を差別することになるのだろうか。もしそうであり、 ガンという病気をを嫌悪することをやめるべきだというのなら、 積極的にダイオキシン等の発癌物質を摂取し、ガンになるような生活に心掛けるべきだ。

病気や障害を嫌悪する感情は決して悪いことではないし、否定されるべき感情ではないはずだ。 病気や障害を嫌悪したからといって、それが病気の人や障害者を差別することに直接つながる分けではない。 もしも差別があるというのならばそれは嫌悪する感情に問題があるのではなく、別のところに問題があるのだ。 その問題を探したり取り除こうとせずに、嫌悪の感情だけを取り除こうとしても問題の根本的な解決にならないだろう。 むしろ誰でも持っているはずの感情を否定することによって、多くの人の人格を否定することになる。

障害者に対する差別を無くすようにする努力をすべきなのは当然の話だが、 だからといって『障害者を産まないようにすることは障害者差別につながる』とするのは早計すぎるし、 障害者を産まないようにする技術を封じ込めてしまうのは以っての外である。 病人や障害者を嫌悪するのは差別につながるが、病気や障害を嫌悪するのは悪いことではないのである。 例えば、ガンで後3年の命と宣告されたとしても残された時間を有意義に過ごし満足して死んで行く人もいるだろうし、 障害があり多少不自由があったとしても幸せに生活をしている人はたくさんいるだろう。 だが、だからといって、病気や障害が否定されてはいけない理由にはならないし、肯定される理由になるはずがない。

また実は、昔から多くの国で行われてきて現在でも否定されることがほとんど無く、 多くの人に受け入れられている障害児の出生予防に関する法律がある。 民法第734条近親婚の制限である。これは、遺伝的に近いもの同士であれば、 劣性の障害遺伝子がホモ(2nの染色体上で同一の遺伝子がそれぞれ1組揃うこと)になりやすいために、 それを防ぐため3親等内の傍系血族の間での婚姻を禁止しているのである。 つまり障害児の出生予防の一部は、法律で規定されており社会的にも認められているのである。 近親婚の場合だけ、障害児を産まないようにすることが、社会的に認められているのである。 出生前診断を考えるときには、この事を念頭において考えてみると見方が少し変わってくるかもしれない。

障害者差別

では、障害者に対する差別についてはどうだろうか。 『障害児を選択的に取り除くようになると障害者の数が減り、 それに伴いそれに対応する医者や施設の数も減り、 受けられるサービスの質が低下したり社会保障が減る』等の理由で、障害者を減らす技術を否定している者がいる。 確かに障害者をサポートする社会保障の質が低下することは問題であり、 サービスの質の向上や社会保障の充実を訴えるのはもっともな行為である。

しかしそのために、他人に負担を負わせたり、 減らすことができる障害を減らさないように強制させたりしてもいいのだろうか。 私は、AISD患者が自分の血液の入った注射器を通行人に射して回った、 と言う事件を思い出してしまった。過激な結び付け方なので反論も多いかもしれないが、 それを抜きにしても、自分の不利益の防止のために、 他人を犠牲にすると言う考えは、私にとっては耐えられないくらい非人道的な考え方である。

こんなことを本気で思っている人がまだいるのならば、他人のことを少し考えるようにしてほしい。 障害者に対する社会制度の充実を訴えることは決して悪いことであるはずが無い。 しかし訴えるために、何の罪も無い他人の生活を踏みにじってもいいなどとは思わない。 と言うよりも、そんなことはあってはならない事だと思う。 また、蛇足ではあるがいくら障害者や、障害をもつ親が、『障害があっても不幸ではない』、 『負担ではない』ときれいごとを言っても、このような主張があるということは、 現在の社会制度に不満がある訳で、つまりそれは負担になっている事の証拠である。

障害者が選択的に中絶される事が当然の社会になったとしよう。 この社会で障害児を産んでしまった場合、 『なぜ中絶しなかったの、何で産んだの』という目が向けられ、差別を受けると言うことは確実に起こってくることだし、 防がなければならないことである。しかし出生前診断が誕生するずっと以前から差別は存在するので、 出生前診断を否定したとしても問題の解決にはならない、 差別が無くなる訳ではないことは容易に理解できるだろう。 差別を無くさずに出生前診断を否定しても、差別される人間を増やすだけであって無意味である。 私は障害者に対する差別を無くす方法を、ここで提示することはできない。 それなのにこんなことを言うのは無責任だと思う人もいるかもしれない。 無責任であるが言わせてほしい、『出生前診断を否定するのではなく他の方法で、 障害者に対する差別や偏見を根元から取り除く方法を考えるべきだ』。

障害者存在の否定

出生前診断により障害児を産まれないようにする事は、 現存する障害者の否定につながると言う意見もある。 テレビで、出生前診断が始まる前に産まれた障害者が 『この検査が導入された後だったら私は中絶されていた』とコメントしているのを見たことがある。 『障害があると判れば中絶するということは、産まれない方がいいと言うことになる。 だとするならば今いる障害者も産まれてこない方がよかった、ということになり存在の否定になる』と言う人もいる。

どちらもショッキングな意見だが果たして本当にそうなのだろうか。 例えば、血友病などの遺伝性の病気の場合で考えてみよう。 血友病は血液凝固因子を造る能力が弱いために頻繁に血液製剤を投与しなければならず、 その生活に苦痛を感じることが多い。 その人が自分の子供に同じ苦しみを与えるのは忍びないと思い、 血友病の因子をもたない子を得ようとし、選別する技術を用いてそれを実現させたとする。 この場合、血友病の親は他の血友病の患者の存在を否定していることになるのだろうか、 自分自身の存在を否定していることになるのだろうか。 私はそうは思わない。やはり障害を否定することと障害者を否定することはイコールではない。 つまり、『出生前診断により障害児を産まれないようにしても、現存する障害者の否定にはならない』のである。

中絶

生命を断つ行為そのものである中絶についても少し考えてみる。 中絶とは『胎児が、母体外において、生命を保持することができない時期に、 人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出すること』と規定している。 この考え方は、胎児には生存権はあるが、胎児の権利と親の権利が衝突した場合には、 母体内で孕まれることによりのみ存在できる胎児は親がいなければ生命は成立しないので、 母体から分離したら生きていけない時期には親の権利を優先し、 母体から分離しても生きていける時期には子の生存権を親でも侵害してはならないという考え方である。 この考え方に異論を唱える人は少なく、現在の日本では社会的に受け入れられている。

また、中絶は出産経験のある女性に多く、特に『既に子供がいるから』と言う理由で中絶されることが最も多い。 さらに既にいる子供の人数が多くなるほど中絶する割合が高くなる傾向がある。 このデータを素直に読み取ると3人目、4人目…10人目と子供が増えるほど、 中絶されてしまうことが多いので。その子らは望まれない子であると言うことになる。 では兄姉が多いほど差別されるのだろうか。 人口抑制のため一人っ子政策を打ち出している中国ではそういうこともあるかもしれないが、 少なくとも日本を初めとする民主主義のある程度根付いた多くの国では、そのようなことは考えにくい。 仮に兄弟が多いことによって、差別されることがあったとしよう。 この場合に『現存する、兄弟を多く持つ子』への差別を無くすために、 『既に子供が数人いることによる経済的な理由で中絶すること』を禁止すべきなのだろうか。 私はそうは思わない。望まれない子供を中絶することは現存する子供の差別にはつながらない。 仮にそうであったとしてもそれぞれの家庭の事情に拠る中絶する権利を奪うべきではない。

過去の優生思想にもとづく強制避妊手術などの悲劇は『女性自身の決定権を尊重しなかった』ことにある。 出生前診断という検査を否定し検査を受ける権利・自由を奪うことは、 形を変えてはいるが『女性自身の決定権を否定している』ことにもなる。 自由や権利を奪うことで問題を解決しようというのは本末転倒のような気がするのは私だけだろうか。 出生前診断が問題として取り上げられる理由として、 今まで知ることができなかった情報を知ることができたと言う、新しい技術に対する漠然とした不安感、 もしくは、新しい技術の導入による変化を、予測することができないために生ずる恐怖感があるのかもしれない。 しかし自分や自分の家族に関する情報、もしくは自分が将来負うかもしれない負担に関する情報を調べる技術があるのに、 その利用を禁止しようとすることはどうしても民主的であるとは思えない。 将来自分が負うかもしれない負担を『知る権利』を奪うべきではないと思う。

まとめ

これまでの私の主張をまとめると次のようになる。

  1. 障害を持つ子供を産み育てることは(健常な子供の場合よりも)、精神的、経済的、肉体的負担が大きい。
  2. 子供が健康であって欲しい、障害がない子であって欲しい、と言う感情は優生思想ではあるが、 それを肯定したとしても、過去にあった障害者に対する強制不妊手術等の差別的暴力行為が、再び起こるとは考えられない。
  3. 優生思想そのものは、人間として当然の感情であり、決して悪ではない。
  4. 障害を嫌悪することと障害者を嫌悪することは別のことである。
  5. 障害があっても幸せに暮らしている人がいても、障害を嫌悪してはいけない理由にはならない。
  6. 他人を犠牲にし、自分の不利益の防止をするために、出生前診断を否定するという考えは非人道的である。
  7. 出生前診断を否定しても、障害者に対する差別が無くなる訳ではない。ほかの方法で差別や偏見を取り除くことを目指すべきだ。
  8. 出生前診断により障害者を産まれないようにしても、現存する障害者の否定にはならない。
  9. 将来生まれて成長する可能性のある生命を、現存する人間の事情に拠り奪ってもいいという原則がある。
  10. 将来自分が負うかもしれない負担を『知る権利』を奪うべきではない。

以上のような理由から私は出生前診断関連行政を積極的に進めるべきだと考えている。 といっても、医者や国家が出生前診断を積極的に薦めることとは違う。 『3人目は生まない方が良いですよ』などと医者がアドバイスをすべきではないのと同様に、 出生前診断をした方が良いですよなどと医者が検査を勧めるようなことがあってはならないと思う。 出生前診断関連行政を積極的に進めるということは、 検査により障害の有無しを調べることができるということを知らせる、ということである。 検査を受けるか受けないかはあくまでも患者が決めるべきであって、 国家や医者が受けるような圧力をかけたり、逆に検査を受ける機会を奪うような事があってもならない、と考えている。

最後に・胎児条項について

胎児条項について述べると答えは単純である。 母体保護法に『胎児に障害があれば堕ろしてもよい』という条項をいれることは、 障害者は中絶してもよい(殺してもよい)と国家が定めることであり、 国家が障害者は不必要と明示していることになる。 これは明らかに障害者差別につながるので民主主義の進んだ国家のすべきことではない。 最近(1999.2.末)日本母性保護産婦人科医会から胎児条項を認める見解が出された。 理由は障害児を中絶する際に経済的理由という名目に依存して中絶すべきではないということが大きな理由のようである。

中絶では3人目以降であるという理由で中絶される事が多いという事は前に述べたが、 これは当然経済的理由により中絶されている。 世界のトップクラスの経済力をもつようになった日本で、 3人目を育てるということは本当に難しい事なのだろうか。 確かに子供一人あたりにかける金額が減ってしまうし、 親が自由に使えるお金が減ることも確かだろう。 しかしそれが、1人の人間を殺すほどの理由になるかは、十分に考える必要があると思う。 にもかかわらずそれはあたりまえのように行われている。 この部分に関して議論を蒸し返すような事をするのは宗教関係者だと思われるかもしれないし、 生産性がないのでここでは行わない。 ここでは「3人目以降であるという理由で中絶される事」は常識として考えることにする。

私は、3人目以降の子供と障害者は同じ立場にあると思う。 3人目が経済的理由で中絶してもよいのならば、障害児も同様に認められるべきだと思う。 3人目以降は中絶してもいい、という胎児条項を入れるべきではないのと同様に、 障害児に関する胎児条項は必要ない。障害児だから中絶してもよい、と言うのではなく、 (障害が)精神的、経済的負担になると言う理由で中絶されるべきだと思う。 障害が、子供を育てるのに支障を来すほどの負担になるかならないかは、 あくまでも個人の価値観によって異なるはずであるからである。

障害者だからと言う理由で一律に中絶してもよいことにしてしまう事は、 『のび太のくせに』という理由でジャイアンにいじめられるのび太のように、理不尽である。 諸外国がどうであるということは問題ではない。 繰り返しになるが産むか産まないかの判断基準はあくまでも個人が持っているべきである。



私見・主義・主張 表紙へ

2style.net