Deep Sea/Text






蒼の聖域.2




「あー…かったり…」
 人気の無い非常階段の踊り場で、リョーマは大きな伸びと欠伸をした。外は素晴らしく良い天気である。階段の鉄柵にもたれかかって、リョーマはぼうっと景色を眺めていた。そんな非常階段の柵にさえ、優雅な流線形の装飾が施されている。
 この学園に入ってからというもの、毎日毎日質問攻めにあって、リョーマはかなりうんざりしていた。性格こそ生意気でいまひとつ可愛げに欠けるところがあったが、つり目がちの大きな瞳に長い睫、白い肌、さらに華奢で長い手足のリョーマの外見は、人目を惹くのに充分だった。そのためか初日に不二に言われた通り、話しかけられたり、あるいは遠巻きにじっと見られたり、とにかく学内のどこにいてもリョーマは注目された。
 慣れない日本の学校に、初めて着る制服。それだけでも充分窮屈な思いをしているというのに、連日これでは息が詰まってしまう。なんとかひとりになりたくて、リョーマはこの場所にやってきたのだった。
「ったく…恨むぜ親父…」
 憎々しげに呟いて空を見上げると、父親の笑顔が浮かんできてまた腹が立つ。学園が全寮制で、父親の顔を見ないで済むのがせめてもの救いだった。
 軽くため息をついて、リョーマは再び眼下に広がる景色を眺めた。一番端の校舎であるため、見えるものと言えば講堂の屋根と運動部のクラブハウス、あとは植え込みくらいのものだ。だが、よく目を凝らすと、クラブハウスの向こう…「白の学舎」との境界である壁の近くに、テニスコートらしき設備が見えた。
(そういえば、ここって硬式テニス部あるっけ…?)
 もっとよく見ようと柵から身を乗り出した時、不意に誰かに背後から肩を掴まれた。
「おい、お前!こんなとこで何してんだ」
「…?」
 リョーマが振り返ると、そこには少女が二人立っていた。返事もせずにじろじろと二人を眺めているその態度に腹を立てたのか、肩を掴んだセミロングヘアーにヘアバンドの少女の声がやや荒くなる。
「…お前、一年だな?上級生に向かって、なんだその態度は」
「…」
「何とか言え!」
「おい荒井、こいつが噂の編入生じゃないのか?ほら、アメリカから来たっていう…」
「なんだって?」
 荒井と呼ばれた少女はリョーマの肩から手を放すと、改めてリョーマの顔を見た。
「そうなのか?」
「…あのさあ」
 いかにも面倒だというふうに、リョーマはようやく口を開いた。
「さっきから勝手に話進めてるけど…アンタ、誰?」
「フン、編入したてじゃ知らないだろうから教えてやろう。俺は二年の荒井、こっちは池田だ」
 隣に立っているソバカスの少女を顎で指し示し、荒井はふんぞり返った。
「今日のところは大目に見てやるが、次から先輩にたいして生意気な態度をとったらこの荒井様がただじゃおかねえからな、覚えておけよ」
 勝手に盛り上がる二人を、リョーマは冷めた顔で見つめた。この手の輩はどこの世界にでもいるし特に珍しくもない。だが、
(良家の子女が集まるお嬢様学校、が聞いて呆れるよ)
 リョーマはフンと鼻で軽く笑った。それが燗に触ったらしく、荒井はリョーマのセーラー服の胸元を掴む。
「何が可笑しい!」
「別に?ただ、『お嬢様』にも色々種類があるんだなあと思ってさ」
「こ、この…っ!」
 さらに激高した荒井は、胸ぐらを掴んだままリョーマの身体を柵に押し付けた。その時、
「お前達!そこで一体何をしている!」
 凛と澄んだ声が階段の上から響き、三人は一斉にそちらを見上げた。
 非常階段の扉の前に立つ、背の高い少女の姿を認めた途端、荒井と池田の二人はぴしっと直立不動の体勢になった。
「ぶ、部長…!ご、ごきげんよう」
 二人が部長と呼んだその少女はゆっくりと階段を下りてきて、三人の目の前に立った。
「荒井に池田か…。ここは、非常時以外立ち入り禁止のはずだが」
「あ、あの…その、こ、この一年生が非常階段に出ていたので、注意しようとしてたんです!」
「そ、そうそう!」
 少女は黙って二人の顔を交互に見ていたが、やがてその視線をリョーマに移した。目があって、リョーマは乱れたセーラー服の襟元を直していた手を、思わず止めた。
(この人…)
 大きな目をさらに見開いて、リョーマは声もなくその少女を見上げた。
 とても、背の高い少女だ。リョーマが小柄なせいもあるだろうが、ゆうに頭一つ分は離れている。漆黒の髪に、対照的な白い肌。軽く肩にかかる程度の髪は、その一部がすくいとられ、後頭部のあたりで細い紺色のリボンがつけられている。フレームレスの眼鏡の奥の、切れ長の瞳が真直ぐに自分を見つめていて、リョーマは思わず唾を飲み込んだ。
(この人、すごく綺麗だな)
 顔だちならば、寮長である不二の方が華やかで、より美しいと言えるかもしれない。だが、目の前の少女が身に纏うその空気が、リョーマを圧倒する。
「…二人はこう言っているが…どうなんだ」
「…」
「聞こえないのか?」
 じっと顔を見つめたまま黙っているリョーマの態度に手塚は軽く眉を顰めた。四人の間に、張りつめた雰囲気が流れる。しかし、次の瞬間に聞こえた呑気な声が、その緊張が一気に解いた。
「あれ、みんなお揃いで、どうしたの?」
「不二」
 先ほど少女が現われた扉から、いつのまにか不二がひょっこりと顔を覗かせていたのだ。
「ふ、ふふふ不二先輩!」
「…あれ、なんだ越前君も一緒なのかい」
「知り合いか?不二」
「まあね。それより何かあったの?」
「この三人が非常階段にいたから、注意を」
「ふうん」
 形のよい顎を軽くつまんで、不二はちらりとリョーマの顔を見た。リョーマはそんな不二の視線にはまるで気がつかないといった様子で、じっと少女の顔に見入っている。不二は意味ありげにくすりと笑うと、穏やかな口調で言った。
「そっか…。でもみんな反省しているみたいだし、お小言はその辺で勘弁してあげたら?」
「しかし」
「ふたりとも、もう行っていいよ。ただしこれからは気をつけて、ね?」
「は、はいっ!」
「それじゃ、失礼します!ご、ごきげんよう…!」
 盛大に頭を下げると、荒井と池田は逃げるようにその場を立ち去った。二人の後ろ姿を見送ると、長身の少女は軽い非難の目を不二に向けた。
「どうしてお前はそう勝手な事を」
「まあまあ、いいじゃない。それに、越前君をちゃんと紹介したかったからさ」
「越前…?ああ、例の編入生か」
 少女は再びリョーマを見た。きついとも言えるその視線を、リョーマは真正面から見据える。不二が口を開くまで、二人は何故かそのまま無言だった。
「越前君、彼女はここ蒼の学舎の生徒総長で、手塚っていうんだ」
「…越前、リョーマです」
「手塚国光だ。よろしく頼む」
 頭だけで軽く会釈をした手塚に対し、リョーマも同じように返した。先ほどの荒井や池田が居合わせたら、その不遜な態度に腹を立てたかもしれない。だが、手塚は何も言わなかった。そのかわり、不二に対しては不機嫌な声で問いかけた。
「不二、確かお前が学園の案内をしたんだったな」
「そうだけど…それがどうかした?」
「非常階段と屋上は、非常時以外立ち入り禁止だと説明しなかったのか」
(あ…!) 手塚の台詞に、リョーマははっとした。不二はちゃんと説明をしてくれたし、リョーマも覚えてはいたのだが、それだけに他の生徒が誰も来ないだろうと思って、あえて出たのである。
 手塚は眉を寄せて、さらに不二を問いつめた。
「誤って転落した生徒がいるからと…。途中編入者にも必ず説明するように、言ってあるはずだ」
「あの、俺…」
「…ああ、うっかりしてた。説明するの忘れちゃったよ、ごめんごめん」
「え」
 リョーマは驚いて不二を見た。不二は悪びれるでもなく、相変わらずにこにこと笑っている。
「お前な…」
「だからごめんてば。次からはちゃんと説明するから。でも、これで越前君も覚えたよね?」
「あ、はい」
「そういうことで、今回は許してよ」
「まったく…」
 手塚は軽く不二を睨むと、腕を組んでため息をついた。
「まあいいだろう。だがまたこのような事があったら、次は生徒会室で説教だ」
「げ…」
「俺は会議があるから行くが、お前達もすぐに校舎へ戻るんだぞ、いいな」
「うん、わかった」
「…手塚先輩」
 立ち去ろうとした手塚を、ふいにリョーマが呼び止めた。
「なんだ?」
「…ごきげんよう」
 ふっと笑って、リョーマは先日不二がしたように、軽く膝を折ってみせた。その挑発的なリョーマの表情を、手塚は一瞬見つめたが、すぐにカンカンと規則正しい靴音を響かせて、校舎へと消えていった。
「…ねえ、なんで嘘ついたんすか」
 手塚の姿が消えると、リョーマは不二の顔を見ずに問いかけた。
「何事も、最初が肝心だろ?」
「恩に着たりしないっすよ」
「もちろん構わないよ。僕が勝手にした事だから」
 不二は嫣然と微笑むと、手すりを白い指先で撫でながら、階段を降りはじめた。
「…寮長サン、質問」
「何?」
 足を止めて不二が振り返ると、リョーマはおどけた動作で左手を軽く挙げてみせた。
「今の…手塚って人にも、なんだっけ…ステディ?な子っているわけ?」
 不二は一瞬きょとんとしたが、すぐにその特有な微笑みを浮かべて、興味深げにリョーマを見た。
「僕が知ってる限りではいないよ。手塚は見ての通り、ちょっと硬すぎるところがあるから…。人気はあるんだけどね、みんな憧れで終わっちゃうみたいだよ」
「そう。ありがと」
「…どういたしまして」
 不二の声と表情には何か含みが感じられたが、リョーマは敢えて無視して、もうひとつ質問をした。
「あと、ここのテニス部って硬式?」
「軟式と、両方あるよ。入部したいの?」
 リョーマがこくんと頷くと、不二はそれが癖なのか、小首をかしげて笑ってみせた。
「本来なら職員室で入部届けを貰ってきて提出なんだけど、君はいいや」
「なんで?」
「僕が、硬式テニス部だからさ。君の入部希望は僕から部長に伝えておく。放課後、直接コートへ来るといい」
「…どうも」
「楽しみにしてるよ」
 再び階段を降り始めた不二は、扉の前についてノブに手をかけたところで動きを止め、まだ階段の上にいたリョーマを仰ぎ見た。
「…ついでに言うと、うちの部長は手塚だから」
 短い沈黙が二人の間に流れる。リョーマはわずかに目を見開くと、小さな声で呟いた。
「ふーん、そうなんだ…」
「ふふっ、じゃあね、また後で」
 ガチャンと重い音をたてて扉は閉まり、非常階段にはリョーマただ一人が残された。
「手塚国光…か…」
 お嬢様学校も、存外悪くないかもしれない。リョーマは誰に見せるともなく不敵に笑むと、午後の授業を受けるために自らも校舎へと戻って行った。



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