Deep Sea/Text






破滅の君




「…」
「…」
 談話室を離れ、廊下を歩く二人はしばらく無言だった。神尾の手は、相変わらず跡部に掴まれたままで、半ば引っ張られるようにして歩いている。
「あの、破滅の君…」
「黙ってついてこい」
「は、はあ…」
 階段を昇り、最上階の廊下の突き当たりに着いたところで、ようやく跡部は手を離した。
「で?」
「えっ」
「だから、何かあったのか」
「それは…」
 神尾は迷ったが、助けてもらって黙っているわけにもいかず、事の一部始終を説明した。話が進むにつれて、跡部の秀麗な眉間には皺が出来ていったが、それもいたしかたないだろう。
「というわけで、部屋に戻れなくて…」
「…ったく、しょうがねえな。床に魔法陣なんか描いたら、後で消すのが大変じゃねえか」
「そ、そんなこと、どうでもいいだろう!俺は、本当に困ってるのに…っ!」
 顔を真っ赤にして憤慨する神尾を見て、跡部は人の悪い笑みを浮かべた。
「冗談だ。まあ、部屋割りのクジ運が悪かったと思って、諦めるんだな」
「でも…俺は今晩、どうすれば…」
「中庭で、野宿でもしたらどうだ。もうそんなに冷え込まないだろ」
「そ…そんな…」
 今にも半べそをかきそうなその様子に、跡部は苦笑した。
「やれやれ、本当に冗談が通じねえな、お前は」
 跡部は、顎で背後の扉を指し示した。 
「ここが誰の部屋かわかるか」
「誰の…って…」
 目の前の扉は最上階の、一番奥の南向きの角部屋だ。となれば、答えは一つしかない。神尾は思わず唾をのみこんだ。
「乗りかかった船ってやつだ。俺様の部屋に泊まれるなんて、滅多にねえぞ。有り難く思いな」
「ででででも…!」
「いいから、早く入れ。誰かに見られたら、困るのはお前じゃねえのか」
「うっ」
 たしかに、「破滅の君」の自室に入るところを目撃でもされようものなら、魔法陣どころの話ではない。明日から神尾の居場所は、この校内のどこにもないだろう。
「なにも取って喰ったりしねえよ。それとも何か、お前、俺様が怖いのか?」
「な、何言ってんだ、そんなわけねえだろ!」
 正直どきりとしたが、なんとか持ちこたえて、神尾は虚勢をはった。尤も、それくらい見抜かれているだろう事は、跡部の笑みから明らかだったが。
「お邪魔します…」
 恐る恐る扉を明けて、神尾は跡部の部屋に、足を踏み入れた。
「広いなあ…」
「感想はそれだけか?上級生はお前達と同じ部屋をひとりで使ってるんだ、広いのは当然だろう」
「そうか…」
 言われてみれば、破滅の君の部屋といっても、平素見なれた自分達の部屋と同じ造りである。室内の調度品も、若干サイズが大きいだけで、大した変わりはないようだった。
 それでも何か違う雰囲気を感じてしまうのは、やはりこの部屋の主人が跡部だからかもしれない。
 当の跡部は扉を閉めると、窓に近寄ってレースのカーテンを閉め、持っていたファイルを机の上に置いた。
「着替えは」
「持ってる」
「じゃあ着替えて、適当に座ってろ」
「はあ…」
「誰もお前の着替えなんか見ねえよ」
「〜!」
 椅子に座り、机に向かっている跡部の背中が笑っているのを悔しい思いで眺めつつ、神尾は急いで着替えを済ませた。神尾の寝間着は先ほどの観月とは異なり、どこででも見かけるような綿のパジャマである。それがなんとなく気恥ずかしかった。
 他に座るところがないため、ベッドに腰掛けると、測ったようなタイミングで跡部が振り返り、何かを投げてよこした。
「ほら」
「えっ?」
 手の上に落ちてきたのは、洒落たパッケージの、外国の菓子だった。
「どうせその調子じゃ、夕食食べ損ねたんだろ」
「…」
「こぼすなよ」
 再び跡部は姿勢を戻して机に向かった。
「あ、あの…跡部…さんは…?」
「俺は、向こうで食べてきた。遅くなるって、わかってたからな」
 向こう、とは蒼の学舎のことであろうが、そんなに遅くまで話し合わなければいけないとは。机に片ひじをついて書類をめくっている跡部は、やはりいくらか疲れているようだ。生徒総長も大変なのだなと神尾は思った。
「ちっ…。だからなんであいつは委員会をこんなとこに…。選抜試合のこと忘れてんじゃねえだろうな」
(あいつ、って誰だろ…)
 独り言の内容から、おそらく蒼の学舎の生徒総長だろうと予測されたが、どんな人物か神尾はよく知らない。ただ、テニスがとても強いというのを、噂で聞いた程度である。同じ学校とはいえど、二つの学舎の間にはそれだけの距離がある。
「神尾」
「…はっ、はい!」
 突然名を呼ばれて、神尾は思わずベッド上で背筋を伸ばした。
「お前、先に寝てろよ。俺はこいつを片付けないといけないからな」
「寝ろと言われても…」
 部屋は確かに広いが、床に寝られる程のスペースは残っていない。
「なんだ?俺様のベッドなんか使えないってのか」
「ええっ!?ち、違、ていうか、俺が使っちゃったら…」
「隅に寄っておけよ。まあ邪魔だったらたたき落とすがな。まさか歯ぎしりとか、しないだろうな」
「しねえよ!……多分」
「そりゃ結構」
(え、てことは…一緒に寝るって事!?)
 跡部はそれ以上何も言わず、仕事に没頭し始めた。仕方なくぎくしゃくとベッドに潜り込んだ神尾は、壁際に身体を寄せるようにして、跡部に背を向けた。テーブルランプの灯が、白い壁にぼんやりと跡部の影を映している。
 緊張で早くなる鼓動を静めようと、神尾はぎゅっと目を閉じた。ベッドからは、微かに、あのハンカチと同じ香りがする。しばらくの間、静かな室内には紙を繰る音と、ペンを走らせる音だけが響いていた。
 跡部の世界は、優雅で華やかで光に溢れていて、到底自分の手の届かない遠い場所だと、そう思っていた。生まれながらの恵まれたその境遇を、うらやましいと思った事もある。けれど、
(それだけじゃなかったんだな…本当は…)
 やがて、神尾はとろとろと眠りに落ちて行った。



「おい」
「……」
「おい、神尾。いつまで寝てるつもりなんだ、起きろ」
「ん…?」
 しばらくもぞもぞと身じろぎをしていた神尾は、はたと自分が置かれている状況に思い至って飛び起きた。
(そ、そうだった…俺、破滅の君の部屋に…!)
 机の上の時計を見ると、なんとまだ朝の六時前である。普段なら、ベッドで気持ちよく夢を見ている時間だ。跡部は、すでに着替えをすませて制服のリボンを整えていた。
「な、なんでこんな早く…」
「テニス部の朝練がある。それに、お前は早く部屋を出ないとまずいんじゃねえのか、アン?」
「!」
 跡部の言う通り、他の寮生が起き出してくる前に自室あるいは談話室に移動しないと大変な事になる。慌ててベッドから降りて、急いで制服に袖を通した。パジャマで廊下を歩いても寮則上の問題はないが、しないにこしたことはない。
「ところで、神尾」
「何?」
「まさか、一晩中俺のベッドを使っておいて、ただで済むと思ってねえだろうな」
「金なら持ってないぜ」
「残念だが、お前から金を取るほど落ちぶれてねえよ。…身体で払ってもらうぜ」
「な、な、な…!」
 ぼっと耳まで赤くして慌てる神尾を面白そうに観察してから、跡部は目の前にひらりと一枚の紙を突き付けた。
「何、これ…」
「テニス部の練習日程表。明日の放課後から練習に来い、いいな」
「か、勝手に話をすすめるな!どういうことだよ」
「身体で払ってもらうって、今言ったばかりだろ?」
「そういうことじゃなくって…!」
 神尾は、どの部活にも所属していない。スポーツは好きだったが、これ以上人間関係のストレスを作るのが嫌だったからである。
「ちなみに、お前に選択権はねえぞ。入部届けは、俺が先週のうちに出しておいて、もう受理されてる」
「〜!」
「せっかく神が与えたその足を、無駄にするのはもったいないからな。有効に活用してやろうっていうんだ。感謝しろよ」
 反撃の言葉が見つからないままおろおろしている神尾を、さり気ない動作で跡部は部屋の外へと押し出した。
「じゃあな、神尾。…ごきげんよう」
 白いドアは、妖艶な笑みと共に鼻先で閉まった。



「はあ…俺の人生って一体…」
「気の毒だったね」
「なっ…!元はと言えばシンジ!お前のせいなんだぞ」
 朝食を終えた神尾は、伊武と共に登校した。部屋に戻った時にはすでに魔方陣とやらは跡形もなく、結局昨晩何が行われたのか、神尾は知らされないままである。
「破滅の君の部屋に入れたんだから、よかったじゃん。俺に感謝してよね」
 伊武の方はまったく悪びれる様子も無い。それどころか、いけしゃあしゃあとそんなことを言うので神尾は呆れてしまう。そういえば、先ほど跡部にも似たような事を言われたような…。
「で、どうだった?」
「何が」
「一緒に寝たんでしょ?」
「い、いいいい、い、一緒になんて…!そんな…」
「違うの?」
「…ていうか…」
 疲れていたため、昨晩は横になってすぐに眠ってしまったし、目覚めたらもう跡部は起きていたので、結局のところは何も覚えていないのである。話を聞いた伊武は、普段より一層冷ややかな表情で神尾を見つめた。
「ふうーん。せっかくのチャンスをそうやって無駄にしている時点で、君の人生なんてたかが知れてるんじゃないの」
「チャンスってなんだよ!大体何でそこまで言われなきゃ…」
 憤慨しつつ教室に入った神尾は、いつもと違う何かを感じて立ち止まった。もうじき始業時間だというのに、空席が目立つ。
「あれ?なんか今日、人数少ないな」
「…そう?」
 ホームルームが始まっても、席の主が現われる事はなかった。担任は、原因不明の発熱で寝込んでいると説明した。
「…ですから、みなさん放課後お見舞いに行って差し上げてね。それでは、今日一日、元気にお過ごし遊ばせ…」



「それにしても、あいつらまとめて休むなんてな。昨日あんなに元気だったくせに…」
 不謹慎ではあるが、嫌がらせをしてくる人間がいないということに、やはり多少の嬉しさを禁じ得ない。神尾は久しぶりにのびのびとした気分で廊下を歩いた。一時間目は、理科室まで移動である。
 神尾の少し後ろを黙って歩いていた伊武が、渡り廊下に差し掛かったところで、ぽつりと呟いた。
「…効いたみたいだな…魔法陣…」
「何だって?」
「…。なんでもない。先行くよ」
「あ、おい待ってくれよー、シンジ!」
 小走りに立ち去る伊武の後を追いかけながらふと窓の外に目をやると、校舎の窓ガラスが反射した光が瞳を射した。
(いつのまにか、夏なんだ…)
 そういえばさっきは焦っていて気がつかなかったが、昨晩適当にたたんで部屋の隅に置いたはずの制服が、朝には綺麗にハンガーにかけられていた。自分が眠っている間に、跡部が整えてくれたのだろう。
 立ち止まって深く息を吸い込むと、次の瞬間、神尾は走り出した。横をすり抜ける時に伊武の背中を叩いてやる。いつもなら呪詛の五つも吐き出すはずの伊武が、今日は何も言わなかった。
 廊下を走るなと咎める誰かの声を聞き流して、神尾はポケットの中の紙を握りしめた。朝、跡部に渡された、テニス部の練習日程表。
「借りっ放しが嫌なだけだ…それだけなんだからな」
 何かが、はっきりと変わろうとしている。それがどう転ぶか、今はまだわからない。だが、神尾は決めたのだった。今はただ、賭けてみよう、と。

  跡部が与えてくれた、この機会に。


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