Deep Sea/Text






破滅の君




 その日、神尾が寮に戻れたのは夜七時を大きくまわっていた。当然、夕食は食べ損ねた。部屋にいくらか菓子の買い置きがあるので、今晩はそれで凌ぐしかないだろう。
 原因は、居残りをさせられていたからである。神尾を目の敵にしているグループと、些細な事で諍いになった。それは珍しくない事だったが、たまたまその現場を、やはり神尾をよく思っていない古参の教師に目撃されたのである。運が悪かったとしか言い様がない。
「今どき罰掃除なんて前近代的だよな…」
 つぶやきながら歩く神尾のスカートは汚れている。小競り合った少女に突き飛ばされた先の床が、バケツの水で汚れていたからだ。もっとも、それも計算のうちだったのかもしれない。
 尻餅をついた神尾を見下ろして笑う少女達の顔を思い出すと、ふつふつと怒りが込み上げてくる。本当に、この学校は色々と前近代的だ。それでも以前に比べれば随分と居心地がよくなった。慣れもあるが、一番の理由はやはり「破滅の君」こと跡部景吾の存在だろう。
「別にそれだけじゃないけどさ」
 誰も聞いていないのに言い訳をして、神尾は自室のドアノブに手をかけた。
「…?」
 しかしノブはがちゃりと音をたてただけで、まわらなかった。内側から、鍵がかかっているようだ。
「え、なんで?」
 耳をそばだてると、部屋の中には確かに人の気配がする。神尾は軽くノックしたが、反応がない。
「おーい、シンジ!いるんだろ?開けてくれよ」
 ドンドンとドアを叩きながら、神尾はルームメイトに呼びかけた。だが、相変わらず中からは何の応答もない。
(まさか具合が悪くて倒れているなんて事…)
 最悪の事態を想定した神尾は、さらにドアをたたき、大声で叫んだ。
「シンジ!シンジ!返事してくれ!」
「…うるさいなあ」
「ぶあっ!」
 突然開いたドアに思いきり鼻を打たれ、神尾はその場に蹲った。
「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ」
「ひ、ひんひ…」
 鼻を押さえた神尾が涙目を向けた先、細く開けられたドアの隙間に伊武の顔が見えた。
「なんだよ、いるなら返事してくれよ。倒れてるんじゃないかって心配しただろ」
「何いってんの?そんなわけないでしょ」
「…。とにかく中にいれてくれ」
「だめ」
「そう、駄目…って、なんで!」
「取込み中だから」
 神尾はドアを引いてみたが、びくともしない。伊武はその華奢な見た目にそぐわず、意外と力があるらしい。
「お前こそ何言ってるんだよ!俺の部屋でもあるんだぞ!」
「知ってるよそんなこと。でも今晩は、神尾が寝る場所無いから」
「なんで!?」
「…魔法陣…」
「…え?」
「魔法陣を書いてる途中なんだ。床に。だからベッドも寄せちゃったし」
「…」
 神尾が絶句していると、伊武は再びドアを閉めようとした。
「ちょ、ちょっと待て!魔法陣てなんだよ」
「魔法陣を知らないの?」
「いやそういう問題じゃなくて。俺、今晩どうするんだよ!」
「…それもそうだね」
 意外にもあっさりと発せられた伊武の言葉に、神尾はほっとした。
「ちょっと待ってて」
 伊武が部屋の奥にひっこみ、扉が閉まる寸前に、隙間から室内の様子が伺えた。ルームライトは消され、ゆらゆらと蝋燭とおぼしき灯が無気味な影を形作っている。
(一体何やってるんだろう…)
 神尾が言い様のない不安に駆られていると、再び扉が細く開き、伊武の半身が現われた。
「はい、これ」
「ん?」
 ドアの隙間から手渡されたものは、神尾の寝間着と歯ブラシのセットだった。
「それでいいでしょ。じゃあね」
「え、ちょ、ちょっと待っ…!」
 バタンと非情な音をたてて、ドアは閉められた。神尾は慌ててドアに手をかけたが、すでに鍵がかけられているらしくびくともしない。
「シンジ!開けてくれよ!シンジー!」
「ちょっと、うるさくてよ!」
「静かになさい!」
 周囲の部屋の扉が次々と開き、少女達が苦情を言い始める。神尾はとりあえず謝ったが、しかし一体これからどうすればよいのか。
 伊武の様子からして、今夜はこの扉が開くことはないと思われた。だが、神尾に自室以外のゆくあてなどあろうはずがない。
 寮には談話室があるが、夜八時までしか使えない。それ以降は、各自部屋へとひきとるのが寮則である。こっそり使っているところを見つかれば、当然罰則がある。もっとも、年頃の少女達は八時以降も友人の部屋に行くなどして皆が皆規則を守っているわけではないが、神尾には居候できる友人がいないのだ。
「ど…どうしよう…」
 教師に散々嫌味を言われてこき使われ、おまけに夕食もとっていない。一刻も早く休みたいというのに、唯一の居場所さえ奪われてしまった(しかもよくわからない理由で)。神尾は我が身の不運に泣きそうになった。


 「…誰もいないよな…」
 談話室の扉をそっと開けて中を伺う。真っ暗な室内に人の気配は無い。神尾はなるべく音を立てないように、そっと中に滑り込んだ。
 今晩はなんとか寮内でやりすごすしかない。談話室のソファの陰で横になれば朝までいられるかもしれないと、神尾はそう結論付けた。
「あーもう、なんで俺がこんな目に…」
「…ちょっと!誰ですそこにいるのは!」
「う、うわっ!」
 突然甲高い声と共に、神尾に向けて懐中電灯の灯が向けられた。
「ま、まぶし…!」
「今何時だと思っているんですか!」
 パチリ、と音がして部屋の電灯がつけられた。談話室の入り口で懐中電灯を片手に仁王立ちしていたのは、上級生の観月はじめだった。
「げげっ!」
 よりによって観月とは。神尾はつくづく自分の運のなさを呪いたい気分だった。
 観月はじめは、この白の学舎側の寮長である。規律に厳しく、わずかな違反も見のがさない。彼女が寮長になってから、寮内が大変静かになったと教師からは評判である。当然、門限・時間にも厳しい。こんな時間に寮内をウロウロしているなんて、自ら虎の穴に飛び込んだようなものだ。
「何がげげっ、ですか。んー、あなたは…一年生の神尾さんですね。何をやってるんですか、こんなところで」
「すいません」
 目の前で腕を組んでいる観月を、神尾は思わずまじまじと観察した。
 襟元にレースがあしらわれた、床まで届く長さの真っ白いネグリジェ。頭にはやはりレースで縁取らられた、いわゆるナイトキャップを被っている。そのまぶしさに神尾は自らの置かれている状況を一瞬忘れた。ある意味、見事と言ってよいいでたちである。
 一体、こういうものはどこで購入しているんだろう。庶民育ちの自分には見当もつかない、と神尾は思ったが、実際は庶民でなくても難しい。
「僕は理由を聞いているんですよ」
「え…っと…」
 神尾は言葉に詰まった。「ルームメイトが魔法陣を描いているので部屋に戻れない」とは、口が裂けても言えない。
「あの、探し物を…」
「探し物?」
「は、はい。朝、寮のどこかで落としたみたいで」
「それなら明日探せばいいでしょう。それとも、今無いと困るものなんですか」
「いいえ、そんなことありません。明日にします。どうもすみませんでした」
 神尾は頭を下げて再び謝った。早くこの場をやりすごして、また別の手を考えた方がよいだろう。だが、観月は神尾を離さなかった。
「お待ちなさい。神尾さん、あなたなんですかその格好は。そんなに制服を汚して」
「あ、あの…学校の廊下で転んで…」
「んー、いけませんねそんなことでは。礼儀はまず身だしなみからですよ。いいですか、制服というのは……」
 いつのまにか身だしなみの講議が始まってしまった。逃げ出すわけにも行かず、神尾が頭を垂れて途方にくれていると、観月の背後から聞き慣れた声がした。
「何だ、お前ら」
「あ…」
 神尾が顔をあげると、そこには制服姿の跡部が不審そうな顔をして立っていた。
「おや?跡部さんじゃありませんか。あなたこそ、今お帰りですか」
「次の対抗戦の打ち合わせで、蒼に行ってたからな」
 蒼、とは蒼の学舎の事である。名目上は同じ学校のはずだが、あまりに敷地が広いため、お互いの校舎を行き来するのにもちょっとした時間がかかる。
「それはお疲れ様です。ですがあまり遅くなるのは感心しませんね。いくら生徒総長と言えど、門限は守っていただかないと困りますよ。他の生徒達にしめしがつかないでしょう」
 観月の態度に、神尾は少なからず驚いた。学内では教師ですら一目置いている跡部に対し、面と向かってここまでいう人間を見たのは初めてだった。
「仕方ねえだろ、日程が押してんだ。あいつも忙しいから、時間が取れないしな…」
 一度寮に戻ってから出かけたのか、跡部は鞄を持っておらず、代りにたくさんのファイルを抱えていた。その顔には、微かに疲労が浮かんでいる。
「そいつ、なんかやらかしたのか」
 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、観月は上体を逸らせた。
「ええ、神尾さんがこんな時間に談話室にいらしたので、注意を」
「フーン…」
 跡部はちらりと神尾の顔を見た。
「本当にお前は問題を起こすのが好きなようだな」
「…」
「そういう言い方はよくありませんよ。失礼でしょう」
 再び、神尾は観月をまじまじと眺めた。どういうつもりで口にしているのかは伺い知れないが、結果的には神尾をかばうかたちになっている。誰かが神尾の味方になってくれるなんてことは、入学してから皆無に等しかった。
「まあ、時間を守っていないのは確かですが…探し物をなさっていたそうです」
「探し物…?ああ、それなら俺が拾ったやつだな。やっぱりお前のだったのか」
「えっ?」
 思い掛けない跡部の台詞に、神尾は驚いた。もちろん、探し物なんて口からでまかせである。だが跡部は動じることなく、その態度はごく自然だった。
「見覚えがあったからそうじゃねえかと思って、俺が預かってるぜ」
「そうでしたか。よかったですね、神尾さん」
「え、あ、はあ…」
「ですが跡部さん、次からは拾得物は事務室か僕のところに届けて下さい。そういうきまりのはずですよ」
「わかってるよ。おい、行くぞ」
「え、あっ」
「何惚けてんだ。ほら、早くしろ」
 ただおろおろしている神尾の腕を、跡部はその白い手で掴み、ぐいと引っ張った。
(う、うわ…!)
 突然の事にどう対処してよいかわからず、神尾はただされるがまま、跡部についていくしかなかった。
「すぐひきとってもらわないと、邪魔でしょうがねえからな。じゃあな、観月」
「ええ、おやすみなさい」
 立ち去る二人を見送った観月は、顎に指をあてて、呟いた。
「…邪魔になるほど大きなものをなくすなんて、神尾さんは器用な人ですねえ」

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