Deep Sea/Text






破滅の君




 雲間から差し込む陽光が、曇ったガラスに鈍く反射している。土曜日の昼下がり、古い温室のまわりは不思議なほどの静寂に支配されていた。
 かすかに軋むガラス扉を開け、神尾は温室内に一歩踏み込んだ。いつもと同じように、湿った空気が心地よく全身を包む。
 今週もまた、神尾は週末を学園内で過ごす事にしていた。家には一ヶ月以上帰っていない。長期休暇までは、帰らないと決めている。そのかわり、手紙だけはまめに書いていた。今日も、今さっき学園の近くのポストに母あての手紙を投函してきたばかりだ。

―学園の人もみんな親切にしてくれているので、毎日楽しくすごしています。だから、俺の事は心配しないで下さい―

 手紙の最後を、神尾は大体この決まり文句で締めくくる。母親に余計な心配をさせたくなくて、手紙は常に半分ほどが嘘でうめられていた。手紙を出す度に少なからず胸の痛みを覚えはしたが、どうしても本当の事は書けなかった。
 神尾は、手に図書館で借りてきた本を抱えていた。部屋で読んでもいいのだが、たまには気分を変えてこの温室でと考えたのだ。
 だが、温室内に入った神尾は、違和感を覚えて足を止め、あたりをきょろきょろと見回した。少し考えて、神尾はその原因に思い至った。
(いつもより、置いてある鉢が少ないみたいだ)
 この最低限しか手入れのされていない温室では、鉢が無造作に置かれていて、見る者に乱雑な印象を与えている。だが、今日は鉢がきれいに壁際に寄せられ、中央部分に人が数人座れるほどのスペースがあいていた。普段、鉢を少し避けるなどして座る場所を確保する事が多い神尾は、こんなに片付いている温室を見るのは初めてだった。
「何か、あるのかな?」
 ひとりでゆっくり本を読むつもりだった神尾は残念に思ったが、もともと自分専用の場所というわけでもない。諦めて戻ろうとしたその時、ふいに視界がふっと暗くなった。背後に、人の気配を感じる。
「…?」
 恐る恐る振り返ると、そこには黒々とした陰とともに、若い男がのっそりと立っていた。
「ギ…ギャー!!」
 驚いた神尾は手にしていた本を落としてしまったが、構わずに回れ右をしてその場を逃げ出そうとした。ところが、その神尾の細い腕を、その巨体の男ががっちりと掴んだのである。
「…」
「た、助けてー!誰かあ!」
「あっれー、うさぎちゃんじゃん。どうしたの?おっきな声出して」
「…えっ?」
 神尾が涙目を向けたその先には、「眠り姫」こと芥川が立っていた。両手に、コンビニの大きなビニール袋を下げている。
「あ、芥川さん、助けてくださ…っ」
「なになにー?新しい遊び?」
「違いますよっ」
 憤慨する神尾を気にも留めず、芥川は鼻歌を歌いながら二人に近付くと、よっこらしょとビニール袋を床に下ろす。そこでようやく神尾が腕を掴まれている事に気付いたらしく、呑気な声で男に話し掛けた。
「そんなに掴んだらうさぎちゃんの手、折れちゃうよ。離してやんなよ」
「…ウス」
「わわっ!」
 巨体の男が急に手を離したため、逃げようとしていた神尾は勢い余って後方へよろめき、倒れそうになった。だがその肩を、背後から誰かに抱きとめられる。
「…何やってんだ」
「えっ…あ、破滅の君…!」
 肩を支えて神尾を見下ろしていたのは、跡部だった。
「またお前か…。よほど騒ぎを起こすのが好きなんだな」
「な、俺は何も…!」
「いいけどな。それより、いい加減自分の足で立ってくれ。重くてかなわねえ」
「…!あ、ご、ごめ…」
 神尾は顔をぱっと赤らめると、慌てて跡部から離れた。跡部は可笑しそうにくつくつと笑っていたが、やがて笑いをおさめて芥川の横に立っていた男に声をかけた。
「で、どうした、樺地。こいつが何かしたのか」
「ウス」
 男は右手に持っていた物を跡部の方に差し出した。それは、さきほど神尾が落とした本である。
「お前のか」
 跡部は無造作にそれを男の手から受け取ると、神尾に渡した。そこでようやく、彼が落とした本を渡すために自分を引き止めたのだと気付く。神尾は大声を出した事を恥ずかしく思い、慌てて頭を下げて礼を言った。
「どうもありがとう」
「ウス…」
 樺地と呼ばれた男は緩慢な動作でおじぎをした。
「それであの、この人は…」
 遠慮がちな神尾の問いに、跡部は軽く少年の方を見やって答える。
「こいつは樺地。ここの庭番だ」
「あれー、なんだうさぎちゃん知らなかったの?」
「はい…」
 神尾は、改めて樺地を見た。よく見ると、身体は大きいがまだ少年のようだ。庭番と呼ぶに相応しく、白いシャツに胸当て付きのつなぎ…所謂サロペットを身につけていた。目は穏やかで、大型の草食動物を思わせる。神尾はもう何度もここに足を運んでいたが、姿を見るのは初めてだった。
「樺地はねー、この温室専属の庭番なんだよ」
「専属…って…」
 自分達とさほど歳が違わない少年が庭番として働いているのも不思議だが、この古い温室専属となれば尚更である。
 不審そうな神尾の視線を受けて、跡部は彼女にしては珍しく歯切れの悪い口調で簡単に説明した。
「家庭の事情とか…詳しい事は言えないが色々あって、俺が祖父に頼んで雇ってもらってるんだ」
「祖父?」
「ああ、祖父はここの理事長と知り合いだからな」
「へえ…」 さすが天下の跡部グループ会長、様々なところに顔がきくらしい。だが神尾は、跡部があまりこの件に関して話したくなさそうなのを感じ取ってそれ以上の質問をやめ、今度は芥川に問いかけた。
「ところで、これから何かあるんですか?」
「あ、そうそう、ここでお茶会やるんだ!うさぎちゃんも一緒にどう?」
「お茶会…?」
「そそ、お菓子もいーっぱい買ってきたんだ〜。ムースポッキーでしょ、いちごポッキーでしょ、あとデコレーションポッキーに…」
「ポッキーばっかり…」
 ビニール袋から次々とポッキーの箱を取りだす芥川を見て神尾は呆れ、跡部はため息をつく。
「ったくお前は、どうしてそんな子供が食べるような物が好きなんだ」
「いいの、俺まだ子供だから」
 そうこうしているうちにも、樺地は手際よく準備を進めていた。鉢を避けて空けたスペースに白い敷物を広げ、トレイにのせられた白磁の食器を持ち込む。温室の入り口から電源の延長コードが引き込まれており、電熱式のポットがセットされた。
「ね、跡部。うさぎちゃんも一緒でいいよね〜?」
「まあ、ここまできたらしょうがねえだろ」
「…素直じゃないねえ」
「なんだよ」
「別にぃ」
 跡部は鋭い目で睨み付けたが、それをさらりと受け流して、芥川は神尾を手招きした。
「いいからこっちきて座りなよ」
「は、はい」
 言われるままに、神尾は芥川の隣に座った。跡部が優雅な所作でその向かいに座ると、それが合図であるかのように、樺地がお茶の準備を開始した。
 ポットをお湯で暖め、その湯を人数分のティーカップに移すと、紅茶の缶を開けて茶葉をポットに入れ、新しい湯を注いで蓋をする。そうして葉を蒸らしている間に、皿に菓子類を丁寧に並べてゆく。その手際のよさに神尾は思わず目を見張った。
「すごい」
「でしょ?樺地って、みかけによらず器用なんだよね〜」
 数分後、樺地はポットからカップに紅茶を注いだ。ふわりと良い香りが立ちこめて、神尾の鼻を心地よくくすぐる。
「…ドウゾ」
 樺地は、まず神尾の前にカップを差し出した。次に跡部、芥川の順にカップを置く。「なんで俺が二番目なんだよ」
 わずかにむっとした跡部に、樺地はちょっと困ったような表情をしたが、芥川が笑いながらフォローを入れた。
「拗ねない、拗ねない。まずはお客さまから、ってマナーの授業で習ったっしょ」
「年中さぼってるお前にだけは言われたくねえな」
 紅茶が全員にいきわたったところで、それぞれカップを手にして小さな茶会は始まった。紅茶に口をつけて、神尾は思わず声をあげる。
「おいしい」
 正直なところ、神尾には紅茶の善し悪しなどわかりはしない。それでも、普段飲んでいるティーバッグなどとは格が違う事はわかった。
「ああ、やっぱり樺地が煎れた紅茶は格別だぜ」
 跡部もすっかり機嫌を直した様子で、カップを口に運んでいる。うっすらと立ちのぼる湯気の向こうで満足げに微笑むその顔に、神尾はしばし心奪われた。



 他愛も無い話をしながらどれくらい時が過ぎたか、菓子と紅茶があらかた切れたところで、会はお開きとなった。準備した時と同じく、樺地がティーセットやナプキンなどを手際よく片付ける。神尾も手伝おうとしたが、樺地は無言でそれを制した。
「なんかお邪魔しちゃって、すいませんでした」
「ぜーんぜん構わないって。うさぎちゃんならいつでも大歓迎だよ〜。ね、跡部」
 跡部は無言で神尾の顔を見た。神尾の心臓が跳ね上がる。
(やっぱり、図々しい奴だって思われてるのかな…)
 沈黙に耐えられず、神尾は下を向いた。だが、
「…まあ、いいんじゃねえの」
「え…」
「樺地もお前の事が気に入ったみたいだしな…。俺達もいつもやってるってわけじゃねえけど、気が向いたら」
 そこで跡部は、それまで神尾が見た事のないような穏やかな笑顔を見せた。
「…また来いよ」
「…!」
 瞬時に耳まで赤くなった神尾を見て芥川は快活に笑い、跡部はすぐにまた皮肉めいた笑みに戻る。
「うさぎちゃん、かーわいー!跡部ってば罪作りぃ〜」
「ハッ、俺様を誰だと思ってんだ、あぁ?」
「さっすが破滅の君!」
 明るい芥川の笑い声を聞きながら、神尾は手で火照る顔を押さえる。目の前に在る跡部の笑顔が、神尾の胸をぎゅっと締め付けた。
(俺、一体どうしちゃったんだろ…)
 跡部達について温室を出ると、先刻まで空を覆っていた雲はいつの間にかすっかり晴れて、外は午後の日射しに明るく輝いていた。その眩しさに、神尾は思わず立ち止まり、目を細める。
(破滅の君、か…)
 不安と期待の入り交じった言い様のない感情とともに、神尾はしばらくその場に留まっていた。

 PREVNEXT



モドル
2style.net