Deep Sea/Text






破滅の君




「ったく、音楽室ってなんでこんなに遠いんだよ」
 その日最後の授業を終え、神尾と伊武は並んで廊下を歩いていた。
「しかも六限に音楽なんて面倒だよな。そう思わねえ?」
「…別に」
 伊武の無愛想は今に始まった事ではない。
 時として伊武はひとたび口を開くと、愚痴とも呪詛ともつかぬぼやきを延々と続ける事もあるが、会話としては大体いつもこの程度である。だが、神尾は制止されない限りは勝手に喋る事にしていた。学内にあまり喋る相手がいない神尾にとって、シンジは話をさせてくれるだけでもありがたい存在なのだ。聴いている、いないは別としても。
「でも、最上階だから眺めだけはいいよなー。こないだ音楽室の掃除当番の日にさ…」
「…あ」
「ん、何?」
「破滅の君」
「えっ」
 思わず神尾は足をとめる。伊武の目線の先で、数人の生徒と立ち話をしているのは、まさしく「破滅の君」、跡部景吾であった。今日も数人の生徒に囲まれ、賑やかに談笑をしている。と言っても、喋っているのはもっぱら周りの少女達で、跡部自身は相槌を打って聞いているだけのようだ。
「…」
 先日の出来事を思い出して、知らず神尾の顔が熱くなる。あれ以来、何度か校内で姿を見かけた事はあっても、一度も言葉を交していなかった。
(遠いな…やっぱり…)
 胸の前で教科書を抱える手に、ぎゅっと力が入る。あの日、温室ではあんなに近かった跡部が、今はひどく遠い存在に感じられた。
「…それでは、ごきげんよう、破滅の君」
 神尾がぼんやりとしている間に、跡部を取り巻く少女達は挨拶を交しあって別れた。跡部は廊下の向こう側の階段へ姿を消し、他の少女達もそれぞれの方向へと散ってゆく。
「…神尾?」
「あ、ごめん…」
 伊武に呼び掛けられて我に返った神尾は軽くため息をつき、再び歩き出す。そしてまだその場に残っていた二人の少女の横を、軽く会釈をして通り過ぎようとした時、そのうちの一人が突然大声を出した。
「…あ!おい、お前!」
「え、な、何ですか?」
 赤みがかった髪をおかっぱに切りそろえた小柄なその少女は、意志の強そうな印象的な目で、神尾を睨んでいる。
「あの…何か…?」
「お前、ちょっと跡部に優しくされたからって、いい気になるなよ!」
「はァ?」
 突然の事に神尾はあんぐりと口を空けて二の句が告げなかった。だが、おかっぱの少女はなおもすごい剣幕で捲し立てた。
「跡部は、ああ見えて誰にだって優しいんだからな!お前だけが特別ってわけじゃないんだぞ!」
「ちょ、ちょっとなんだよ、いきなり!」
「がっくん、やめえな」
「るっさいな、侑士はちょっと黙ってろよ!」
 連れの少女がやんわりとなだめようとしたが、それがかえって興奮を強くしたらしく、おかっぱの少女はきっと神尾を見て、びしっと人さし指を突き付けた。
「とにかく、あんまり跡部の周りをうろちょろすんなよな!」
「だ…っ、誰もうろちょろなんてしてないだろ!ていうかあんた誰だよ!」
「お前に教える義務なんてないね!」
「何だとぉ〜?」
 額がくっつきそうなほど顔を寄せて睨み合う二人を、伊武は冷ややかに見つめて呟く。
「…子供の喧嘩だね」
「まあまあ、ふたりとも落ち着いて、な?」
 結局、侑士と呼ばれた少女が間に入って、なんとか二人を引き離した。
「ほらほら、そんな喧嘩腰になったらあかんて」
「侑士、お前どっちの味方なんだよ!」
「そんなことゆわれてもなあ」
「あーもうムカツク!大体、侑士が跡部を煽るような事言うのが悪いんだ」
「俺、なんもゆうてへんやん」
「ゆっただろ!」
「ちょっと!で、結局なんだってんだよ?」
 いつのまにか論点がずれて言い争いをはじめた二人に、神尾は苛立って声を大きくした。その声におかっぱの少女ははたと我に帰り、再び神尾を睨み付ける。
「とにかく、お前は跡部にちょっかい出すなっての。いいな!」
「俺が何しようと、俺の勝手だ。あんた、何の権利があってそんな事言うんだよ」
 すると、おかっぱの少女はふふんと笑って、華奢な上体を軽く逸らせて見せ、誇らしげに名乗った。
「俺は、向日岳人。跡部のクラスメイトだ」
「…だから?」
「だからだ!」
「わけわかんねえよ!」
 ますます泥沼化してきたやりとりに、丸眼鏡の少女はふーっとため息をつくと、わずかに強い声音で赤い髪の少女を制した。
「がっくん、もうそのへんにしとき」
「でも、侑士…」
「神尾君は何も悪くないやろ。ただの言い掛かりや」
「…っ」
「な、ほら、ちゃんと謝って、仲直り…」
「うるさい!」
 肩に置かれた手を振払った向日は、神尾に向かってべーっと舌を出し、その場を走り去った。
「何だったんだ…」
「しゃあないなあ。俺が代りに謝っとくわ、堪忍してな」
「あ、はい…ええと…」
「忍足侑士や。よろしゅうな、神尾君。そっちは伊武君やったかな」
「…どうも」
「なんで、おれたちの事…」
 神尾の問いに、忍足は丸眼鏡をキラリと光らせて、軽く胸を逸らせた。
「俺は、この学園のコトならなんでも知ってるんや。君らもなんか知りたいことあったら、なんでも聞いてな」
「は、はあ…」
 この人なんかあやしい…と神尾は思ったが、もちろん口に出すのは控えた。
「ところで、あの…」
「ああ、がっくんのことは気にせんでええよ」
「でも…」
「がっくんてな、ちょーっと変わってるやろ」
「え?え、えー…それは…なんというか…」
 口ごもる神尾に、忍足は軽く苦笑した。
「はは、遠慮せんでええねん。ほんで、あんな風に誰にでも言いたい事ハッキリゆうやろ、それで…」
 そこで向日が立ち去った方向を見て、忍足は少し遠い目をした。
「一年生のとき、上級生にいじめられとったんや。それを、跡部にかばってもらった事があってな…」
「あ…」
「それから、跡部の事を大袈裟に言うと崇拝、ちゅうのかな。だからホンマはええ子やってんけど、ついあんな事ゆうてしもたんや。悪く思わんといてな」
「はい」
 神尾は素直に頷いた。忍足の言っている事が、よくわかるような気がしたのだ。確かに言っている事は支離滅裂でも、向日は他の少女達のように、「神尾だから」因縁をつけてきたのではないことが、その言動から感じれたからだ。
「そう言ってもらえると助かるわ。今度、ちゃんと謝るようにゆうとくさかい。それじゃまたなー、おふたりさん。ごきげんよう」



 その夜。神尾は、いつものようにぶつぶつと何かを唱えている伊武の背中に向かって、返事を期待するでもなくひとりで話していた。
「俺、今までこの学園のやつらはみんな俺の事を特別な目で見てるって思ってたけど…でも、そうじゃなかったのかな。本当は、俺の方が、そういう目で周りを見てたのかもしれない」
 自分は皆とは違うのだと、勝手に決めつけて。
 わかりあえることなどないのだと、勝手に思い込んで。
「俺が、周りを認めていければ…みんなも、俺の事、いつか認めてくれるのかも…なんて、ははっ、甘いかなー、そんなの」
「…別に、いいんじゃないの?それで」
「…シンジ…」
 伊武はそれ以上何も言わなかったが、神尾はひどく幸せな気分になって、枕を抱えてベッドに寝転んだ。ヘッドボードには、きちんとたたまれた、あの白いハンカチが置いてある。
 神尾は手を伸ばしてハンカチを手に取ると、顔を近付けて目を閉じた。
 わずかに薔薇の香りがして、あの日の跡部の青い瞳がまぶたの裏に蘇った。
(そうだ…俺は、絶対に負けたりしない…。ここで、頑張ってみせる)
 それはとても一方的だったけれど、神尾が跡部に交した約束だった。


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