Deep Sea/Text






破滅の君




「あーとーべー!」
 間延びした声に呼ばれて、跡部は軽いため息と共に足を止めた。二階のピロティにあるバルコニーから身を乗り出し、「眠り姫」こと芥川慈郎が、ちぎれんばかりに手を振っているのが見える。跡部は眩しそうに目の上に手をかざし、その姿を見上げた。
「あとべー、おはよー!」
「もう昼だ。それより、そんなに身を乗り出すんじゃねえ、おっこちるぞ」
「平気平気。あっ、ねえ、ちょっとそこで待ってて!」
 跡部の返事も待たず、芥川はその身を軽快に翻し、校舎の中に消えた。十秒も経たないうちに、ばたばたと足音を響かせながら、跡部の前に姿を現わす。
「とうちゃ〜く。跡部、おっはよ」
「だから、昼だって言ってるだろ。さてはお前、また午前中ずっと寝てたな」
「へへへ、あったり〜」
 悪びれる様子も無く、満面の笑顔で答える芥川を、跡部はやれやれと言った顔で見た。いつものことなのである。
「当たり、じゃねえ。お前が何かしでかすと、必ず俺のところに話が回って来るんだからな…少しは自重しろよ」
 跡部と芥川は同学年とはいえ、別のクラスである。だが、教師が何度注意してものれんに腕押しの芥川が、どういうわけか跡部の言う事だけは(それなりに)聞くため、手に負えなくなると最終的には跡部にお鉢がまわってくるという寸法になっていた。
 もっとも、跡部もこの底抜けに明るい子犬のような少女が嫌いではなく、なんだかんだと言いながら面倒をみてやっている。
「そっか、ごめんねー」
「本当に悪いと思ってんのかよ?それと、またリボンが曲がってるぜ。制服くらいきちんと着ろ」
 跡部が注意すると、芥川は両手を後ろにまわして、跡部に向かって軽く胸を突き出して見せた。
「んー」
「…なんだよ」
「あとべぇ、むすんで〜」
「甘えるんじゃねえ」
「だって俺、自分じゃうまく結べないんだもん。鏡見ると余計こんがらがっちゃうし。ねっ、だからお願い」
「…ったく、しょうがねえな…」
 大袈裟にため息をついてみせると、跡部は軽く身を屈ませて、芥川の胸のリボンをほどいた。それを白く長い指で絡め取り、優美な所作で結び直してやる。生徒達の憧れの的である二人のその絵になる様子に、周囲から熱っぽい視線が注がれた。
 最後に形を整えて、跡部は満足そうに笑んだ。
「どうだ、完璧だぜ」
「ありがと、跡部」
「じゃあ、午後の授業はちゃんと受けろよ」
「あっ、待って。俺、これから食堂行くから、付き合わない?リボンのお礼に、ジュース奢るよ〜」
「アイスティにしてくれ」
「オッケー。んじゃ、レッツゴー!」


 跡部と芥川が食堂へ入ると、生徒達の視線が一斉に向けられたが、二人は気にも止めず、窓際の丸いテーブルについた。瀟洒な作りの窓から差し込む光が二人を明るく照らし、その姿をより一層輝かせている。その場に居合わせた事を喜ぶ囁きが、食堂内のあちらこちらで交された。
「そういえば、跡部」
「ん?」
「俺、こないだうさぎちゃんとお話しちゃった」
「…ウサギちゃん?って、誰だ?」
 アイスティの氷をストローで弄びながら、跡部は怪訝な顔をした。
「わかんない?」
「わかってたまるか」
「ほら、あの子だよ。ちっちゃくて、前髪がこう、ね」
 芥川は左手の人さし指を、額から顎へすっと下ろす動作をしてみせた。
「ひょっとして、神尾…か?」
「そうそう。あの子可愛いね」
「…なんであいつがウサギなんだ」
 その質問には答えず、芥川はランチのスープを一口啜ると、跡部を見てにっと笑った。
「跡部さあ」
「なんだよ」
「あの子のこと、結構気に入ってるでしょ」
「…ハ?」
 ストローをいじっていた指の動きを止めて、跡部はまじまじと芥川の顔を見返した。何がそんなに嬉しいのかわからないが、はち切れんばかりの笑顔である。
「誤魔化したってだめだよー。跡部は、どうでもいい子に物あげたりなんて、絶対しないから」
「なんで知ってんだよ、そんなこと」
「おしたりから聞いた」
「あいつ…」
 自称「情報通」である同級生、忍足の顔を思い浮かべ、跡部は憎々しげに呟いた。一体どこで仕入れて来るのか、忍足は学園内の様々な情報をあちらこちらで吹聴している。もっとも、それが本当か嘘かは誰にもわからないのだが。
「だから、跡部のうさぎちゃん。どう?」
「…下らねえな…」
「あ、否定しないんだー。やっぱりそうなんだ」
「うるせえよ。さっさと食べろ」
 期待を込めた視線をさけるように、跡部は頬杖をついて窓の方を見た。
 学園内において、特定の上級生と下級生が所謂ステディな関係を持つ事は、極あたりまえのようになっている。むしろ、そういう相手がない方が珍しいのだが、意外な事に跡部はその珍しい部類に入る少女だった。一年生の時も、特定の上級生と付き合わなかったし、学年があがった今もそれは同じである。
 無論、跡部の特別になりたいと願う少女はいくらでもいるのだが、跡部はどちらかというと、そういう事を煩わしいと感じている節があった。
「まあ、跡部が誰かひとりを選んだら大変な事になっちゃうからねえ」
 しかし呑気にそんな事を言っている芥川も、跡部同様、特定の少女と仲良くしている事は無かった。一年生の時は、毎日のように上級生が声をかけてきたものだが、その全てをのらりくらりと躱し続け、今日に至っている。
「人のことより、お前はどうなんだよ」
「俺?俺はね、そういうの、面倒臭いし」
「ハン…」
「跡部と一緒にいる方が楽しいんだ。あ、でもでも跡部はいいんだからね!俺の事は気にしないで、早く可愛い子見つけなよ〜」
「バーカ、誰もお前に遠慮なんかしねえよ」
 そこで二人は同時に笑い、空になった食器を下げるために立ち上がった。
「ジロー、お前はこのまま教室に戻って授業に出るんだぞ、いいな」
「は〜い。あ…そうだ跡部」
「ん?」
「あの古い温室、時々うさぎちゃんが遊びに来てるんだよ。知ってた?」
「…だから?」
「んー?別に、そんだけ。じゃね!」
 手を振って、ぱたぱたと軽やかな足音を響かせながら芥川は走り去った。跡部はしばらくその場に佇んでいたが、やがて自分の教室へと向かった。

 芥川が午後の授業も全部寝ていたと教師から聞くのは、その数時間後のことであった。

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