Deep Sea/Text






破滅の君




「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 少女達が可憐に挨拶を交しあっている回廊を、神尾はひとりで歩いていた。金曜日の放課後は、やはりどことなく校内が賑やかである。家に帰るもの、学友達と出かけるもの、予定は様々なれど、やはり週末は誰しも楽しいものだ。
 神尾はあまり家に帰らない。一度帰ってしまうと、再び学園に戻るのが辛くなってしまうのがわかっていたからだ。だからどこに出かけるでもなく、自室にこもっている事が多いのだが、それでもやはり週末が来るとほっとする。
 傾きかけた陽に照らされて、中庭はオレンジ色に輝いている。この学園には気に入らない事もたくさんあるが、随所に見られる幻想的な美しさだけは文句のつけようがない。しばし歩みを止めて神尾がその情景に見入っていると、回廊の向こう側から、賑やかな声が近付いてきた。
「あ」
 笑いさざめく少女達の中心にいるのは、まさしく「破滅の君」、跡部景吾だった。跡部が校内においてひとりきりでいる事はほとんど無い。常に、とりまきに囲まれている。
(どうしよう。今、返してしまおうか…)
 ここ数日、神尾は先日跡部に借りた(と言っていいのかどうか定かでないが)ハンカチを、いつ返そうかとずっと思案していた。教室に行っても、とりまきに門前払いされるのは目に見えているし、寮の部屋を訪ねるような度胸はさすがにない。校内で、誰もいないところで偶然会えれば良いのだが、先にあげたように、跡部がひとりでいる確率は軌跡に近い数値だ。
 ぐずぐずと躊躇している間に、跡部を囲む一団は、神尾の数メートル先にまで近付いて来ていた。
「あら、貴女」
 神尾の姿を認めた少女の一人が、甲高い声をあげる。びくりと身を竦ませて神尾が見ると、それは先日ぶつかってきたあの少女だった。
「そんなところでぼーっと突っ立っていては、破滅の君のお邪魔ですわよ」
 他の少女達が、一斉にクスクスと笑い出した。神尾は軽く下を向いたが、何も言わなかった。こんな事は日常茶飯事で、慣れているのだ。
「聞こえなかったかしら?そこをおどきと言っているのよ」
 畳み掛けるような少女の言葉に神尾が顔を上げると、跡部と思いきり視線があってしまった。神尾の鼓動が大きく跳ね上がる。
(ええい、もうどうにでもなれ!)
 決心して、神尾は鞄の中から跡部のハンカチを取り出すと、驚く少女を押し退けるようにして、跡部の前に立った。
「…」
「あ、あの、これ」
 軽く片眉をあげて黙っている跡部に、神尾は両手でハンカチを差し出した。
「これ、返します」
 跡部はなおも黙っている。神尾は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
 二人の様子を見て憤慨したとりまきの少女が何か言おうと口を開きかけた時、
「何を返すって?…俺は、貸した覚えはねえぜ」
「…!」
 微かに笑いを含んだ跡部の言葉に、神尾の両手が震えた。
 ―覚えていないのか。
 それは、馬鹿にされるよりも、冷笑を浴びせられるよりも、深く神尾の心を傷つけた。
 二の句がつげないでいる神尾を見て、少女達がどっと笑い声をあげた。
「これだから身の程知らずは」
「跡部様が、貴女が触った物を受け取るとでも思って?」
「これでわかったでしょう。さあ、そこをおどきなさい!」
 どん、と突き飛ばされて、神尾の小柄な身体は後ろへよろめいた。別の少女の手が、さらに追い討ちをかけるように神尾を突く。
 神尾の耳には、少女達の冷笑は届いておらず、ただ、自らの心臓の音が体中に響いているだけだった。
 ふいに、神尾の視界が滲む。次から次へと溢れ出して来る涙が、頬を伝って床に落ちてゆくのを感じた。
 こんなこと、慣れっこだったはずなのに。
 辛い事なら、学園に入ってから今まで、数え切れないほどあった。それらに比べれば、こんな事はなんでもないはずだった。なのに、神尾は涙を止める事ができない。
「…っ!」
 涙に濡れた顔を上げ、神尾は手にしたハンカチを、思いきり跡部に向けて投げ付けた。さすがに驚いた表情で、跡部がそれを掴む。
 跡部は何も言わなかったが、取り巻き達は色めきたった。
「まあ、この子ったら、信じられないわ!」
「破滅の君に向かってなんということを!」
「許しませんことよ!」
 今にもつかみかかろうとする少女達を振り切って、神尾は踵を返し、走り出した。
 神尾は、おそらく学園内で一番の俊足の持ち主である。春のスポーツテストにおいても、五十メートル走で驚異的なタイムをたたき出して、周囲を驚かせたものだ。怒声が、あっという間に遠ざかってゆく。 


 無意識のうちに、神尾は古い温室の前に来ていた。乱暴にガラス扉を明け、中に入る。泣きながら走ったため、息がかなりあがっていた。
 温室の一番奥まったところで神尾は座り込み、膝を抱えて顔を埋めた。
「やめてやる…こんな学校」
 これまでどんな仕打ちにあっても耐えて来たのは、母親のためでもあったが、自分自身のためでもあった。学校をやめてしまったら、負けを認めることになってしまう。神尾は、周囲の冷たい視線にも、そして自分にも負けたくなかった。それなのに。
 先刻の跡部の冷たい青い瞳が、声が、脳裏に浮かぶ。神尾は跡部を恐れてはいないし、敬っているつもりもない。だが、何百もの罵声よりも、跡部のたった一言が、より強く神尾を打ちのめしたのだ。自分でも理由の分からない悔しさと哀しさに、神尾は軽いパニックを起こし、首を左右に激しく振った。
「もう、嫌だ。こんなところに、いたくない…」
「…じゃあ、やめちまえよ」
「…え?」
 突然頭上から降って来た声に、神尾は驚いて顔をあげる。
「…!」
 いつの間にか、神尾の前に、跡部が立っていた。
「お前、出鱈目に速いな…」
 肩で息をしながら跡部は毒づく。神尾は座ったまま後方へ逃げようとしたが、背後の大きな鉢にぶつかって、それ以上身動きがとれなかった。
 跡部は、その姿勢のまま声も出せないでいる神尾の正面に、ゆっくりとした動作でしゃがみこみ、片膝をついた。
「…何、だよ」
「いきなり人に物投げ付けておいて、何だはねえだろ」
「俺、は、あや、謝らないから、な」
 しゃくりあげながら、涙声で憎まれ口をたたく神尾に、跡部は苦笑した。
「誰も謝れなんて言ってねえ」
「じゃあ、なんで、追いかけて来たんだ」
「…」
 ふいに、跡部の細い指が伸びてきて、神尾の顎をつまんだ。そのまま軽く上を向かせ、自らの顔を近付ける。
「…!」
 思わず神尾は目を瞑った。数瞬後、柔らかい感触を頬に感じて恐る恐る目を開くと、至近距離に跡部の整った顔があった。深い湖を思わせるような青い瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。
「これは…」
 跡部は、先刻神尾が投げ付けたハンカチで、その頬を伝う涙を静かに拭っていた。そして、それをそのまま神尾の手に握らせる。
「貸したんじゃねえ、お前にやったんだ。だから、返す必要はない」
「…あ…」
 顔を赤く染めて鼻を啜っている神尾を見て、跡部はくく、と笑い、立ち上がった。
「退学の餞別ってことで、とっときな」
 皮肉っぽい笑いを浮かべて神尾を見下ろすと、跡部は踵を返して温室の出口へと歩き出した。
「だ…誰が、やめるもんか!」
 神尾はハンカチを握りしめたまま勢い良く立ち上がり、跡部の背中に向かって叫んだ。跡部の動きがぴたりと止まり、ゆっくりと神尾を振り返る。
「俺は、絶対に負けないからな…!」
「ハッ、好きにしろよ」
 笑いながら、今度こそ跡部は温室を出ていった。
 その姿が視界から消えると、神尾は再びその場に座り込んだ。鼓動が恐ろしく速く、顔が、全身が熱い。
(俺は…俺は)
 ふと、聞き慣れた台詞が神尾の耳を掠める。

 ―あの方が、何故破滅の君と呼ばれているか、御存じ?

 違う、と誰に言うともなく神尾は呟く。違う、違う違う。

 ―あの方を慕い、近付く者は、その鮮烈な魅力に心奪われ、狂わされて、やがて破滅させられずにはいられないのよ―

 神尾は、まるで呪文のように違うと言い続けた。だが、脳裏に焼き付いた跡部の瞳は消える事なく、いつまでも神尾を苦しめた。



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