Deep Sea/Text






破滅の君




 燦々と午後の光が降り注いでいる。神尾は眩しさに目を細めながら、ゆっくりと温室のガラス戸を開いた。
 この学園には温室が二つある。真新しくて大きなメインの温室は、校舎の近くにあった。常に手入れが完璧になされており、美しい花が咲き誇っていて、生徒が頻繁に出入りしている。
 対して、今神尾が足を踏み入れたこの温室は、敷地の隅にひっそりと立っており、相当古いものであると思われた。ガラスもところどころ曇っていて、色鮮やかな花をつける植物も少なく、メインの温室にくらべると華やかさにかける。ここを訪れる生徒はほとんどおらず、常に静寂が支配していた。
 神尾は、この場所が好きだった。まるで誰からも忘れられたようなこの空間にいると、不思議と心が安らぐのを感じるのだった。
 庭番によって最低限の手入れがされているとは言え、奥の方では植物達が伸び放題に伸びていて、昼でもなお薄暗いほどだ。中の様子が外からはほとんど見えないので、授業が自習になった時や、一人きりになりたいとき、神尾はここでぼんやりしたり昼寝をしたりしていた。
 中へ入ると、わずかに湿った空気が神尾の肌を撫で、草木の匂いが鼻を心地よくくすぐった。軽く伸びをして、奥へと進む。すると、
「うわあっ!」
 足下の何かに蹴躓いて、神尾は派手に転んでしまった。顔面から地面に突っ込むのはなんとか回避したが、バランスを崩して尻餅をついた。
「いててて…」
 腰をさすりながら前方を見た神尾はぎょっとした。緑の間からにゅっと白い二本の足が突き出ている。どうやら、その足に躓いたようだ。
「まさか、し、死体じゃあ…」
 恐がりな神尾はごくりと喉をならしたが、万が一そうなら放っておくわけにもいかない。恐る恐る近付いて、確認しようと上から覗き込んだ。その途端、
「ひ、ひつじーっ!」
「ぎゃあーっ!」
 「死体」が突然叫んで、がばっと起き上がったのである。神尾は再び尻餅をつき、そのまま後方へとずりさがった。
「…ここ、どこ?ひつじは?」
 恐怖に青ざめる神尾の前で、さっきまで死体だった少女はキョロキョロと辺りを見回している。そのぼんやりとした目線が、神尾の上で止まった。
「んぁー…?ねえ、ひつじは?」
「さ…さあ…」 
 意味不明な問いかけに神尾は困惑したが、良く見るとその少女の顔には見覚えが合る。
「あ、あの…ひょっとして、芥川さんじゃないですか…?」
「ふあ?」
 神尾が芥川と呼んだその少女は、生徒達から「眠り姫」と呼ばれている。要するに、寝てばかりいる事で有名なのだ。
 くるくると巻いた短い髪に縁取られた顔は、目が大きくて色が白く、整っていると言うよりも愛くるしいと言った表現が良く似合う。だが、その目は夢の世界を見ている事が多く、制服も常にどこかが崩れていて、全体的にぼんやりとした印象を人に与える。それでも、人なつこく裏表の無い性格で、生徒達には人気があった。
「…アンタ誰?」
「あの、神」
「え、ひつじ?」
「違いますよ!」
 そこで、「眠り姫」は大きく伸びをした。パチパチと瞬きをして、首を軽く揺らす。それでもまだ完全に目覚めはせず、半眼でゆっくりと辺りを見回した。
「なーんだ、夢かあ…残念だなあ…ひつじだったのに…」
 一体何の夢なんだろう、と神尾は思ったが口には出さなかった。
「で、君誰だっけ?」
「一年の、神尾ア…」
「あーっ!」
「こ、今度はなんだ!」
「いっちごー!」
「え?」
 わけがわからずキョトンとしている神尾に、芥川はにじり寄って来た。先ほどまでとは打って変わって、その目はきらきらと輝いている。そして、座り込んだままの神尾のスカートを盛大にめくった。
「うわーっ!」
「いちごのぱんつー!」
「な、何するんだよう!」
 わけのわからないリアクションに半分泣きそうになりながら、神尾は必死にスカートを手で押さえる。
「いーなー、かわいいなー、いちごのぱんつ。あ、俺はねえ、くまのぱんつだよ。見たい?」
「結構です!」


「ふあー、やっと目が醒めた。で、あんた誰だっけ」
「神尾…アキラです…」
 ようやく名乗る事が出来た時には、すでに神尾はぐったりと疲れていた。パンツを覗かれるのを阻もうと、ぴったりと膝をつけて正座している。
「…え、神尾?」
 名前を聞いた途端、芥川の表情が変わる。神尾は「やっぱりな」という思いを禁じ得なかった。そう、いつもの事なのだ。だが、次に芥川の口から出た言葉は、完全に予想から外れた。
「ふーん、そっかぁ。君が例のうさぎちゃんね…」
「…う、ウサギ?」
 さっきから羊だの兎だのと、芥川の言っている事はよくわからない。
「あの、それはどういう…」
「いいからいいから。それより…」
 急にキッと真面目な顔になって、芥川は神尾を見据えた。思わず、神尾の姿勢もぴんと伸びる。
「…今、何限?」
「…は?」
 神尾は一瞬、質問の意を汲みかねた。
「え…っと、もう五限ですけど」
 神尾のクラスの五限は現国だったが、担当教師の欠勤によって自習になった。そのため、神尾は昼食をとってからすぐにここへやってきたのである。
「ええええええーっ!マジで?やっべえ!」
 ガラスにヒビが入るのではないかという音量で芥川は叫び、両手でくせのある髪を掻きむしった。
「てことは俺、昼ごはん食べ損ねたって事じゃーん!ちっくしょー、今日のランチはクリームコロッケだったのに!」
「あ、あの…芥川さん、いつからここに…?」
「へ?えーと…えーと、確か代数幾何の授業までは教室で寝てたから…3限から?」
「…」
 呆れる神尾にはお構い無しで、芥川はなおもわめいていたが、やがてすっくと立ち上がった。
「駄目だ、そうと知ったら猛烈に腹減ってきた。俺、購買行くわ。じゃね!」
 朗らかに手を振ると、芥川はあっという間に温室を出ていった。遠くから、「うさぎちゃん、バイバーイ」という声が神尾の耳に届いた後は、いつものような静寂が戻ってきた。
「なんだったんだ…あの人は」
 昼食よりももっと先に心配する事があるんじゃないのかな…と思いつつも、神尾はなんとなく楽しい気分になった。
「眠り姫…かあ」
 もしかしたら、またここで会えるかもしれない。
 神尾は、また少しこの場所が好きになった。



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