Deep Sea/Text






破滅の君




 明るい少女の笑い声が響く廊下を、神尾はよたよたとおぼつかない足取りで歩いていた。昼休みである。
 神尾は両手に余るほどの大きな段ボール箱をかかえていた。授業で使った資料が入っているのだが、教室から離れた資料室へそれを運ぶ役目は、いつものように神尾に与えられた。
「っ、重い、なっ…!」
 神尾はどちらかというと小柄な少女で非力である。途中で何度もおろしながらも、なんとかあと少しで資料室、というところまで辿り着いた。そこで廊下の角をまがった神尾に、誰かが思いきりぶつかってきた。
「うわあっ!」
 荷物のためにバランスを崩した神尾は後ろに倒れ、その場に尻餅をついてしまった。
「いっ…てえ」
 段ボールの底で擦ったのか、右の膝の皮がすりむけ、血が滲み出る。
 ―ちくしょう、誰だ。
 神尾がぶつかってきた相手を確認するより早く、高圧的な声が頭上から降り注いだ。
「ちょっと貴女、ちゃんと前を見て歩きなさいな!危ないじゃないの!」
「な…っ」
 顔を上げると、そこには数人の少女が固まって立っていた。神尾に文句を言った少女は、腰に手をあてて、いかにも尊大な態度である。
「何言ってるんだ、ぶつかってきたのはそっちだろう!謝れ!」
「まあ、なんて生意気な。貴女が不注意なのが悪いのでしょう」
 他の少女達も、似たり寄ったりの様子でヒソヒソと囁きあいながら、まるで汚いものを見るような目つきで神尾を見下ろしている。
「貴女がぶつかってきたせいで、わたくしの制服が汚れたじゃありませんか。謝るのは貴女の方よ」
「ふざけるな!」
 神尾が立ち上がろうとしたその時、
「…何を騒いでるんだ」
 少女達の背後から、良く通る声がした。一斉に振り返った少女達は、その姿を確認すると、たちまち頬を赤く染め、さっと左右に避けて道を空ける。
「あ…っ」
「まあ…」
「跡部様!」
「破滅の君よ…!」
「え…跡…部…?」
 神尾の正面に現われたのは、「破滅の君」こと、跡部景吾であった。
「…!」
 思わず、神尾は息を飲んだ。
 「破滅の君」、すなわち跡部景吾は、大きな製薬会社や重化学工場を多数有する、日本でも屈指の財閥、跡部グループの会長の孫娘である。明るい色の髪と、青い瞳が印象的な美少女だ。ただ容姿が整っているだけではなく、自信と誇りに満ちあふれたその立ち居振る舞いは見るものを圧倒し、「王者」と呼ぶに相応しい威厳すら備えていた。見た目のみならず、成績は常にトップでスポーツにも長けており、まさに非のうちどころがない。全校生徒の憧れの的、それが跡部景吾なのだ。
 黒いタイツに編み上げブーツを履き、一分の隙もなく制服を着こなしている跡部の姿に、しばし神尾は目を奪われてしまう。だがすぐに我に帰ると、立ち上がって正面から跡部を見据えた。
「誰だか知らねえが、こんなところで騒ぎを起こすんじゃねえ」
「お…俺は、何も悪い事なんてしてない!」
「破滅の君に向かってなんという口のききかたを!」
 激高した少女の一人に肩を思いきり突き飛ばされ、神尾は再びその場にへたりこんだ。
「身の程をわきまえなさい」
「貴女みたいな子が、軽々しく口をきいてよいお方ではなくてよ」
「さあ、破滅の君に謝りなさい!」
 次々と浴びせかけられる言葉の数々に、神尾は唇を噛み締めた。何も言い返せない自分が悔しくて、じわりと浮かんだ涙で視界が霞む。
「…俺は、絶対に、謝らない…!」
 震える声で、だがはっきりと神尾は言った。つまらない意地である事はわかっていたが、なぜかどうしても引く事が出来なかった。
「ハッ」
 ふいに跡部は鼻で笑うと、口の端に笑みを浮かべた。
「破滅の君…?」
「どうなさいまして?」
「もういい、みんな、教室へ戻れ。そろそろ昼休みも終わる」
「でも…」
「おい、お前ももう行け」
 跡部の声は鋭く、神尾は思わず身を竦ませた。それでも精一杯の虚勢を張って跡部を睨み付ける。
「俺の名前は神尾アキラだ…お前なんて呼ばれる筋合いはねえ!」
 さっと色めき立った少女達を手で制すと、跡部は面白そうに笑った。
「威勢がいいな…まあ、気が向いたら覚えといてやるよ」
 そう言って、跡部はポケットから何かを取り出すと、神尾の方へと放った。そして、くるりと背を向けると、その場を立ち去った。少女達はしばらく躊躇したが、やがて神尾を睨み付け、跡部の後を追っていく。
 神尾は、跡部が放ってよこしたものを手にする。それは、刺繍の施された真っ白なハンカチであった。膝の傷に使えという事なのだろう。
「く…っ」
 堪えていた涙が、ハンカチを握る手の甲にぽとりと、落ちた。
 もしかしたら、傷ではなく、涙を拭けといいたかったのかもしれない。


 夜、伊武の低いつぶやきが静かに流れる寮の自室でベッドに寝転び、神尾は跡部のハンカチを手で弄んでいた。清楚なハンカチからは、微かに薔薇の香りがする。アイロンをかける際にリネン用の香水が使われているのだが、神尾にはそんな事は思いもつかなかい。
「俺なんか、まるきり住む世界が違うんだろうな…」
 ハンカチを顔に近付けると、甘い香りが鼻孔をくすぐる。それは優しくて、少し切ない香りだった。



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