Deep Sea/Text






ぼくのじてんしゃのうしろにのりなよ




「ギリギリ、間に合った…かな」
 ブレーキを握ると、古い自転車はキィと掠れた悲鳴をあげて止まった。気温はまだ低いが、全速力で漕いできたため、額は汗ばんでいる。袖で軽くぬぐって、神尾は自転車から降りた。目の前にそびえる立派な門には、これまた豪華な表札がかかっている。「跡部」という文字を横目で見つつ、神尾は自転車を停める場所を捜し始めた。
「このへんに勝手にとめたら、怒られるかな…」
「当たり前だろ、バーカ」
「わっ」
 背後からの突然の声に、神尾は文字どおり飛び上がった。存外に怖がりな神尾は、よく友人達にからかわれる。振り返った先には、この家の主、跡部が軽く腕組みして立っていた。
「遅いぞ、神尾」
「なんだよ、時間通りじゃん」
「俺様との約束だぜ?最低でも十分前に来るのが当然だ」
「あっ…そ」
 この尊大な態度はどうかと常々思うのだが、自分がどうこう言ったところで変わるわけではないことを、神尾はよく理解していた。正確には理解「させられた」のだが、最近では大分慣れてきた。それはそれで釈然としないが、相手が跡部ではどうしようもない。
「とりあえず、どっかにチャリ置かせてくれよ」
「チャリ?」
「だから、これ、自転車」
 今日は、跡部の家で映画を観ることになっていた。跡部家のリビングには、大型の液晶テレビと高価なサラウンドシステムが完備されていて、ちょっとした映画館並みである。跡部と親しくなってから、二人で会う場所は跡部の家が多い。うっかり外で知り合いに会って、詮索されては返事に困るというのもあるが、手っ取り早く二人きりになれるという直接的な理由が主だ。
 いつもは歩いて来るのだが、今日は少し寝坊をしたため、自転車をとばして来たのである。
「ふーん。それはお前のか」
「?そうだよ」
「…」
 跡部は、その使いこまれた自転車をしげしげと眺めたきり、何も言わない。
「何だよ」
「どうやって乗るんだ?自転車って」
「…からかってんのか?」
 普段から、何かにつけて跡部にからかれたり虐められている(と、神尾は思っているのだが、跡部に言わせると被害妄想という事らしい)ため、神尾はムッとしてわずかに上にある跡部の顔を見上げた。ところが、跡部の方は珍しく真剣な面持ちである。
「からかってねえよ。本当に乗ったことがないんだ。だから珍しくてな」
「…嘘だろ…」
「俺様が、そんな庶民的な物を使うわけねえだろ。移動は大体車だし、必要無いからな」
 たしかに跡部家のガレージには、いつ来ても少なくとも二台は車が停まっている。それも、アルファロメオだのポルシェだのといった、高級車ばかりである。しかも、神尾がここに来るようになってからの数カ月の間に、買い替えた節さえあった(神尾は外国の高級車に詳しくないので、はっきりとはわからなかったが)。
「でもさ、ちょっと友達と出かける時とか、不便じゃねえの?」
「残念だが、俺の辞書に不便って言葉はねえ」
「はあ…お前って、ホント非常識なやつだよな…」
 呆れ返っている神尾と、自転車を交互に見ていた跡部は、やがて何かを思いついたように小さく頷いた。
「…気が変わった。神尾、今日はそいつでどこか行こうぜ。天気もいいしな」
「えっ?だって跡部はチャリ持ってないんじゃ…」
「だから、ここにあるだろ。お誂え向きに、運転手つきでな」
「運転手…。って、俺かよ!」
「他に誰がいるんだ、アーン?」
「あのなー…」
「少し待ってろ、準備してくる」
「おい!人の話聞けよ!」
 神尾の言葉が終わらないうちに、玄関に向かって歩き出した跡部は、振り返りもせずに屋内へと姿を消した。



 跡部は五分ほどで出てきた。もうじき桜のつぼみが膨らむこの季節、大分温かくなってきたとはいえ、自転車で走るにはまだ少し寒い。そのためか、先ほどの格好に厚手のジャケットを羽織っている。背が高く、大人びた顔だちの跡部は、そうやっていると中学生にはとても見えない。
 思わず見とれていた神尾は、荷台に乗ろうとしている跡部の姿にようやく我に帰った。
「お、おい、後ろ向きに座るのか?」
「いけないのかよ」
「いけなくはない…けど、危ないだろ」
「俺のバランス感覚をあなどるんじゃねえぞ。おら、つべこべ言わずにさっさと出せ」
「〜っ」
 軽く地面を蹴ってペダルを踏み込むと、二人を乗せた自転車はゆっくりと走り出した。大きな跡部の屋敷が少しずつ遠ざかり、やがて見えなくなった。
「随分揺れるな」
「お前みたいなでかい奴が後ろに乗ってて、そう真直ぐ走れるか!」
「気をつけろよ?神尾。万が一、俺様の顔に傷でもつけたら、明日から太陽の下を歩けないぜ」
「……」
 跡部は冗談のつもりかもしれないが、普段の氷帝の様子を知っているとあながちそうとも言い切れない。少なくとも、跡部ファンの女生徒たちは黙っていないだろう。神尾は思わず身震いをして、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。



「あー…つかれ、た…」
 跡部邸から五キロほど離れた公園についた時には、すでに神尾の息は完全にあがっていた。自転車を停め、近くの芝生に倒れるように仰向けになると、青空が目に眩しい。
「何やってんだろ、俺」
 思い返せば、いつもこんな風に跡部に振り回されている自分がいる。出会った時は、なんて嫌なやつだと思ったものだ。自分勝手で傲慢で、人の意見を聞かず、行動の先が読めない。おまけに意地悪である。しかも、どういうわけだか神尾に対してだけ、とりわけ意地が悪いような気がする。と、今までに何度か問うた事はあるが、その度に笑って否定された。悔しいが、その笑顔はとても好きだった。
 ひとつ息をついて目を閉じる。前髪を揺らしてゆく風はまだ冷たいが、ほんの僅か早春の暖かさを含んでいる。まるで、

(まるで、あいつみたいだ)

「おい」
「うわ、冷てっ…!」
 急に額に冷たい物を押し当てられ、驚いて飛び起きると、両手にペットボトルを下げた跡部が神尾を見下ろすようにして、立っていた。神尾が口を開く前に、跡部は右手に持っていたスポーツドリンクのボトルを放ってよこした。
「ご苦労だったな、神尾。御褒美だ」
「ちぇっ、こんなんじゃ割に合わねーっての」
 跡部の事を考えていたのがなんとなく気恥ずかしくなって、神尾は照れ隠しのように悪態をつきながら起き上がった。受け取ったペットボトルに口をつけると、乾いた喉に冷えた液体が心地よく流れ込んで、一気に半分ほどを飲み干した。
 跡部も神尾の横に座り、ボトルの蓋を開けている。まだ枯れて白茶けた芝生の上へ無造作に投げ出された足は、嫌味なほどに長い。顔もスタイルもそしてテニスの実力も、どれひとつとっても到底神尾のかなう相手ではない。それが悔しくもあり、嬉しくもある、そんな複雑な気持ちにいつも捕われるのだった。
「それにしても、驚きだぜ。跡部が自転車に乗れないなんてさ。へへっ、明日テニス部の連中に言いふらしてやろうかな〜」
 鬼の首でもとったかのような神尾に、跡部はいかにも呆れたという顔になった。
「お前…つくづく馬鹿だな。おめでたいヤツだ」
「ああ!?喧嘩売ってんのか?」
「そういうつもりじゃねえ。なんだ、気に障ったのか?」
「あたりめーだ!」
「なら、わかりやすく言い直してやる。お前は本当に馬鹿で…」
 そこで、跡部はつと口を耳もとに寄せ、ぎりぎり聞き取れるくらいの低い声で囁いた。
「可愛い奴だって、そう言ったんだぜ?」
 面白いほど瞬時に、神尾は耳まで真っ赤になった。
「…!な…何言ってんだよっ!お、おま、ば、馬っ鹿じゃねえの?」
「ハ、お互い様だろ」
 目を白黒させている神尾に満足そうな笑みを作ると、跡部は服の芝を払いながら立ち上がった。 
「そろそろ戻るぞ」
「跡部…っ」
「帰りもせいぜい頑張ってくれよ。この俺の運転手ができるなんて滅多にねえ、光栄に思うんだな」


 帰りは下り坂が多く、自転車はスピードに乗って軽快に走ってゆく。風に流れる髪を長い指で払いながら、跡部は独り言のように呟いた。
「信じねえよな、普通は…」
「え、なんか言ったか?」
「いいや。ちゃんと前見て運転してろ」
「ちっ、わかってるよ」
 跡部は、神尾の背に軽くもたれかかって目を閉じた。

(俺の自転車…帰ったらどこかに隠しておくか…)

 背中に伝わってくる微かな震えに気付いて、神尾は前を見たまま口を尖らせた。 
「さっきから、何ひとりで笑ってんだよ、跡部」
「…別に」
「変な奴」

 通りすがりの桜並木も、もうしばらくすれば満開の花で彩られるだろう。
 そうしたら、また、

「…何笑ってんだよ、神尾」
「別に!」
 俺の自転車の後ろに、乗りなよ。



END



モドル
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