Deep Sea/Text






第16章




「何だ手塚ぁ、このサーブは!」

 はっとして、手塚は顔をあげた。
 手塚は、テニスコートに立っていた。
 眩い太陽の光。
 うねるような声援。
 周囲を取り囲み、興奮と共に自らを見つめているたくさんの、目。

(俺は…)

 のろのろと、手塚は目線を動かす。
 応援席で翻る青学の団旗。
 最前列で心配そうにこちらを見守っている、大石、不二。その横に菊丸。
 少し離れて海堂。
 そして、ベンチには、白い帽子の小さな少年が座っている。瞬きもせずに、こちらを凝視している大きな瞳には揺るぎない意志が見て取れる。

(…そうだ、俺は…)

 顔を再び正面へ向けると、ネットの向こうの青い瞳と視線がぶつかった。

(ああ)

 左手に握ったラケットを、ゆっくりと上げる。肩が痛んだが、構わない。
 いつのまにか周囲の喧噪は消えさり、手塚の視界にはもう何も入らない。
 ただ、自分と、コートと、対峙している相手の姿があるのみだ。
 手塚は、目を閉じた。

「待たせたな…決着をつけよう」

 そして、再び目を開くと、
 そこには煤けたコンクリートの天井があった。



 今自分がどういう状況に置かれているのかがわからず、手塚はしばらくそのままぼんやりと天井を見続けた。頭にかかっていた靄のようなものが次第に晴れてきて、ようやく自分がどこかの建物の中にいること、今は昼間である事(左側の窓から光が差し込んでいたが、なぜか窓には板が打ちつけてある)、ベッドに寝かされていることを理解した。そして、姿の見えない襲撃者から逃れようとして崖から落ちた事を思い出す。

「一体、俺はあれからどう……痛っ!」

 思わず起き上がろうとした手塚は、だが身体の痛みによって再びベッドに倒れこんだ。足も、肩も、身体全体がズキズキとひどく痛む。枕に顔を押し付けて痛みを堪えていると、ふいに横から静かな声がした。

「無理するなよ、手塚。お前、全身ボロボロだぜ」
「…!」

 手塚は驚いて枕から顔を上げ、声のした方を見た。
 ベッドの右横で、簡素な椅子に座って手塚を見つめていたのは、跡部だった。

「跡部…」
「やっと目が醒めたみてえだな。どうだ、気分は」
「…最悪だ」
「ハッ、それだけ言えりゃ充分だ」

 跡部は笑いながら近くのサイドテーブルに手を伸ばすと、置いてあったコップを取って手塚に差し出した。

「飲めよ…持てるか?」

 コップには水が入っている。手塚は急に喉の乾きを覚え、緩慢な動きで身を起こした。途端、背中と足に痛みが走る。今にも倒れてしまいそうな身体をなんとか支え、ほとんど一気に中身を飲み干すと、手塚は大きく息を吐き出した。生き返った、というのはこういう気分を言うのかもしれないと、そんなどうでもいい事を思いながら、ヘッドボードに寄り掛かって、体勢を整える。

「もう大丈夫だ…すまない」
「ああ」
「跡部、俺の…」

 最後まで言い終わらないうちに、手塚の目の前に眼鏡が差し出された。フレームがわずかに曲がってはいるが、幸いレンズは無事のようだ。
 眼鏡をつけて視界がはっきりとしたところで改めて手塚は辺りを見回した。コンクリート打ちっぱなしの壁、乱暴に板が打ち付けられた窓、簡素なベッドに机。壁には海図が貼ってあり、普通の住宅ではない事が伺えた。

「跡部、ここはどこだ?俺は、一体どうなったんだ?今は何時なんだ。あれから…」
「おい、質問は一つずつだ。そんないっぺんに聞かれても答えられねえぜ、聖徳太子じゃあるまいし」

 苦笑する跡部を見て、手塚は無闇に焦っている自分が少し恥ずかしくなり、一呼吸おいてから再び問いかけた。

「じゃあ、まずここはどこだ」
「灯台だ」
「灯台?」
「ああ、島の北端ってところだな。地図にも書いてあっただろ」

 そう言われてみれば確かにそうだったかもしれない。だが、手塚は実のところあまりあの地図をちゃんと見てはいなかったので、記憶は曖昧だった。

「そうか…今は、何時頃だ…?俺は、どれくらい眠っていた」
「あと少しで正午だ。お前を見つけたのが夕方の6時近かったから…そうだな、ざっと18時間は寝てたってことになる」
「18時間…?」

 手塚は驚いて目を見張った。まさか、そんなに眠っていたとは。だが、手塚はこの島に来てから一睡もしていなかったのだから、無理もないだろう。
 では、このゲームの残り時間はもう2日を切ってしまったということになる。そこまで考えて、手塚はある事に気がついた。

「跡部!」
「なんだ」
「今朝の…今朝の放送は…」
「…」

 昼まで眠っていたと言う事は、今朝の6時にあったはずの放送を聞き逃しているということになる。敗退した選手の名を読み上げる、あの忌わしい放送を。
 跡部はしばらく黙っていたが、やがて手塚に一枚の紙を手渡した。そこには、この島に連れてこられた生徒達の名前が箇条書きに記されている。そして、そのうちの何名かは、名前の上に線が引かれていた。

「赤で消してあるのが昨日呼ばれたやつ、青が今朝の分だ」
「もう…こんなに…」

 手塚は唇を噛み締めて、紙面に見入った。青で消されている者…つまり、昨日の朝から今日の朝までに脱落したものは、以下の通りである。

 青学・海堂
 不動峰・橘、神尾
 聖ルドルフ・赤澤、観月、木更津、柳沢(聖ルドルフ生存者無し)
 山吹・南、東方、千石

 その中には、手塚がその死を知っているものもあったし、知らない者もあった。すでに半分の選手が倒れている事に心を傷めながらも、桃城とカチローが入っていないことに、少なからず安堵を覚えた。二人は、無事に逃げ切る事ができたのだ。
 さらに、診療所で別れた乾も無事だった。そして。

(越前…)

 乾の話が本当ならば、海堂を倒したのはリョーマと言う事になる。そして、これからも誰かがその犠牲になるかもしれない。それでも、リョーマが生きている事を喜んでいる自分に気付き、手塚は複雑な思いだった。

「氷帝は、まだ全員無事のようだな」
「なんとかな。というより、今ここに全員揃ってるぜ」
「…そうなのか?」
「ああ。あの分校を出た後に全員拾って、ずっとここにたてこもってる。このゲームは、数人で行動していた方が生き残る率があがるからな。倒れていたお前を見つけたのも、見張りをしていた忍足だ」
「そうか…」

 氷帝の選手達の無事を喜びながらも、手塚の胸の奥はちくりと痛んだ。同じ部長でありながら、何故、自分は跡部のように部員を守ってやれなかったのか。何故みすみす目の前で不二を死なせてしまったのか。

 ―何故、リョーマを止めてやれなかったのか―

 そんな手塚の心を読んだかのように、跡部はわずかに声に力を込めた。

「手塚。あまり自分を責めるなよ。この状況じゃ、どうしようもねえ事だってある」
「……」
「済んだ事を考える時間があるなら、これからどうするかを考えろ」
「…跡部…」

 跡部の言う通りだった。自分には、まだ守るべき仲間がいる。それは、これからでも決して遅くはないはずだ。
 手塚の目に光が戻ったのを見て取って、跡部は少し笑うと、椅子から立ち上がった。

「今、鳳達が昼食を作ってるから、出来上がったら持ってきてやる。それまでもう少し寝てろ、いいな」
「わかった」
「そうだ、あとこれ、渡しておくぜ」

 そう言って、跡部はポケットからオレンジ色の錠剤のシートを取り出して、サイドテーブルの上に置いた。

「鎮痛剤だ。今服むんじゃねえぞ、飯食ってからな」
「…跡部」
「あん?」

 そのまま部屋から出ようとした跡部の背中に向かって、手塚は呼びかけた。

「跡部、無事に…この島から無事に帰る事が出来たら…その時は」
「…」

 続く言葉を、何故か手塚は口に出せなかった。だが、跡部はニヤリと笑って、肩ごしに手塚を振り返った。

「考えてやってもいいぜ…肩がちゃんと治ったらだけどな。じゃあ手塚、俺が来るまでいい子にしてろよ?」

 そして、静かに扉を閉めた。
 部屋に残された手塚は、跡部の言うとおり、もう少し横になることにした。胃がからっぽの状態で鎮痛剤を服むのはあまり好ましくないし、今は焦っても仕方がない。
 身体を毛布にすべりこませようとして、手塚は肩のあたりに氷帝のジャージの上着がかけられている事に気付いた。手を伸ばして端をめくると、K.ATOBEと刺繍が入っているのが見える。

(そういえば、まだ跡部にちゃんと礼を言ってなかったな…後で言わなくては…)

 温かい毛布にくるまって目を閉じると、先ほど見た夢が浮かんでくる。大石も、菊丸も海堂も不二も、もういない。だが、手塚はそんな感傷を無理矢理閉じ込めた。そう、今はもっと他にやらなければいけないことがある。

(無事に帰れたら、跡部…その時は)

 再び緩やかなまどろみに落ちながら、手塚は思った。

 その時は、跡部ともう一度あのコートで相まみえたいと。





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ようやく氷帝まで辿り着きました。
なんか無闇にシリアスですいません(謝るところなのか…?)。



モドル
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