Deep Sea/Text






第9章




「…俺と、ダブルスを組んでみるか?」

さらさら、さらさら、と柔らかな音がする。
海堂は、その音の中で、川の流れにただひとり立っていた。手には、見なれた手ぬぐいが握られている。

「ここは…」

そこは、やはり見なれた景色だった。ブーメランスネイクを修得するために、毎日特訓した場所。怖いくらいに美しい夕焼けが、眩しい。
目を細めて見上げた先、土手の上に、誰かが立っている。
逆光で黒いシルエットになったその誰かが、自分に何か言っているが、良く聞こえない。

「アンタは…それでいいのか?」

何で自分はそんなことを言っているんだろう。あれは、誰なんだ。

「…堂」

良く知っているはずなのに、誰だか思い出せない。あれは、

「…海堂。海堂、しっかりしろ」
「…あ…?」

海堂薫は、ゆっくりと目を開けた。そして眩しい光と共に、何かがにゅっと視界に入ってきた。

「う、うわあっ!!」

海堂の目に映ったもの、それは逆光に白く浮かび上がる四角いレンズで、その無気味な光景に海堂は思わず叫び声をあげてしまった。
それは誰あろう、乾貞治であった。

「い、乾先輩…!」
「気がついたか…」
「あ…あれ、俺…?」

乾の強烈なアップのお陰で一気に目が醒めた海堂は、あらためて自分が生きていること、そして乾に抱き起こされる形になっていることを認識した。

「一体、どうなってんだ…痛っ!」

身を起こそうとした海堂は、激しい頭痛とめまいにおそわれ、再び乾の腕に倒れこんだ。

「海堂、あまり急に動かない方がいい。頭を相当強く打ったようだな」
「あ、ああ…そうだ俺は…」
「だがそれだけ動ければ、とりあえず大丈夫そうだな…良かった」

乾はそう言うと、心底安心したように軽く笑った。海堂は何故か急に涙が出そうになって、慌てて顔を背けた。

「木更津にやられたのか?そこに倒れてるが…」
「え、いや…それは…」

海堂は、本当の事を告げるべきか、迷った。しかし、乾は海堂の返事を待たずに、軽く眼鏡の位置を直しながら言った。

「いや…それとも、越前、か?」
「ど、どうしてそれを…!」
「やっぱりそうか」
「…!」
「この地面に残っているバウンドの跡や顔についてるボールの跡、落ちているラケットからお前が倒れていた木までの距離、その他諸々を計算すると、越前以外にはあり得ない」
「は、はあ…そういうもんすか」
「ところで、当の越前はどうしたんだ?」
「いや…俺は途中で気を失って…気がついたら、乾先輩が…」
「そうか…。じゃあ越前は、お前にとどめを刺さずに立ち去った…ということになるな」
「…」

海堂は、揺れる視界の中で見た最後のリョーマの姿を思い出した。もう、自分は死んだと思ったのか…それとも。
だが、それ以上考えることを、海堂はやめた。

「それより先輩…先輩こそ、もう誰かと…戦ったんすか?」
「いや、俺はまだ誰とも遭遇していないんだ。喜ぶべきかどうかはわからないけどね」
「そう…すか…」

他のみんなは、どこでどうしているのか。
昨晩別れたきりの手塚は、桃城は。
ここへ向かう途中、その先に何が待っているのかも知らず、バスの中で桃城といつものように口論になって、いつものように手塚に怒られたのがもう随分と遠い昔の事のように思えた。そして、それを見て笑っていた菊丸や不二は…もういないのだ。

「ところで海堂」

しばし感傷に浸っていた海堂は、ふいに自分の名前を呼んだその乾の声に何か不穏なものを感じて、びくっと身を震わせた。

何かとても…嫌な予感がする。

「な…何すか」
「どうだ、まだめまいがするか?」
「え?ええ、まあ…多少良くはなってきてますけど…まだ…」
「そうか…それなら」

乾の眼鏡が、キラリと怪しく光った。

「俺が一晩かけて作り上げた、この…」

そう言って海堂の目の前にかかげられたものは、昨晩支給された水のペットボトルだった。ただし、中身はすでに水ではなかった。なんとも形容し難い、赤黒い色に淀んだ液体である。

「…特別製・乾汁を飲むといい」
「ぐあっ!」

嫌な予感は適中した。
海堂は思わず起き上がって逃げようとしたが、再び強いめまいにおそわれ、その隙に再びがっちりと乾に捕まってしまった。目の前に、不穏な色のボトルが近付けられる。液体の不透明さに遮られて、ボトルの向こうにあるはずの乾の表情はよく見えない。海堂の背中を冷たい汗が流れ落ちた。

「遠慮しなくていいよ、海堂。これはこの島の自然をふんだんにとりいれてあるから、滋養強壮によく効くはずだ」
「…結構っス!そんなもん飲まなくっても俺は平気っすよ!」
「何を言ってるんだ、そんなにふらふらしているじゃないか…さあ、飲んでごらん」
「断る!」
「あ、なんだったら、口移しで」
「ふ、ふざけんな、冗談じゃねえ!離せー!」

じたばたと暴れる海堂を左手でしっかりと押さえ付けて、乾は器用に右手だけでボトルのキャップを開けた。その途端に漂ってきた、なんともいえない異臭が海堂の恐怖をさらに増す。
今や海堂の顔は蒼白だった。決して頭痛とめまいのせいではない。

「さ、思い切って」
「やめろ、やめてくれ!だ、誰か…!」
「…あ」

突然乾は動きを止めて、目線を右へとやった。

「え?」

根が素直な性格の海堂は、その動きについ釣られてしまった。その瞬間、

「ハイ」
「ぐえっ!」

すかさず、生温いペットボトルの口が押し付けられた。海堂の口の中に、苦いとも甘いとも酸っぱいとも言えない微妙な味が広がってゆく。海堂の顔は、今度は青くなった。

(の、飲むな…!飲み込んじゃいけねえ!頑張れ俺…!)

怪しい液体が喉へ流れ込もうとするのを、海堂は鼻呼吸をして必死に堪えた。

「さすが海堂、なかなか粘るな…だが」

乾は急にペットボトルを遠ざけると、いきなり海堂の鼻をつまんだ。

「ふがっ!」

ごくり。

その音は、海堂の耳にも、はっきりと聞こえた。

(の…飲んじまったー!)

「どうだ?海堂。まあ味は少々アレかもしれないが、気分がすっきりしてこないか?」
「ゲホッ、そ、そんな急に効くわけねえだろ…って、あ、あれ?」

海堂は目をパチパチと瞬いた。たしかに、さっきまで自分を苦しめていた頭痛とめまいが、引いているではないか。ぐるぐると回っていた視界もハッキリとして、あたりがふわりと明るくなった気さえする。

「い…乾先輩!な、なんか急に気分が良くなってきたっすよ…!」
「そうか」
「す、すげえ…!体まで軽くなってきたぜ…!」

めまいだけでなく、倒れた時の打撲の痛みも消え、海堂は今にも走り出したい気分に駆られた。

すごい、すごいぞ…!今なら、俺は空も飛べる気がする…!

次の瞬間、海堂の体は浮遊感につつまれ、あたりは白く輝いた。白い鳥が一斉に羽ばたき、空は抜けるように青い。

飛んでる…!俺は飛んでるぜ…!!ハハハ…飛んでる!!

「…って、え??」

ふと気がつくと、海堂は見なれない景色の中に立っていた。あたり一面に美しい花が咲き乱れ、目の前には清らかな川が…。

「こ、これって…つまりその…もしかして…」

恐る恐る振り返ると、はるか遠くで、誰かが自分に向かって手を振っていた。

「は…葉末…!」



「うーん、あの蛇がまずかったか…。やはり蛇の生き血は青大将に限るな」

海堂をそっと草の上に横たえ、その手を胸の上で組ませると、乾はノートに何やら書き留めて、その場を立ち去った。

残された海堂の顔には、このうえなく幸福そうな微笑みが浮かんでいた。



青春学園・海堂薫、敗退。



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乾海スキーの方、ごごごごめんなさい…!(今さら)
あたしは、乾と薫の間にあるものは、なんというかこう親子のような…
飼い主と子犬のような…そんな微笑ましい愛情がいいなぁって思ってるんですよ!
(だからなんだというのか)



モドル
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