Deep Sea/Text






ただ、それだけ




「おーい、手塚、客ー!」
 三年一組の教室の入り口から呼びかけた男子生徒の声に、それまで教室内で談笑していた女子がキッと一斉に振り返り、リョーマはわずかにたじろいだ。四時限目が始まる前の、休憩時間である。
 女生徒達は入り口に立っているリョーマの姿を認めると、再び何事も無かったかのようにおしゃべりに興じ始めた。
(女って怖いよな…)
 もし自分が女子だったらどうなっていたことか。リョーマは軽く肩を竦めたが、教室の後ろの方の席から立ち上がった手塚の姿を見て、思わずその背筋を伸ばす。
「越前。どうした」
 目の前に立った手塚の顔は、相変わらずリョーマのはるか上にある。ここ数カ月でリョーマも多少は背が伸びたのだが、まだ手塚を正面から見据えるには程遠い。
「ども、部長」
「…ああ。わざわざ教室まで来るなんて、何かあったのか」
 さり気なく「部長」と呼んだリョーマに対して手塚は極わずかに眉を動かしたが、口ではそれだけを言った。
 相変わらず素っ気無いなとリョーマは内心悔しくも感じたが、久しぶりに手塚の声を聞いた充実感の方が大きいのでとりあえずよしとして、前置きなしに用件を切り出した。
「あのさ、部長。今日…」


 今日は、手塚の十五歳の誕生日だった。

 リョーマはもう随分前からそれを知っていた(尤も、たとえ知らなかったとしても、朝練の時から女子テニス部が浮き足立って騒いでいたので、嫌が応にも気付いただろうが)。最初それを知った時は特に何の感慨もなかったし、むしろすぐに忘れてしまった。それが、リョーマにとって特別な日として認識されたのは、手塚を意識するようになった時からだった。
 テニスにおいて自らが越えるべき目標としての「特別」は、いつしかその意味を変えていった。目標として、壁として、ライバルとして、そして、ひとりの人間として。
 途中、肩と肘の治療のために離れている期間はあったが、それでも全国大会優勝へ向けて共に戦った日々は、リョーマにとって大きなものだった。
 リョーマが少しずつ手塚を意識しだしたように、もしかしたら手塚も、自分の事を少なからず意識しているのではないか、と思わせる瞬間があった。けれど表立っては何も変化がない、二人はそんな微妙な位置関係にある。
 とにかくなんらかの形で祝ってあげたい気持ちはあるものの、今の状態で何かをあげるのは大袈裟すぎるし、あまり自分らしくないような気がした。第一、手塚も自分の事を意識しているなどと、実はとんでもない思い込みという可能性もある。考えたくはないが。
 様々な思考を巡らした結果、リョーマが辿り着いた結論は至ってシンプルだった。

 手塚に、おめでとうと伝える事。
 それが今の自分にできる精一杯だと、そう思えた。

 そう決心すれば、あとはいつ、どこでそれを実行するかということだけである。簡単なようで案外むずかしいその問題に、リョーマは頭をひねった。
 朝はホームルームぎりぎりまで部活の練習がある。当然放課後も部活だった。たとえ部活を抜け出しても、おそらく手塚の周囲には友人なり、ファンの女生徒なりが群がっている事は容易に想像できる。昼休みにどこかへ呼び出す事も可能だが、校内で誰の目にもつかない場所というのは存外ないものだ。うっかりテニス部の誰かに見られてつまらぬ事を詮索されるのも面倒臭いし、それが乾や不二だったりしたら後で何を言われるかわかったものではない。
 それならむしろ、直接手塚のクラスへ行く方がリスクが低いのではないか、リョーマはそう思い至った。手塚のクラスには主だったテニス部員もいないし、他のクラスのレギュラーに会う心配もない。後輩であるリョーマが訪ねたところで不自然ではないし、リョーマ自身は上級生のクラスへ行く事にはなんの抵抗もなかった。
 ようやく計画をまとめたところで、リョーマはふと自問する。

 手塚が生まれた日だという、ただそれだけの事に、こんなに夢中になるのは何故だろう。

 明確な答えは出ないまま、十月七日を迎えた。


「…今日、誕生日っすよね?たしか」
「え?」
「違った?」
「いや、違わないが…」
 リョーマの直接的な物言いには慣れているはずの手塚が、珍しく動揺した様子を見せた。その真意を探るようにリョーマは手塚の目を覗き込む。
 予想外の台詞に驚いたのか…それとも。
 レンズ越しの切れ長の目からは何も読み取れなかったが、ここで挫けてはせっかく来た意味がない。リョーマは軽く一息おいてから、続けた。
「誕生日おめでとう、部長」
「…あ、ああ」
 手塚の曖昧な反応に、リョーマはいたたまれない気分になる。やはり、自分は他の大勢の部員と同様に、「後輩」のひとりなのかもしれない。それなら、わざわざ教室までやってきておめでとうなどと言われて、動揺するのは当然だ。
(やっぱ、堪えるな…でも)
 でも、手塚の誕生日を祝う事は出来た。それだけでも、充分なはずだった。
 リョーマがそう思った時、四時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。
「用は、そんだけ。それじゃ」
 短くそう言い残すと、リョーマは踵を返してその場を立ち去ろうとした。だが、
「…越前!」
 突然後ろからシャツの襟首を掴まれて、リョーマはぐえっとカエルの鳴き声のような声を出して咳き込んだ。
「な、なんすか、急に…!」
「あ、すまん…」
 慌ててリョーマの襟を離した手を意味もなく開閉しながら、手塚は軽く視線をさまよわせた。
「…何?」
「その…」
 背後の廊下を、急いで教室へ戻る生徒達がばたばたと走っている。だが、リョーマにはそんな喧噪が、とても遠くに感じられた。緊張しているのだと、思った。
 手塚はなおも言い淀んでいたが、やがて、まっすぐにリョーマの目を見て言った。
「ありがとう、越前」
 少し照れたようで、けれどはっきりと嬉しそうなそんな手塚の顔を、リョーマは初めて見た。鼓動が一段と速くなって、自分がちゃんと呼吸をしているのかどうかも怪しかった。
「…もう、教室へ戻れ。授業が始まる」
 固まっているリョーマの肩に、手塚がそっと手を乗せた。その感触に、ようやくリョーマは我に帰る。すでに、廊下には二人の他は誰もいなかった。
「うん…。じゃあまたね、部長」
「ああ」
 離れ難い気持ちを無理矢理押さえ込んで、リョーマは走り出した。階段の手前で立ち止まって振り返ると、まだ扉の前に立ってこちらを見ていた手塚と目が合った。手塚はややバツが悪そうな顔で、早く行けとばかりに軽く頷いて見せた。リョーマはちょっと笑って、今度こそ振り返らずに階段を駆け下りた。

 ただ手塚が生まれた日だという、それだけの事が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

 その答えはもう自分の中にあって、それがリョーマの心を熱くさせた。


 END


と、いうわけでなんとか間に合いました。おめでとう手塚。
コノミン、手塚を生んでくれてありがとう!そんな気持ち。
跡塚も書きたかったのだけど、やっぱりあたしにとっての一番はリョ塚なので、
リョーマに一番におめでとうを言わせてあげたかった次第です。



モドル
2style.net